頂乗仏教学舎  路傍の如来 多々方路傍石

如来品正師 多々方路傍石のブログ

路傍の如来 多々方路傍石 語録-11

放逸と不放逸
放逸とは散漫であり、不放逸とは集中であるが、外事象への集中は放逸である。
外事象への集中とは常ならざる無常なものへの依存であり、短命で一時的な強烈な感覚への渇愛を生じさせる。
ギャンブル依存症.薬物依存症.[所有の次元の事物]への執着などの.その何れも放逸な煩悩が感官(眼耳鼻舌身意)を外世界に彷徨わせて、短命で一時的な不放逸感(安定感.集中.喜び.安心……)への依存.渇愛に他ならない……つまりは[不満の塊]だからなのであり、つまりは無明なままだからであり、つまりは煩悩(従業員)が.知性(主人)を押し退けて切り盛りしているからであり、つまりは足るを知らないからであり..つまりは満足は既に具わっている事に気付く智慧がないからであり、つまりは放逸だからであり、つまりは自分にとっての真の価値観が見出せていないからであり、つまりは感覚的な空しい刺激への依存によって一時的な安定を得ながら辛うじて生きているだけに過ぎないのであり、つまりは他人や社会の価値観に惑わされ.迷いと虚妄の中にいるという事であり、つまりは真の自分の価値観とは自ずと自分を不放逸にそして集中させ安定させる掛け替えのないものであり、つまりは他人や社会から押し付けられるものでも比べられるものでもない、つまりは貴方という存在の本質なのであり、つまりは貴方は貴方自身を本当は理解していないからであり、つまりは不放逸(集中)の安定性.多幸感を求めて、放逸(散漫)に不満と不安と不足感の中を盲目的に手探りで生きているからである。
必然と偶然
世の全ての現象は、偶然と取れば.全ては偶然であり、必然と取れば全ては必然である。
偶然と取るか必然と取るかは確率的な現象の何処を捉えるか次第に過ぎず、
例え確率的には0.0000001%であっても偶然を装って現象するのは必然であるが、森羅万象の摂理に則り、ゼロはゼロでしかなく確率的にゼロ%なものを、確率的には有り得ると説く者を.カルト信者とか不思議嗜好者とかパラノイアな者と呼ぶ
 
仏教を行ずる
南無妙法蓮華経と唱えても、それは日蓮宗..天台宗を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は法華経も観音経も知らないのだから。
 
南無阿弥陀仏と唱えても それは念仏宗を行じているのであって、 
仏教を行じてるとは言えない…
お釈迦様は浄土経を知らないのだから。
 
瞑想を行じても それは達磨禅を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は達磨禅を知らないのだから。
 
呪術や真言を唱えても  それは真言宗を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦は秘密教を知らないのだから。
 
それぞれが我が宗派は.お釈迦様以上のものだと嘯くならば、それは仏の教えを誹謗する邪教を行じているのであって、
仏教を行じているとは言えない…
お釈迦様は、この深淵で.難解で.捉え難い真理を理解出来ない者達が、きっと仏の教えを歪めるだろうと予見されているのだから
如来品正師 多々方路傍石 語録
人生を変えたければ、運命を変えなさい
運命を変えたければ、性格を変えなさい
性格を変えたければ、習慣を変えなさい
習慣を変えたければ、行動を変えなさい
行動を変えたければ、言葉を変えなさい
言葉を変えたければ.考え方を変えなさい
人生は、運命によって造られ
運命は、性格によって造られ
性格は、習慣によって造られ
習慣は、行動によって造られ
行動は、言葉によって造られ
言葉は、考え方によって造られる
運命を変えるとは、考え方を変える事
 
◎宿命と運命について
宿命とは[宿された命]を言うのであって、[もっと善い家に産まれたかったとか、男に生まれたかったとか、金も要らなきゃ女も要らぬ.私ゃも少し背が欲しい…とか]今更、どうしようもない.変えられないものを指すのだが、運命とは[運ぶ命]を言うのであり、時空.性格.意志.考え方などで何れも変えて行けるものなのです。

言わば白隠禅師の「讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし」の如し。
福が来たから喜ぶのではなく.喜ぶから福が来るのであって、不幸が連鎖するのも悩むから連鎖するのだから。

苦は愚心につき従う

●心清ければ悦楽なり

自分が世界だと思い込んでいるものは、実は心の反映(投影)なのであり、たとえ大勢の仲間と居ようが.心が空しければ孤独な世界だと感じ、心が楽しければ花は歌い.雲は微笑み、心が哀しみに包まれていれば.海も風も咽び泣いているだろう。
正しい想念に基づいて考え.話し.行えば.悦楽は自ずと我々に付き従う。
世界は想念の産物なのだから。

 

如来品正師 多々方路傍石語録ー10

お互い様とお陰様

如来品正師 多々方路傍石 語録
他人様を 馬鹿だ阿呆だと 罵るならば
罵る方が 馬鹿阿呆らしい。
拙僧も 口に出さねど 馬鹿阿呆らしい

日本人なら.凡その人なら知っているだろう
平家物語の冒頭部分」
祇園精舎の鐘の音、
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理を現す
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
猛き者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
いろは歌
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
方丈記の冒頭」
ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて
久しくとどまりたるためしなし
世の中にある人とすみかと
またかくの如し…
何れも.常ならざる世の中[諸行無常]を
謳っている、そしてこの無常法が理解出来れば、凡そのドゥッカ(苦悩.心痛.儚さ.哀しみ.空虚さ……)から解き放たれるのだが、知識としては日本人のほぼ全員が知っていながら、本当には理解していない人が殆どだから、世の中には不満.欲呆け.吝嗇.怒り.無責任.承認欲.自我.無明などで溢れ返り、魅入られ.捉われ.拘り.執着しながら、無常法に翻弄されてゆく。
無明な人は、無常法は厭世的だと思う。
無常だから、イノベーションは生まれ、
己の愚かを知らず.変われない人は.常に愚かなままだが、己の愚かを知り.変化精進して賢者となるのも.常ならず無常な世界だからこそ。

如来品正師 多々方路傍石 語録
涅槃(ニルヴァーナ)は大楽の中に顕現する
大楽は、静逸の中に顕現する
静逸は、満ち足りた心の中に顕現する
満足は、足るを知る心の中に顕現する
知足は、智慧の中に顕現する
智慧は、八正道の中に顕現し、
叡智は、無明の闇を晴らし.目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれ(解放)、虚妄を捨て去り(捨離)自由な水の一滴となりて顕現する


