人みな無明あり

無明とは無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ない者」をいうのであり、縁起の法則という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は渇愛は生起させ、渇愛を条件とした五集合要素(五蘊)は煩悩(生存欲)を生起させ煩悩(生存欲)に執着した五集合要素(五蘊)は感情を生起させ、感情に執着した五集合要素(五蘊)は自我(自意識)を生起させ、自我に執着した五集合要素(五蘊)は妄想を生起させ、妄想により捏造された意識や記憶と現実とのギャップにより、苦や悩み・不満や憎しみ・恨みや辛みなどを生成し深めてさえもいるのである。理想であると錯覚している妄想と現実とのギャップを受け入れる事が出来ないのは、煩悩(生存欲)が捏造した自我(自意識・エゴ)なのであり、無知(無明)なるが故であり、無知(無明)を真理に置きかえれば、全ては消滅する性質のものであり、ただ因果律の条件性に則って生起しているだけである事に気付き、盲目的な妄想の闇から脱して、真理や事実を発見してゆく事こそが妄想の呪縛から解放されて真の幸せや歓びや平安を体現してゆく道なのである。
仏陀曰く、「愚か者は、幸福を願い求めながら、無明なるが故に、いつも幸福を取り逃がす。」
人は苦と不満は容易に感じることが出来る。それは人間の本質が苦と不満から成り立っている存在だからである。しかし人は煩悩の欲求(衝動)に誑かされて真の幸せの感じ方を本当は解っていないのである。(無明)
所有欲(物欲・金財欲・権力欲・地位欲・家庭欲・名誉欲・・・・・)あらゆる欲に執着させてゆくものは存在の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)による五蘊(眼耳鼻舌身と色声香味触との出会いによる色受想行識)の精神作用により生じる概念が造り出す感覚と感情である貪瞋痴(不善処)による苦と不満(渇き・不安定)とがそうさせるのである。それら所有欲を満たすと一時的に快楽を得ることが出来、不安定な心が一時的に安定するからである。しかし所有欲によって得た快楽はいつまでも続かず再び苦と不満へと戻ってしまうから又、新たに欲するという苦と不満の中を流れ彷徨ってゆくのである。(死して彼岸の淵を彷徨う者は、この世でも流れ彷徨う。)
あらゆる所有欲に魅入られ執着しないためには欲が満たされば良いのだが「所有欲に満たされること無し」なのであり、真に満足を得る法は「足るを知る心」だけなのである。
盲目的に所有の次元に翻弄され苦と不満の中に人生を送り、悔やんで恐怖して死ぬ人を無明というのである。
無明とは「明かり(灯り)がない状態」つまりは不安定状態なのである。その不安定を安定化させようと物欲(購買欲・家族欲・所有欲・愛欲・金財欲・・・・)に魅入られ、小さく短命な灯りを都度々々に燈し続けて、本質的な苦や不満・不安・心配・恐怖を一時的に逃れながら生きてゆくのである。それ故に死が迫る来たるとき、それらの空しい灯りが一つ一つと消えてゆき、段々と暗くなってゆく心の中で後悔や恐怖や錯乱に陥り、人によっては神や仏に縋ろうともするのである。
死の直前には自分の一生に対する評価を下すと言われる。それは後悔を伴い、どれだけ出世したかや金儲けできたかではなく、「自分にはもっと大切で崇高な生き方という道があったのではなかろうか。」「一生のうち自分がどれだけ愛やぬくもりを他人と共有できたか」になるという。
仏陀は仰った「一切の苦悩は無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのだ」
無明について「雑阿含経典」が説き明かしている。
「無明とは、過去と未来を知らず、過去と未来の関係を知らぬこと。内なるものと外なるものを知らず、内なるものと外なるものの関係を知らぬこと、行為とその結果を知らず行為と結果の関係を知らぬこと。
仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬこと。苦集滅道(四諦)を知らず、苦悩を止める実践的方法を知らぬこと。
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か、有罪か無罪か、常住か無常かを知らず、良し悪しや浄不浄の分別、縁起を知らず、何も知らないこと。
眼耳鼻舌身意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず見ず、或は部分的にしか理解しないこと。このような愚かさを「無明」というのである。」