日記

人みな無明あり

無明とは無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ない者」をいうのであり、縁起の法則という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は渇愛は生起させ、渇愛を条件とした五集合要素(五蘊…

僧侶(沙門・比丘)の在り方

僧侶よ 僧伽(サンガ・集団)を道標とすれども、決して軛とするなかれ。 僧侶とは多くの人々の為、多くの人々の幸福の為に全人生を捧げる立場に在り、その為に自身を高め修練に励むのであり、人々から厭離し孤高を気取る捻くれ者とか他人を顧ることなく自分…

カルトは世に蔓延る

以前「無知の涙」という永山則夫死刑囚の手記が有ったが、無知(無明)とは正しく人を盲目的にさせ主観的な欲得に執着させてしまうものである。 人が妄迷な迷信や神秘主義に取り憑かれたり得体の知れない神仏とか霊能者や預言者などを媒体(決して主体ではな…

人間だもの

相田みつおの「人間だもの」と言い切った人間の在りよう、自我意識、生き方、命の尊さなど、自分の本質的な弱さをも曝け出し生と死をも包摂する存在表現であり実に奥深く情緒と感性を刺激せずには於かない名言であるが、現代社会に於いては「人間だもの」を…

悉有仏性とは

仏教経典を一生に渡り読み続けようが、研究しようが釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解する事など到底できないだろう。釈迦尊(ブッダ)の教えは実践してゆく道を説くのであり、仏法を知識.情報として捉えるならば解脱も覚りも大悟や叡智や涅槃を現わす事など決し…

輪廻転生

輪廻のうた 作詞 多々方路傍石 [線路は続くよどこまでも]の節で歌ってみて下さい。 1,輪廻は続くよ~どこまでも~ 生と滅とを~ 繰り返し~ 遥かな過去か~ら~ 未来まで~ ♪ 進化の歴史を~ なぞりゆく~ ♫ 2, 輪廻は巡るよ~ いつまでも~ ♪ 激しい流…

人間の質・格・境地・器量

お釈迦様は目覚め覚醒された時(真理の覚醒)「自分の体現した真実は.見難く理解しがたく.賢者にしか把握できないだろう、それは世の潮流に逆らうものであり.高遠で深く微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見えないものである。」…

内観と内々観

「人の心のその中は仏も住むが鬼も住む」 人の心、そこには整合性もない無数の自己がすんでいる。 ダークサイドを含め.それら無数の自己をよく知り理解してゆく事で.心は自然に制御されてゆく。 自分の心とは自分を騙し誑かそうと走り逃げ回る.気まぐれで捉…

如来品正師 多々方路傍石語録ー5

【如来品正師 多々方路傍石語録】 経済社会という物質文明の潮流は、人々を欲得への誘惑により翻弄しながら盲目的な無知(無明の闇)を深めてゆく社会でもある。 物や情報は溢れかえるほどに豊富な社会の中で、豊かに発展して行く社会の中で唯、人の心だけが…

一切は存在欲

生命の本能的な渇き(渇愛・不安定状態の安定化への渇望)により、存在欲という不死への儚い幻想への執着でもある煩悩を生じ、その存在欲の衝動に翻弄され自分が思考し決定して人生を造りだしていると錯覚しているが、その実は潜在域に於いて存在欲の衝動によ…

世俗諦と勝義諦

龍樹(ナーガルジュナ)のニ諦によらず世俗諦と勝儀諦を定義する。 龍樹はいう。 「二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。その二つの真理とは.世俗の覆われた立場での真理と.究極の立場から見た真理とである」 仏教に於ける悟りと…

仏陀は何故、書物(本)を遺さなかったのか

釈迦尊(ブッダ)・キリスト・ソクラテスという何れの三聖人も書物(本)など残さなかった(識字・文筆・教養の総てを兼ね備えてるにも係わらず) 書物(本)として残すものは知識でしかなく決して智慧ではなく、概念や見解などの主観的認識に過ぎないものを…

耕作者

如来とは幸せの種を播く耕作者である。耕すのは人の心であり播く種は真理であり、結ぶ実は真なる幸せである。播く種と時期(季節)とを見定めて相手に即して、対機と機根とによって人の心を耕作する。 対機と機根とが具わらない土壌に種を播いても、決して良…

前向きな心には不運など存在しない

前向きな心には「不運」など存在しない。 全ての物事、何が幸運で何が不運なのかすら解らない事なのに、単に主観的な角度から捉えて「これは不運だ」「今は不運だ」と認識しているに過ぎずそんな認識(サンカーラ=汚穢)が不運を呼び込んでいるのではなかろ…

調った感性

よく調えられた観性は大楽を生じさせる。それは人々を魅入らせる世の中に溢れ返る罠(誘惑)が仕掛けられている「所有の次元」への必要以上の欲や執着を膨張させず「存在の次元」を顕現させる事でもある。 釈迦尊が真に説いて居らっしゃるのは世の多くの者達…