如来品正師 多々方路傍石 語録
銀も黄金も珠も何せむに 勝れる宝 人徳に及かめやも
子を財と執するは愚かにて 親は人徳の師匠たれ
如来品正師 多々方路傍石 語録
新興宗教の教祖と言われる連中の宣う不可思議体験などというものは、凡そ嘘八百か.パラノイアな妄想か.欲深い瞑想に現れる自己暗示の反映に過ぎないのだが、現実逃避的な不思議に魅せられる無明な人達を捕り込んで勢力を築くものだが、幾ら何でも連中が称する何百万人とか何千万人という無明な愚か者は居ないだろう、(否、そう願っている)・・・笑
如来品正師 多々方路傍石 語録
無常を理解しているつもりで居る.本当には理解できて居ない人は変化生滅に嘆き悲しむ、無常を理解するならば何が去り何が訪れようと当然として心が動ぜぬもの。無常に悔いるとは、金貸しから借金しといて、返す段には金貸しを人非人だ!鬼だ!悪魔だ!と誹る人、いずれ人生の終わる日が必ず訪れる如し
如来品正師 多々方路傍石 語録
能書きとなってしまっている釈迦尊(ブッダ)の説かれた教えの一つが[優等劣]の比較.分別を無くす事だと解釈されている点であり、待機話法にしても.その人のレベルに沿った説法を心掛ける意味に於いても優等劣は推し測らねばならない
この教えは間違った自分自身への評価への戒めであり、自分は他人より優れている・等しい・劣っていると言うような確証の裏付けのない妄想的な邪推はするなという事であり、例えるならば真の金持ちはキラキラで派手な出で立ちなどはしないもの、金持ちを主張しているような、外見的.印象的な金持ちとはエセか成金に過ぎないし、兎角、知識や学歴などを披露したがる連中には教養や智慧がないものである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
鈴の音の 仔猫の声に 癒やされて
親猫のギャングの如き ドラの声
如来品正師 多々方路傍石 語録
運命を変えたければ、性格を変えなさい
性格を変えたければ、習慣を変えなさい
習慣を変えたければ、行動を変えなさい
行動を変えたければ、言葉を変えなさい
言葉を変えたければ.考え方を変えなさい
運命は、性格によって造られ
性格は、習慣によって造られ
習慣は、行動によって造られ
行動は、言葉によって造られ
言葉は、考え方によって造られる
運命を変えるとは、考え方を変える事

如来品正師 多々方路傍石 語録
不動明王
不動とは足腰重く.動かざる事ではなく
艱難辛苦に塗れようと、動ずることなく泰然自若と落ち着いている人の事
そんな人こそ不動明王なのではないでしょうか。
令和の世を迎えても尚、今だにお空の上とか天界に居るのだと嘯く.モーハやバーラから目覚めましょう。
[ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン]
[ノウマク サンマンダ バザラダン センダン マカロシャダヤ
ソハタヤ ウン タラタ カンマン]
如来品正師 多々方路傍石 語録
二つの道ありと言う、一つは利得への道.
もう一つは安らいへの道
しかして全ては安らいへの道のみであり.
安らいの為に[所有の次元の事物]を要するか.要さないかだけ。
仏の教えとは[所有の次元の事物]を要さず.堅固なる安らいの世界を恵ぐもの。
愚かで無明な人々は安らいを求め.利得を欲し.渇望して所有の次元の事物へと向かい、却って少しの安らいと多くのドゥッカ(苦)の中を彷徨ってゆく。
如来品正師 多々方路傍石 語録
死というゴールへ向かって歩む.この道を
笑って生きるも一生、泣いて生きるも、悩んで生きるも、
怒って生きるも一生なれば、楽しく生きた者の勝ち
人生…雨降る日あれば、天気の日もあり、
風吹く日あれば、そよぐ日もあり、
山があれば、谷もある、
雨に動ぜず、風にもに動ぜず、
山にも谷にも、動ずることなく、
天気の日にもまた動ぜず、
ゴールへ向かって一歩一歩と踏みしめて
如来品正師 多々方路傍石 語録
凡僧は道に阿り 愚僧は道に惑い 名僧は道をつくる
如来品正師 多々方路傍石 語録

施与の功徳

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托鉢のブッダ
施与の功徳
①施与の功徳
②托鉢行
③運 気
④心がスゥーと軽くなってゆく唱文
⑤福徳を招き寄せる唱文
●施与の功徳
「一切の生きとし生けるものは.幸福であれ.安泰であれ.安楽であれ」
邪道が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ
邪法が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ
衆生、心.浄めたもう.貧しき心.浄めたもう、
賤しき心.浄めたもう.愚かな心.浄めたもう
衆生、徳を積みたもう.
衆生.無明を晴らしたもう.
衆生.軛を解きたもう.
一切万象.自業自得 一切万法.因果応報
「世に与える者と貰う者があれば、あらゆる功徳は与える者に果報として現れる。
この理法により聖者への施与は功徳が増す」
如来への施与.寄進は満願を成就させ.福徳を生じさせる。

物や金を人に分け与えたくないという吝嗇(物惜しみ)もまた心の病の一つです。
そういう人は施すという法則を実行しない不善を積み上げているのです。
多くの人は.これは自分が稼いだのだから.自分だけのものだと思い込んでいますが、それは違うのです。
それは預かっているものであって、自分だけのものでは.決してないのです。
例えば、日本ではそれなりの仕事をすれば、それなりの給料を貰えます。
しかし.それは日本人がこれまで頑張ってきたから.こういう恵まれた状況が生まれたのであって、貴方の努力だけで得られた理由ではないのです。
日本も少し前までは資源も乏しく.人々も貧しい生活をしていたのです。
戦争にも負け、戦後の荒廃した焼け野原となった国土という.どん底から立ち直ってきて今日の繁栄を築きました。
それは誰でもない私達の先達のお陰であって今、貴方たちが.それなりに恵まれた給料を貰えるようになったのも、先達の苦労のお陰である事に感謝しなければいけません。
世界を眺めても恵まれた国ばかりではなく後進国や紛争国など、皆さんの何倍もの仕事をしても.その日の食事を購うのが精一杯で生きている人も居るのです。
でもそれはその国の状態なのですから仕方がない事でもありますが、皆さんの今の幸福は先逹の努力による発展と平和のお陰であり、決して自分の努力だけで得た理由ではないのだということを忘れてはいけません。
全ては縁起(因果)という関係性の上での出来事(現象)ですから、この金は自分のものだから、自由に.自分勝手に使うのだと、縁起法(因果律)を省みない使い方をしていると、お金は貴方に縁のないものとなって行ってしまう法則があるのです。
今のあなたが稼いだお金は長い長い年月の中で多くの人々の苦労と努力という[お陰様]と.人々の関係性の上に成り立つ[お互い様]の上に、預かった(授かった)ものなのですから。
[お陰様で][お互い様で]というのは、この世の自然法則を意味している生き方なのです。この自然は、草木が一本もなければ生き物は呼吸もできませんし.食も成り立たず、又.大地や水がなければ生きていけないでしょう。動物が生きていなければ、自然法則は崩れてしまいます。すべてが自然法則に逆らわずに生きているのです。人間だけが勝手にそれを壊し、自然法則に逆らって生きているのではないでしょうか。
必要な時に、必要な人に[お陰様で]とか[お互い様で]という行ないは自然法則であり、そう思わない人間は法則に逆らって生きていると言わなければなりません。
人間が幸福になりたいと願う心もまた自然の法則です。誰でも不幸になりたいという人はいません。動物であろうが何であろうが、心のある生命体はみんな幸福になろうとしています。そうであれば自然法則に従う人こそ自然に幸せになるものであり、それも自然法則なのです。
自然法則を勝手に破る人は、苦労という法則に向かってしまうのです。自分が貰ったものでも自分のものですと思わずに、「これは皆さんのお陰だ、生きとし生けるもののお陰だ皆、お互い様という関係性の上に存在しているのだという生き方こそ自然法則に逆らわないものなのです。こういう心で生きていると必要なときに何も嫌だとか損だ.などという貧しい発想を持たずに人のために使うことが出来るし、そのような人は例え自分の全財産をあげても不思議に貧乏にはならないものなのです。自然法則によってその人は多くの人から支えられ、誰からも愛され、いつも幸福でいられるのです。

