苦集滅道と楽集生道

四聖諦(苦集滅道)と正四聖諦(楽集生道)
●ドゥッカとは(苦しみ・痛み・悩み・迷い・惑い・儚さ・空虚さ・無情さ・哀しさ・怒り・不満・惨めさ・実質のなさ・愚かさ・怖さ・後悔・渇き・飢え・不完全さ・不安定さ・弱さ・脆さ・無知・無明など)
●苦楽は一如なものであり、苦楽の中道を以って、堅固で安定的な真の平安・歓喜・悦楽・静逸・自由・幸福は得られる
「苦は楽の種、楽は苦の種」
苦とは楽を前提条件として現れ、楽とは苦を前提条件として現れる。
○中道 一如なる物事を分別したものを
気持ち(主観)という。
中道とはヤジロベエの如く、分別を両極の錘(おもり)とし、両極の均衡による安定状態を中道と言う。
苦という感覚があるから、楽という感覚に価値観が見い出せるのであり、苦という対極的感覚が存しない楽とは楽ではなく単なる感覚に過ぎない。
楽という感覚があるから、苦という感覚を生じさせる(負担量)、楽という対極的感覚が存しない苦とは苦ではなく単なる負担と感じる感覚に過ぎない。
〇人は足ることを知らないから不足を感じ、貪り、痴愚、不満(三毒・不善処)を懐くのである。
○人は満たされてないから不満を持ち、充足を知らず、怒り、貪り、痴愚(三毒)ドゥッカ(苦痛)を生じさせるのである。
○どんなご馳走も空腹にはご馳走だが、満腹には苦痛ともなる。
例えるならば、無一物を具現化する私が、苦悩も心配も不安もないのに、世の中の多くの人達は決して僅かとは言えない収入を得て居ながら不満や不足ばかりで、心が満たされる事がない。
これは無一物や断捨離などを肯定している訳ではなく、満足感・充足感・快楽・幸福感などは所有の次元の事物の多寡に依るのではなく、無明(無知)の闇から目覚め、真実(真理)に基づいた智慧により、自分が真の心身の主人となり自分を制御(コントロール)して堅固で永続的・実相的な満足感・充足感・快楽・幸福感を獲得する道であると言っているのであり、煩悩の欲の暴走、渇愛(渇望)の衝動、外部依存症などに打ち勝ち、乗り越え超越してゆき、解き放たれ解放されてゆく道があるのだと説くのである。
要は心の在りよう次第なのであり、
●無ければ無いで、楽しく満ち足りて暮らせる人は、有れば有ったで楽しく満ち足りて暮らせるもの。
●有れば有ったで、まだまだ不満だ不足だと苦悩しながら暮らす人は、無ければ無いで、不満や不足は深まり、苦悩や苦痛の中を暮らす事となる。
一、他人と比べて、自分は惨めだと嘆く愚かさ。
一、社会に惑わされ実際には不必要な物事に浪費している愚かさ。
一、自分の身の丈に合わない生活を送っている愚かさ。
一、浪費癖などの生活習慣から抜け出せない愚かさ。
一、感覚的、享楽的に、自我(エゴ)の欲求に主導される愚かさ。
その他、錯覚や思い違いに気付く事が出来なかったり、乗り越える事が出来ずに、自分に甘いか自惚れている
●無明だから生存の素因である煩悩の欲を暴走させ貪ることで渇いた心を潤し、不安定感を安定化させ、快楽の感覚を得ようと付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物(金財・地位・物欲・名誉・評価・承認・勢力・権力・見栄など)に魅入られ、主観による感覚的要求に翻弄され追い求めるのだが、たとえ享受したとしても感覚的な要求は更なる要求をしてくるだけであり、決して充ち足りる事などない一時の僅かな快楽と多くの苦と不満の中を生きる事なるのは、無明だから本当の幸せや歓びや満足が理解できず気付けないである。