自他同時(旧)

「所有の次元」に於いて、人は本能(渇き)の衝動により生じる煩悩(存在欲)という生存の素因(存在エネルギー)を増幅させてゆく。存在に必要不可欠なものを欲する「存在の次元」への意思が、増幅された煩悩(増幅存在欲)により愚かにも「所有の次元」の…

自浄作用

「自ら悪を成すならば自ら汚れ、自ら悪を成さないならば自ら浄まる。 浄化も不浄も各自の事柄であり、人は他のものを浄めることは出来ない。 人は、自らの行為と智慧と理法と戒めと節度ある生活により浄められる。」 他力や外力により、人が浄められると説く…

無心(忘我)

先日、未だ沙弥である弟子の一人と対話した時に「解き放たれた心」について説いたのだか私の表現力の拙さも手伝ってか、理解させる事が出来なかった。仏教の基本的で日常的な姿勢は断妄想と気付きであると言えるが、集中する事により自分という意識を脱落さ…

仏教は信心を求めない

◆仏教の有名な言葉に、Ehipassika(エヒパッシカ)という表現があります。 仏教では「信じなさい」とは決して言わないものであり、「自由に、来て下さい、見て下さい。」といった意味で、束縛をしないということであり仏教とは信心でも信仰でもなく、自らよ…

孫悟空(自我の妄想)

「考え方」次第で自分や物事を変えてゆく事が本当に出来るのであるならば知識や見解や思想が満ち溢れる現代社会には苦や悩みや不満など根絶されているだろうに、現実は苦や悩みや不満は増え続け、恨みや妬みは呪いという形をとり、前向きで建設的な向上へと…

賢明と頑迷

釈迦尊の教えは真理である。故に永い時を経過した現代においても実に有益な教えであり、発展を遂げた科学と物質文化の中にあって複雑な社会構造によるストレスに晒され現実と理想とのギャップの中に生みだされる苦悩や不満や怒りが人の心を蝕んでゆく今の時…

本覚思想・真如思想はカルト思想

人がどんな宗教に帰依しようがどんな信仰を信じようが信教の自由であり非難したり批判したりするつもりもないが、偏った思想や誤った思想に染脳(洗脳)され折角の人生を迷妄の中を彷徨う決定邪見に陥らないよう、真実を知って頂きたく善良な者達に対して警…

無明(無知)・意と気

無明とは無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ないこと」をいうのであり、縁起という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は業(カルマ)を生起させ、業(カルマ)により欲求を生起させ…

心の余裕

宗教(宗ねとなる教え)とは本来.人の心を縛るものではなく、人の無明(本質的無知)や愚かな心を晴らして解放していくべきものなのに、残念ながら社会には、偏った思想や見解や理論で人の心を縛ろうとする宗教と言われる類のものが溢れ返っています…そして現代…

現象世界

この世界は現象世界なのである。 全ての事物は「生じては成長し変化し滅してゆく」という現象を永遠に繰り返しているだけなのであり、私とは生じ成長し変化しながら軈て消えてゆく途上にあるだけの存在なのであり、妄想された神や仏の差配によって現象が醸さ…

有学と無学

仏教でいう有学と無学とは学暦.教育.知識が有るか無いかという事ではなく、知識(スートラ.経蔵)、情報(アビダルマ.論蔵)、見解などを一つの頼り道標とし規律(ヴィヤナ)に遵い学び理解し修養に役立て実践してゆく階梯であり、その到達する処は世俗に縛られる…

感情と理性

思い通りに生きたい、思う存分に生きたい、心の望むがままに生きたい、心が欲するがままに、快きままに生きたいと彷徨う心は煩悩(存在欲)の衝動に絡め捕られ気分しだい感覚しだいで糸が切れた凧の如く流れ、行き着く先は、苦と不満を積み上げ自分勝手で碌…

死随観

生死は一如なり、 人は何のために生まれ、何のために生きるのかという素朴な疑問にすら答えることが出来ないままに無明(本質的な無知)の闇を抱えたまま盲目的に手探りで暗夜行路を行くが如く.しかし賢明に兎に角.生きているのだが、いつの間にか仕事や学業や…

信仰と宗教

世界には宗教に分類される幾多の信仰が存在しますが、その中にあって唯一無二の得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であると主張しなかったマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです… 故に仏教の中に信仰を探すならば人間ブッダと…

不治の病

私は病気なのだろうか?病院へ行ったほうが良いのであろうか?脳内麻薬の多量分泌病なのだろうか?人は元来、感覚中毒患者であるが、それとは明らかに異質な軽安な悦楽に、心は解き放たれ、安定化した心は法悦と至福なる快楽を生ずる。 解き放たれ安定化した…