「自分に気付き、良い生体波動を調える。」
幸不幸や運不運は紙一重、呼吸により自律神経を制御コントロールするのに、吸う息より吐く息が長くなると副交感神経のスイッチが入り体の緊張を解しリラックスさせ眠りにも入り易くなり(安息)、逆に吐く息より吸う息が長くなると交感神経のスイッチが入り体が緊張し活性化してゆく(活息)ように、人の幸不幸や運不運も同じようなもので、人に与える事を積極的に行い与える方が貰う事より多くなってゆくと幸運のスイッチは入り況ゆる物事が幸運へと向かい、与える事より貰う事に積極的になり貰う方が増してゆくと不運のスイッチは入り況ゆる物事が不幸へと向かうものなのである。
この理法は科学的な実験や調査でも証明されている事実であり、悪行事も同様である。
因縁起果報.一因に縁らず一法に立せず、
然し明々歴々、一因一法を晦まさず
人々が悩み苦しみ怖れ哀しみ不満の中を生きるのは無明ゆえに自我の欲望に魅入られ捉われ拘り執着しているからであり「自分のものだ」としがみついたり「もっと欲しいもっと欲しい」と貪ろうとしたり失う事を怖れながら生きていて、そんな自我の欲望により心が貧しく賤しく不浄になって苦や不満の中を満たされる事なく生きているのである。
施与の功徳とはそんな自分を目覚めさせ乗り越えさせ心を依り貴い処へと向かわせる因縁となり果報として自我の欲望という妄想的な苦しみ悩み怖れ哀しみ不満から解き放たれる因縁果報の起因(功徳)なのである。
■作為ある者の仕掛ける罠は巧妙で、愚かな人は信じ込まされ、未熟な人を型に填め、無明な人を脅し込む。
真に仏道を理解せんと欲するならば、二乗を学ぶは当然であり、真に到達せんと努めるならば、二乗を修する必要がある。
仏道は其々が偏って成り立っている片極は自分に偏り、一方の片極は空論に偏って居る、そして両極の安定する地点こそが中道であり正道だからである。
正道への阻止を目論む作為ある者は、二乗を学ぶは地獄に堕ちる悪業を積むと脅し宣う教義を拵えて、此方は稲米.石蜜、彼方は粟稗.雑穀と空虚な権威を創り出す。
そんな自我に捉われた偏りこそが衰退の道であるとも気付かずに。
釈迦尊(ブッダ)の御言葉 抜粋経集
■サンユッタ・ニッカーヤ(雑阿含経)
★施与とは、水を必要としない心の沐浴である。
(貧しき心を清めたもう。卑しき心を清めたもう。狭き心を清めたもう。)
★乏しき中から分かち与える者は、法を実践する事になるだろう。
百千の供犠をなす者の百千の供犠もその様な行ないを為す者の功徳の百分の一にも値しない。
一日一万扁、読経する者の百日間に勝る行ないである。
★施与、善行に努め励むことは現世の利益と来世の利の両つの利を保つ。福徳を生ずる行ないに努め励む事を聖者は褒め讃える
★毀るべき者を拝して讃えるべき人を毀る者は.その口と行ないとによって禍いを重ね.その禍いの故に福楽を受ける事が出来ない
生存の素因(五蘊)より生じる煩悩を滅し、神々をも超えた境地(涅槃)に梵住する菩薩、供養を受けるに相応しい人を供養するその人に対して清らかな信を起こして供養するならば、此の世でも彼の世でも来世でも、安楽を受ける功徳を積む行為である。
■マハーパリニルバーナ・スッタンダ(大般涅槃経)
★有徳にして自ら制せる菩薩行者を供養したならば其処に居る神霊
たちは汝らに施与の功徳を振り向ける。
★広大なる大楽を追い求めるならば、福徳を生じる行ない(四徳)に努め励め。四徳に努め励む者は生命(長寿)と健康と美貌に恵まれ、天界に生まれて来世は高貴な家に生まれる。
神霊の瞑々の加護(冥加)を受けている者は恒ねに幸運を観る。
〇四徳とは、誠実.自制.忍耐.施与である
★施与する者には功徳が増し、果報あり
この世の富は捨離してゆく物、施与したる善行という財を持ちて逝く、賢者は福業を行ぜよ。それは死後にも伴いゆく財宝なり。
■ニディカンダ・スッタ(伏蔵経)
★施与は因縁ある者に対する義務にして、餓鬼には多いなる供養がなされ比丘には力を興なう。是の如く慈悲ある者は因縁ある者の為に清浄にして適したる施与を興え。施したる者は善果を得る。
■ラタナ・スッタ(宝 経)
★八輩の人は四双の人であり、真なる仏弟子であり施与を受けるべき人である。彼らに施したならば大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は法の内にある。この真理に依りて幸せであれ。
■スッタニパータ(至上聖典・経集)
★他の人々に何ものかを与える事により人々を助ける事が出来る。
(「自分の物だ。」と言って握り締めるのではなく他の人を思い遣り慈しみ、他の人に何かを与える処に人生の深い歓びがある)
■ダンマパタ(法句経)
★怒りには怒りを捨てる事によって打ち勝ち
悪い行ないには善い行いによって打ち勝ち
物惜しみに施しによって打ち勝ち
虚言には、真実によって打ち勝て
★貪欲な者、吝嗇な者は天界へは趣けない。愚者は分かち合う事を讃えない。しかし心ある者は分かち合う事を歓ぶ、それ故に来世は必ず幸せである。愚者たちは彼方の岸の淵(死生界)迷界を彷徨っている。来世は償い購うに生きる事となる。
★水を少しずつでも集めるならば水瓶も満ちるが如く、少しずつでも施与をし善を積むならば、やがて福徳に満たされる。
★水を少しずつでも集めるならば水瓶も満ちるが如く、少しずつでも物惜しみ悪を積むならば、やがて災禍に満たされる。
★百年間、月々千回ずつ祭祀を営むより、自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養のほうが百年の祭祀を営むよりも勝れている。
■イティヴッタカ(如是語経)
釈迦尊(ブッダ)によって是のように語られた。
施与,調御,節制に果報あり、聖者への功徳は一万遍の読経に値する。
■マンガラ・スッタ(吉祥経)
★施与を為し、浄く行ない、親族を慈護し、非難なき生業に従う。
これぞ最上の吉祥なれ。
■托鉢(頭陀・菩薩行) 
辻立ち.連行.門付け.行脚.勧進
衆生に縁ある餓鬼への供養を行ぜさせる為に、我らは住家の外に、又は街の四辻に立ち或いは各自の家に行きて戸口に立つ。
餓鬼には多いなる供養がなされ比丘には力を興なう行である。
小誦経.七品.戸外経(施餓鬼経)
★托鉢によって自分の得た物を軽んじてはならない。   
★譬え、得たものが少なくとも修行僧が軽んずる事がないならば、怠る事なく清く生きるその人を神仏も称賛する。
★媚びてはならない。
★世間話をしていてはならない。
★当然として平然に施与を受けよ。
★策して施受を求めるな。
★人々と親しく交わるな。
★荒々しい言葉を以て敵対的に応えてはならない。
★罵られても敬礼されても平然とした態度で臨め。
★忍辱は最大の苦行であり、涅槃は最高の悦楽である。布施.持戒.忍辱.禅定.精進.智慧(六波羅蜜)を奉行せよ。
★修行僧は時ならぬのに歩きまわるな。
★六根(眼耳鼻舌身意)を刺激する六竟(色声香味触法)の誘惑に対する欲望を慎み、感受(感覚)を制御せよ。
★施しを得たのは良かった。得られなかったのも又良かったと思え