苦集滅道という無明を原因とする日々から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、楽集生道という智慧に基づく、幻に過ぎない所有の次元の事物の対極にある存在の次元(生存の素因である煩悩の純粋な要求による存在的価値)に於ける、一瞬々々の内に存在するする実存的で堅固な幸せ・歓び・快楽・平安・充足を見い出し、集めて満たされて生きる事が、心の浄化へと継がり、他者への慈悲心へと継がり、叡智を得て涅槃(ニルバーナ)へと到達するのであり、仏典を百万回読もうと、唱えようと、暗記しようと、知識として蓄積しようと、能書きを並べ建てて論争しようと、有学では到達出来ない、自燈明・法燈明による無学により啓ける至高なる到達への道なのです。
●これらは煩悩(存在欲)の欲求を満たす事など決して出来ないことなのに、人は煩悩の欲求に随い、いつも何かを探し求め、いつも何かを考え続け、いつも何かをしていないでは居られない。
煩悩(生存欲)の要求が永遠の存在への空しい渇望である事も識らずに煩悩(生存欲)の要求に応えれば、煩悩は更なる要求をしてくる。
つまりは決して満たされる事のない煩悩(生存欲)の果てしない欲求の中を、不満や苦しみや痛みや、悩みや怒りや、惨めさ哀しさを創りながら生きているのである。
だから現実社会を眺めてみれば不満により他人を殺めたり、不満により他人と争ったり、不満により盗みを働いたり、不満により他人を騙したり、悪事は大概、不満により成されているのである。
仏教徒が近ずいてはならない三つの道がある。
一つは苦行の中に、幸せを探す愚かで価値のない道。
一つは享楽の中に、幸せを探す愚かで価値のない道。
一つは偏った思想の中に、幸せをさがす愚かで価値のない道。
真理の実現は、あらゆる間違った束縛や見解を解放し捨離し、智慧によって成される。
自己解放は人が自ら真理を実現することによって得られるものであり、神や仏あるいは外的な力などから従順な善い行いな信仰心に対する報いとして与えられるものではない。
四聖諦(苦集滅道)はこの世界の本質である苦(ドゥッカ・不安定)を説いているがドゥッカを体現する道ではなく、正四聖諦(楽集生道)を体現してゆく道なのであり、悦楽の中に智慧の大悟を実現してゆくものなのである。
「ドゥッカは渇望により生起し、叡智により消滅する。」
渇望も叡智も、五集合要素(五蘊)の内に含まれる。
〇旅に病み、床に伏するとき、山河を駆け巡る健康な身体と足腰に
感謝と有難たさに想いが至り健康体の素晴らしさを奥深く味わう。
〇諸国を根無し草のごとく流浪する日々を送る人が、安住の地を得て雨露を凌ぐ、憩う安息な日々の甘露なる平安を奥深く味わう。
〇食に困窮し、空腹に堪えかねる苦しさを忘れない人は一杯の粥に感謝し有難く奥深く味わえる。
〇戦火や争乱、災害や事故に見舞われれば、平穏で平和な日々の有難たさに感謝し、歓びと悦楽を奥深く味わえる。
〇死に際して命の有難さに想いが至り、生きる事の目的や価値が見えてきて身にしみて命を奥深く味わえる。
凡人は大概そうして生きる歓び本質を奥深く味わうことが出来る。
智慧ある賢者は、そうした縁に巡り合わずとも真理や本質を明確に理解している。だから今の瞬間、瞬間を感謝し歓び悦楽の中で奥深く味わう。だから賢者には迷いなく執着なく、何処でも何時でも、明るく楽しく元気に自信にあふれ生きているのである。
愚者は他人と比較したり、他人の欠点に捉われ自分の欠点に気付かず、過去や未来に拘り今に留まることが出来ず、無い物を強請り、他人の目や評価や承認に執着し、在りもしない縄で自らを縛りつけ煩悩の要求に振り回され満たされる事なくドゥッカを造りだし、心から有難く感謝することがない。