釈迦尊(ブッダ)も有難う感謝します。と返答なされたと言われる
★自ら知って己を制し、自ら知って多くを語らず。それが聖者の行である。
★四無量心と四念処、七覚支と八正道を修養せよ。六波羅蜜を育成せよ。
人格に勝る財なく、慈悲に勝る宝なし。
★生きるとは生じ続け変化し続ける事と識り変化生滅に捉われる事なく安寧を得よ。
★修行僧は自分の粗雑な思考を治めとり何ものにも依存せず、束縛の軛を完く解き放ち何人をも謗るな。謗られても謗るな。
★問われたならば答え、問われなければ答えるな。
★真摯で誠実ではない礼なき者に返答するは能わず。
★対機説法を心掛け相手の機根に合わせた真理(真実)を語る。
相手の知的好奇心を満たす為に説かず、相手の苦しみ悩み悲しみを抜く為、癒す為、目覚める為に説く。
★人は座して誹り.他言を誹り寡黙を誹るものであり.世に誹られざる者なし。
身を制し、語を制し、意を制するは賢者なり
★たとえ暮らし貧しくとも、心貧しくなるなかれ。
★この世に誠実、真理、堅固、施与、忍耐に勝れたものなし。
★貪欲.吝嗇.心が不潔な者は清める事が至難であり功徳を積めない。
★身の装いは、どうあろうとも行ない静かで心修まり心身を調えて慎み深く行ない正しく、生きとし生きるものに対して慈悲を施す人こそバラモンであり托鉢遍歴僧とも言うべきである。
バラモン(僧・比丘・沙門)が修行に熱心であれば、世の中は栄えて幸福となる。
バラモン(僧・比丘・沙門)は読誦を唱えて報酬として得たもので食うてはならない
★托鉢僧は施与で僅かな糧を得て、法施で大いなる功徳を施す。
★雑阿含経(サンユッタニッカーヤ)
僧侶(比丘)とは修養する出世者であり、
修養するが故に僧侶(比丘)なのである。 
剃髪し粗衣を身につけ托鉢で暮らしているこのように貧しい生活を送るのは負債や 生活苦による理由ではなく、我らの心身を蝕む苦悩(ドゥッカ)や煩悩(存在欲)から、
解き放たれて自由になるためであり智慧の真理(真実)に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)衆生に功徳と慈悲を施すために此のような
生活をおくるのである。
永久(とこしえ)の平安を得る為に.永久(とこしえ)の平安を伝える為に修養するのである.成功や名声の為でも人の上に立つ為でもなく 真理(真実)を悟り衆生にこよなき幸せを齎す為に此のような生活を送るのである 
■托鉢(行脚)とは
自欲を離れて人々が健やかに在る中に歓びを感じる事であり、人々の平穏.安心.喜び.幸せが自分の歓びを満ち足らせると同時にその平穏.安心.喜び.幸せが不安定で脆く常ならざるもので在る事も識っている故に無明(本質的無知)に生きる人々を憐れみ請われれば真理(真実.現実.実相)を説き、堅固なるこよなき幸せへの道を指し示すのである。
★托鉢修行者とは決して苦行の行者ではなく真の幸せの具現者.真の勝利者に向かって辻に立つ者であり沙弥を連れ立つ連行とは似て非なるものなのである。
それは何の具現なのかと言えば、人は皆んな自分の幸せや喜びを追い求めながら生きていて幸せや喜びを求めない人など倒錯者以外には存在しないのであり、これから自殺しようとする人であっても死の中に幸せや喜びを見い出していると言えの、苦行する人も苦しみの中に幸せや喜びを見い出そうと行ずるのである。
この大宇宙という時空でさえ不安定性(ドッカ・苦)から安定性(スカ・楽)へのミクロ及びマクロの全領域における安定化運動により成り立っているのである。
無明(本質的無知)な人々は付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物に魅入られ捉われ執着して所有の次元の事物を生きる目的物だと勘違い.錯覚して煩悩(存在欲)の要求に翻弄され追い求め続けるが.それが決して満足させる事のない諸悪とドゥッカ(苦しみ.不満)の根源である事に気付かず.心を賤しく.貧しく.欲深く.無明に.盲目的にさせ.真の幸せや歓び快楽(スカ)からは遠ざかり、やがて振返った時にドゥッカ(悔い.空しさ.儚さ.実質のなさ)に行き着くのであり、存在の次元の事物(存在的価値.精神性.人としての質.格.境地.度量.柄など)の実現こそが真理(事実.現実.実相)の具現であり、真の幸せ.歓び.満足.平安.静逸.悦楽などは所有する事によっては得られず所有の次元の事物とは、却ってドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.怖れ.哀しさ.悔い.淋しさ.脆さ.弱さ.空しさ.儚さ.実質のなさ.みじめさ.欲望.不満.重荷.無常.無明など)や妄想.欲望.自我を造り出してしまうものであり、真の幸せ.安心.歓び.満足.静逸.快楽.安定などは捨て去り捨離し、解き放ち解放され、軛(くびき)縛りから自由に生きることに依って得られる物である事を指し示し具現化させているのであり真の幸せ.真の勝利を実現した托鉢修行者を如来と称するのです
托鉢修行者そして如来は世界一の幸せと歓びの具現者で在らねばならない。
⚫安寧は三猿によりもたらされる。
孔子曰く、礼に在らざれば之を見ず.聞かず.話さず。
ガンジー曰く、悪を見ず.聞かず.話さず。
仏教曰く、人の愚かを見ず.聞かず.話さず.相手にせず。
如来の無量.無尽.堅固なる真理の光明を供養し功徳を積む者は大いなる福徳を生じさせ、来世でも善い処に生まれる。
★参照「真の勝利者
https://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/65644091.html
■運気(開運招福)
福受け尽くさば、縁必ず弧なり
福とは巡り巡って大福として戻って来るものであり、既に受けてるあらゆる幸運や福徳に気付かず味わえず感謝出来ないで欲望(煩悩)や不満ばかりを募らせて生きて行けば大きな災いを被る羽目に陥り易くなるので、既に受けているあらゆる幸運や福徳に気付き味わい幸運や福徳に感謝し、自我意識に陥らず自分ばかりに捉われず他人を思いやり、金銭なども自分のものだと握り締めるばかりではなく
他の人に分かち与えたり他の人の役に立つ使い方という心の豊かさが運気を上げてゆくもなのです。
★★例えれば金財や自分に捉われている姿は丁度、運気.運命の梯子を両手で強く握り締めて身体を辛うじて支えている姿そのものなのです。両手を一度に離せば梯子から転げ落ちてしまいますが、かと言って両手で握り締めたままでは上へ昇って行く事は出来ません。そして握り締めたままではやがて握り締める横木も朽ちたり細ったり又は疲れと痛みとで運気.運命の梯子からずり落ちてしまうだけのジリ貧へと陥るものなのです。
情けは他人の為ならず、掛けた情けはやがて何かしらの形で報われたり助けられたりするものなのですから。
一縁に依らず一法に立せず、然れども明々歴々一縁一法を晦まさず     
■我らは平穏に楽しく生きよう    
 不満だらけの浮世で不満を持たず
 不条理な世の中で条理に遵い
 病んだ社会で病むことなく 

貪欲な世界で無欲恬淡に  
 我らは平穏に楽しく生きよう
 物事に心を乱されず    
 精神充実による悦楽を活力にして
 光音天の神々のように 
 我らは平穏に楽しく生きよう 

 平安で安楽な生き方が如何に
 甘美でこよなく幸せであるか
 我が身を以て具現していこう
 成功.名声や人の上に立つ事を欲せば
 不条理で貪欲で病んだ俗世では   
 大衆迎合的に偏ったり間違った
 真理(真実)から遠退いた
 妄迷.倒錯的な事を語らねばならず  
 無明の闇を深め盲目的に生き、
 必ず不満.憎しみ.苦しみ.妄迷.後悔
 空しさに出会うだけ。        
 決して目覚め乗り越え真理(真実)に
 到達することは出来ない。
 平安.悦楽.静逸.安堵.歓喜の中で
 楽しく自由に生きてくために、成功
 名声.人の上に立つ欲望から目覚め、
 乗り越え、捨て去り離れ
 涅槃(ニルバーナ)に梵住する。
■唱 文 
●自分に拘り捉わる自縛から解き放たれ、心がスゥーと軽くなってゆく唱文
人々が平安で在りますように。
人々が幸せで在りますように。
人々が息災で在りますように。
人々に喜びが在りますように。
良い一日を過ごしますように。
人々の悩み苦しみ怒り不満が、
無くなりますように。    
人々の哀しみ悔やみ恨み辛みが
消え去りますように。    
私はそう願い今日を生きよう   
■福徳を招き寄せる唱文         
自分を嫌う人々が、  
平安で在りますように。
幸せで在りますように。
息災で在りますように。
喜びが在りますように。
良日でありますように。
悩み苦しみ怒り不満が、
無くなりますように。    
哀しみ悔い迷い恨みが、
消え去りますように。   

自分を憎む人々が、   
平安で在りますように。
幸せで在りますように。
息災で在りますように。
喜びが在りますように。
良日でありますように。
悩み苦しみ怒り不満が、
無くなりますように。    
哀しみ悔い迷い恨みが、
消え去りますように。   

自分を解さぬ人々が、  
平安で在りますように。
幸せで在りますように。
息災で在りますように。
喜びが在りますように。
良日でありますように。
悩み苦しみ怒り不満が、
無くなりますように。    
哀しみ悔い迷い恨みが、
消え去りますように。   

教えを異にするものが、 
平安で在りますように。
幸せで在りますように。
息災で在りますように。
喜びが在りますように。
良日でありますように。
悩み苦しみ怒り不満が、
無くなりますように。    
哀しみ悔い迷い恨みが、
消え去りますように。   

生きとし生きるものが、  
平安で在りますように。
幸せで在りますように。
息災で在りますように。
喜びが在りますように。
充実して在りますように。
●メモ
条件により生起する性質のものは、条件により消滅する性質のもの(現象)
堅固な無為なるものか有為なる生起か現象的に過ぎないものか見定める為の辻立ちでもある。

三毒の解毒剤

煩悩とは何ぞや、

これ[百八つ]とも[数千]とも言われしが、
是れ、唯、[存在欲]に収束せり。
人を悩ませ.苛み.苦しませる.ドゥッガへと陥らせる元凶….無明なるが故に.湧き出で.また染入るアーサバー(汚穢)とは何ぞや、
これ煩悩の渇望に従いて欲を生じさせる人の身心を蝕む猛毒である。
ではこれら猛毒の解毒剤は有りや無しや
路傍の如来、応えて曰く
是れ八正道と死随観による煩悩の制御(コントロール)なりと…
この至高なる説法を賜いし者達、皆.程なく悟りて.解脱し.涅槃(ニルヴァーナ.大楽)へと至れり
有りがたや    路傍の如来   合掌
●煩悩

煩悩の欲求に幾ら応えた処で、更なる要求をしてくるだけで、決して満たされ.足りる事がない。

逆に、煩悩の要求を抑制しコントロールしてやれば、心の波打つ湖面は.次第に鎮まってゆき. 鏡面の如く澄み渡り、心は真理(真実.事実.現実.実相  )を映し出す。

三毒

永遠に存在する事を夢想する煩悩(存在欲)は、存在にとりプラスだと感じる物事は引き寄せたいと貪り(貪欲).存在にとりマイナスだと感じる物事は遠ざけたいと怒り(瞋恚).存在にとりプラスでもマイナスでもないと感じる物事は不満(痴愚)を生じさせる.この煩悩に主導された三毒に.無明な人は翻弄されながら、ドゥッガ(苦.心痛.迷い.悔い.儚さ.不安定さ……)を深めてゆく

 

●全ては存在欲(煩悩)
●死随観
●三学
八正道    戒律の章(戒)
八正道    禅定の章(定)
八正道    智慧の章(慧)

臨終シュミレーション

生死は一如なり
生あれば、死あり
死あれば、生あり
死により、生に価値を見出し
死なき、生は苦なり

愚かな人達は、知っいるという事と、理解しているという事が全く違う事に気付けない。
知っていると錯覚していて.その実.何も理解していないから、物事すべてが想定外となる。
自分もやがては.必ず死ぬ事を知らない人は居ないだろう。
しかしそれは他人事として知っているに過ぎず、自分も死ぬ事を本当は理解できて居ないのだ。
自分もやがては.必ず死ぬ事を知らない人は居ないだろう。
しかしそれは他人事として知っているに過ぎず、自分も死ぬ事を本当は理解できて居ないのだ。
だから多くの人達は自分の臨終に際し.また老いを感じ.死というものが間近に迫っている事に気付く時、大切な時間を随分と無駄に費やしてしまったと悔い歎き.過ぎ去りし時を哀しみ.自分の人生に[これでよかったのだろうか、他にもっと適う生き方があったのではないだろうか?]などと忸怩たる疑問を持ったり、今更どうしようもない事を悩んだり儚んだりするのが常である。
折角の人生の一日.一日を、そして瞬間.瞬間を、納得できる生き方、日々是好日と奥深く味わう生き方をするには、一刻も早く.臨終シュミレーションにより[死随感]を得て、意味あり.意義あり.価値ある人生を送って頂だきたい。

凡そ、苦や不満(ドゥッカ)というものは、現実(事実.真実.実相)を受け入れる事が出来ず、現実を受け入れようとしない愚かさが生じさせるのであり、現実を受け入れ.更にその現実に留まることなく.乗り越えてゆく道が、仏道なのである。
苦楽も一如であり、苦楽は表裏一体であり、[苦あれば楽あり.楽あれば苦あり][楽は苦の種.苦は楽の種]
人は楽を引き寄せ、苦を遠ざけようとするが、もし苦のない楽が在るとしたら、それはまさしく楽の姿に化体した苦(飽き)に他ならず、必ず苦へと行き着く事が理解できないように、死生観に於いても.生を引き寄せ、死を遠ざけようとし死を不浄なものと考え、死について深く思惟する事を避け、自分には死など訪れない他人事のように錯覚しているから、大切な時間を浪費してしまい:後の悔やみとなるのだ。
臨終シュミレーションの臨終のシュチエーションは多々あるだろうが、先ず死というものを定義すべきであり、私は死は眠りと捉える。
普段の眠りは朝が訪れるが、死という眠りは朝が来ないだけ、今日の眠りに朝が来るか来ないかは、自分の差配の外にあるのだから、我れは関せず、ただ訪れし朝を有り難く味わうだけ。
それは若くとも老いていても同じなのである。
臨終シュミレーションの一例として、今、病院で主治医から余命一日の通告を受け、残りの命があと一日だと言う事実を冷徹厳俊に受け止め、自分が望む本当の生き方に気付いてほしい。
たぶん無駄にスマホゲームに嵌っている場合ではない事にも気付く筈…
偶成<朱熹>
少年老い易く 学成り難し
一寸の光陰 軽んず可からず
未だ覚めず池塘 春草の夢
階前の梧葉 已に秋声

一切は存在欲

煩悩の欲求に幾ら応えた処で、更なる要求をしてくるだけで、決して満たされ.足りる事がない。
逆に、煩悩の要求を抑制しコントロールしてやれば、湖面の如く波打つ心は.次第に鎮まってゆき. 鏡面の如く澄み渡り、心は真理(真実.事実.現実.実相)を映し出す。

生命の本能的な渇き(渇愛・不安定状態の安定化への欲求)により、煩悩(存在欲)という.不死(永遠の存在)への儚い幻想への執着を生じ、その煩悩の衝動に翻弄され.自分が思考し.決定して.人生を造りだしていると錯覚するが、その実は存在欲の衝動.感覚を主体条件として五集合要素(五蘊)によるパンニャ.サムカ-ラ(記憶の残滓・ラベル付けされた記憶・煩悩)と識別された意識(ヴィンニャ-ナ)を結び付けたり.回転させたりしながら捏造された概念を.表層域の思考が言語化した.感覚的.感情的な主観を.自分の見解であり事実であると誤認し執着して妄想させているのである。

それは物事を理性的(客観的理解認識能力)に.在るがままには認識して居る訳ではなく.不安定な意志に従って.全体性を分断し.分別したフォーカスをあてた心象に対して主観的な見解を造り出しているだけなのである。生存の素因でもある煩悩(存在欲)により.人は生かされているとも言え.「意欲」もやはり煩悩(存在欲)により生じているのである。渇き(渇愛)とは言い換えれば「不安定状態を安定化させたい」「渇きを潤したい」「不足を補いたい」という本質的な意志であり、惑星が恒星(太陽)の周りを廻っているのも、銀河が回転し続けているのも不安定状態からの安定化運動であり、心も不安定状態から安定へと向かおうと五蘊(ご集合要素)をグルグルとゴチャゴチャと廻すのであり、生命はこの不安定・不足を苦と捉えて.空気が不足すると苦しいから息を吸い、吸ったままでは苦しいから息を吐き、空腹で苦しいから食物を摂取し、摂取したままでは苦しくなるから排泄する代謝により身体を維持安定化させているのである。存在欲とは「存在していたい」という渇きを安定化させるために永遠の存在へと向かう働きであり自分の存在の為には他の物事を破壊してでも取り除きたいという妄想は本質的な渇き(渇愛)から発せられる永遠への存在欲なのである。この不安定な存在を安定化させようと増幅させた存在欲の衝動が貪瞋痴(不善処)なのであり「貪」とは存在の為に肯定的だと判断する物事を貪らせ「瞋恚」とは存在の為に否定的な物事だと判断すると激怒させ「痴愚」とは存在の不安定の不満に縛られる事なのであり、存在欲(煩悩)を増幅させてゆくと所有の次元の事物に執着させる感覚に主導され錯覚し、自我(エゴ)を形成してゆき苦や悩みや不満、怒り、怖れ、渇き、憂いなどを自らの妄想により造りだし深めてゆく事に気付かないのは、この世が不安定な苦と無我と無常な世界であり変化生滅により成り立ち変化生滅しないものは存在出来ない世界であるという真理を煩悩(存在欲)は理解出来ないのである(煩悩とは主観的であり、また理性.知性とは客観的に理解認識する能力である)故に存在欲(煩悩)は苦に縛られ、自我を捏造し無常を受け入れる事が出来ないのである。存在欲が貪瞋痴(不善処)の執着を増長させてゆき感情に主導され自我により捏造された主観により生きる時、存在欲とは永遠の存在という幻影に向かって盲目的に彷徨ってゆくのである。

生命エネルギ-の本質的な意志が存在の状態の把握・巡回を行い状態を認識する時に発生させるのが意識(潜在意識・気)であり、細胞は微生物から人類に至るまで其々の脳に当たる器官を構成し、電気エネルギ-により潜在識の概念(気)を思考や意識化する器官を生じさせている。(人間は潜在意識(概念・気)を表層で言語として思考化させ具現化させる事により理性(客観的理解認識能力)を飛躍的に発達させて来たのであり、他の生物と人間とを決定的に隔てているものこそ、その発達させた理性.知性なのである。        
安定化したい、渇きを潤したい、存在していたいという本質的な意志による天地自然の法(物理法則、因果法則という摂理・ダルマ)により時空を形成するエネルギーは加速度的に膨張し続け、物質は安定化に向かい引き合ったり離れたり爆発し変化したり、周っているのである。(人の心身も大宇宙も同じ摂理のもとに同じ運動である変化生滅を繰り返しているのである。)
人の心とは、細胞という物質を生命へと変える生命エネルギ-とは別に、人間という存在(結び目)を構成させる生命エネルギ-により生じているものであり、人の身体とは生命エネルギ-により構成された約60億の細胞の集まり(結び目)と、その集まりを結びつけている生命エネルギ-により造られていて、その生命エネルギ-の本質的な意志の現状巡回・把握認識作用により意識(潜在意識・気)を生じさせ、本質的な意志である渇き(渇愛)により存在欲(煩悩)を生じさせ、存在欲(煩悩)により概念を生じさせ煩悩の作る概念により感覚や感情を生じさせ、表層に於いてその潜在概念や感覚や感情により主観を生じさせ、主観により自我を生じさせ、自我意識により妄想を生じさせ、妄想により捏造された識別(分別)を生じさせているのであり、それらを理性という客観的な理解認識能力により偏りや間違いや愚かさや未熟を気付かせてくれている。
この真理を明確に理解し、無常を悟り解き放たれるならば流転する生滅の流れ(輪廻)からも解き放たれる。

「愚か(無明)なる故に、因縁を蓄積(行)し、名色(所有の次元)に向かい六処(眼耳鼻舌身意)を駆使して接触(触)を欲し、感受(受)させるものは渇愛(愛)に執着(取)させる有(存在欲)である。」 十二縁起

存在欲から逃れられない(生死の軛)から、この世界に生まれてきて苦しみや悩みを造りのであり、無明なる煩悩(存在欲)の性質に気付き見極め制御する実践的方法が八正道.不善処.死随観への気付きによる智慧の顕現なのである。(世俗諦の悟り)

煩悩とは渇き・所有欲・承認欲・性欲・食欲・・・・など存在を維持(現状維持)・防御・獲得しようとする存在欲なのである。

存在欲は存在を維持(現状維持)・防御・獲得しようと欲求していてたえず不安定な状態に在り、しきりに潜在識へ向かって存在欲の衝動を発する。潜在識はその衝動を意思として表層の思考域へと発し、思考は五官(眼耳鼻舌身)を駆使して外界に存在の維持(現状維持)・防御・獲得に必要と考えられる物事を探し求める。眼で何かしらを眺めるのも、耳で何かしらを聴くのも、鼻で何かしらを嗅ぐのも、舌で何かしらを味わうのも、体で何かしらを触るのも、すべて存在欲がそうさせているのである。

本当は現象的な存在に過ぎない、自分という存在(生存)に対して.プラスだと感じる物事に対しては.引き寄せたいと[貪り・貪欲]を生じ、またその自分の存在に対してマイナスだと感じる物事に対しては.遠ざけたいと否定し[怒り.瞋恚]を生じさせる。(感情とは存在欲の衝動である)

そして自分という存在に対して.マイナスにもならないがプラスにもならないと感じる物事に対しては[不満や痴愚]を生じさせる、この貪欲・瞋恚・痴愚を三毒と言い、人をドゥッカへ導く、不善処に含まれる。

その感情により意識は存在欲の要求に従順に応えるべく自我を生じさせ自我は存在欲の維持(現状維持)・防御・獲得をすべてに優先させ、存在への渇望により自己中心的で自分勝手な主観により思考し自分の都合で情報を捏造し認識するようになり、他を排除,破壊してでも存在欲を満たそうとする。故に存在欲の主導による現状維持や防御、獲得の欲求により得られる「所有の次元」からは自身を向上させる可能性や創造力の顕現は見られず現状維持や防御へと向かい煩悩の好む貪瞋痴の獲得しか生み出さない。「感情(貪瞋痴)により生じた自我とは存在欲なのである。」

そして他の生命と人類とを隔てるものが飛躍的に発達させた理性であり理性に基づいた思考能力なのである、本能に発した存在欲なのであるが、客観的ば理解能力と客観的な判断能力を有し、感情を監視、制御する存在の維持・防御・獲得の為に、拠り良い選択を導くものなのである。

心の一切は存在欲であり、存在欲とは「生き続けたい」「死にたくない」としう意思であり、つまりは決して適わぬ願望に基づいて物事を判断しているのだから、必ず苦へと行き着くのである(一切皆苦)。

人は何かをする時、常に存在欲を安定化させる方へと向かうのである。

何かをする時、存在欲をどの様に、どの程度、安定化させ得るかという結果(成功)を期待しながら行動していて、結果が予期していた以上ならば大成功と大喜びし、期待どうりなら成功と喜び、期待したものと違った結果では失敗したと悲しみ、期待に反して存在欲に対してマイナスな結果であれば大失敗と怒り嘆くのである。だから心はいつも失敗しているのである。

ただ立っている時も、歩いている時も、何かをする時も、横になっている時でさえも、行動に対する結果(選択に対する成功)を期待し、期待した通りの結果を得られず、不本意、不満、苦、そして怒りなどの失敗を繰り返しつつも、自我による捏造した認識により対象物が悪であり、自分は被害を被った如き主観を積み上げているのである。

五蘊(対象物→感受→想念→意思→認識)という精神作用に於ける期待と結果について、電車に乗車中の揺れた時に例えると、対象(電車が揺れた)→感受(揺れた)→想念(経験や知識.記憶.予想などにより揺れへの対処を想念する)→行蘊(意思により対処する。結果への期待を同時に抱く)→認識→結果(成功・失敗)に対する感情を生じる。という、つまりは本質的には現象としての結果に対して、心は多くの失敗をしているのだが確実に認識して省みることがなければ、失敗は繰り返され、誤魔化す事や隠す事や体裁ばかりが先行し、感情はそれにより不本意、不満、苦や怒りを抑えながらも積み上げて行くのである。

「所有の次元」とは本質的には「客体の次元」であり「手段の次元」なのであり決して主体でも目的なのではなく、生きる真の目的は「存在の次元」に在り「存在の次元」に生きる真の目的を探すべきなのだが、本能(存在欲)に誑かされ「生きる目的は金を稼いで金持ちになる事だ」とか「生きる目的は高い地位を得て人々から尊敬される事だ」とか「生きる目的は好きな音楽や景色を愛する事だ」とか「素敵な女性と幸せな家庭を築く事だ」とか本質的には「手段(客体)」でしかない「所有の次元」に対する物事や感情を「目的(主体)」の如く錯誤しているのである。別に手段を否定しているのではなく「無くては成らないもの」かもしれないが「決して目的(主体)ではなく手段(客体)でしかない」ことを自覚できないから「所有の次元」に翻弄されて行くのである。

人は何かに縋って頼ってやっと生きているから「所有の次元」へと彷徨うのである。(この心理過程を説くのが十二因縁である。)

次という瞬間に何かしらの期待を抱くことなく、在るがままに成るがままに受け入れるならば不本意も不満も苦や怒りも生じることなく、物事(現象)に対する存在欲の衝動に勝利(つまりは成功)して行けるのである。

存在欲から形成された自我は五官(眼耳鼻舌身)を駆使して、外界に何か存在欲を満たそうと何か物事を探し求めるが、その存在欲の要求にいくら応えた処で、更なる要求を繰り返し一時的な快感や喜びと多くの苦や悩みや不満を生じさせながら生きてゆくのである、それを存在欲の要求を抑制してやれば、次第に心は澄み渡り存在欲に誑かされ翻弄されていた事にも気付くことができ、真の生きる目的である「存在の次元」も見えてくるのである。

誰しも失敗は望まず、成功を期待しているが「自分の成功とは、他人の失敗の上にある。」「他の犠牲の上に自分の存在がある」ということを心に留めて頂きたい。

そして成功や失敗に拘るのも存在欲に捉われているからであり存在欲により物事に対して「思い入れ(執着)」を抱き、思い入れ(執着)の深さにより物事に重要度や価値観を生じさせ計り比べ妄想しているのである。

存在欲を抑制して全ての物事を在るがままに観るならば全ては等しく重要であり全ては等しく価値あるものである事にも気付ければ、真の自分というものも在りにままに観ることが出来るでしょう。

人はこのように存在欲に発し、物欲・承認欲・所有欲・健康欲・性理欲・食欲・睡眠欲・・・・・等を生じさせ物事を行い、必ず結果を期待する。

結果が期待通りでなければ怒り、嘆き、悲しみ(存在にとってマイナスという感覚)、期待通りの結果を得れば喜ぶ(存在にとってプラスという喜びの感覚)。

それらの喜びにしろ怒りにしろどれ程に浸ろうが一時的なものでしかなく、

やがては存在欲の「生き続けたい」「死にたくない」という本質的な目的は何も解決も達成もされていないのであるから、またぞろ存在欲は安定を欲して衝動を発し続け、潜在識、表層意識は五官を駆使して「所有の次元」に彷徨い、存在を維持し防御し獲得しそうな物事を捜し求める、多くの人はこの存在欲の衝動に振り回され、突き動かされ、繰り返し続ける事が、人生であると錯覚して一生を費やしてもやっぱり死んでゆくのである。

真に理性(客観的理解能力・判断能力)が向かうのが「存在の次元」なのであり、「存在の次元」とは生まれてきた存在が、存在として在るための生き方の選択であり、この現象世界に於いては本質的には存在とは「今の瞬間」にしか成立していないのであり過去も幻影であり未来も幻想でしかなく「存在の次元」に於いて生死の軛を乗り越え、今という瞬間に没入してその甘露なる命の実相を味わうだけであり、他の見解は実は妄想か空論でしかなく、今という瞬間の安楽を味わい次の瞬間への執着がなくば自ずと、存在欲から解き放たれる。生死の軛を乗り越えたれば苦や不満は生ぜず、怖れも迷いもなく、解脱して大楽(法悦)なる涅槃を得る。

そして涅槃の安楽を梵住という。

無責任社会

無責任社会
昨今の災禍を見ていて、痛感するのが責任の所在を曖昧にして責任転嫁したり.明らかに人災であるにも関わらず想定値を超えた想定外な天災だと総括しようとする責任感の欠如を感じずにはいられず、この無責任な社会が、クレーマーなど無寛容な人々を蔓延らせてゆくのは、責任感や隣人愛や慈悲とかは、精神性や智慧に由縁しているのであり、所有物の多寡に依らず.先ず自分が満たされ.足るを知っている必要があり、自我意識と我欲と自愛に縛られ.魅入られている人には.不可能事とも言える。

これは産業や政治や社会にも言える事であり.日本という国が[無責任社会]への道を直走っている事への啓発でもある。 今の日本の産業界の衰退を含めて、この問題の原因(病巣)には幾つかの要素があり、先ず一番目が宗教観の喪失であり.二番目が制御の効かない欲望的社会の到来であり、三番目が西欧からの虚飾されたグローバル化への染脳(洗脳)であり四番目が気付かずに進行している差別社会(階級社会)の構築であり、社会の風潮としても多くの人々は、感覚や感情に刺激を与えてくれる物事を欲するあまり、感覚や感情に刺激を与えてくれるもの事であれば、何の確証もないものでも囃し飛びつくから、罠を張り巡らそうと策する者達は.責任感も何の確証もないまま、尤もらしく.本当だ、真実だと宣う、[信じる者は騙される]無責任社会なのではなかろうか。

●宗教観の喪失
宗教観の喪失は[慚愧]を喪失させ.自我意識を深めさせるたとえ得体の知れない神仏への信仰であっても[大いなるものに見られている]という自己を律し戒める意識効果があり、宗教観を持たない人は無慚.無愧となり、増長して.天地自然を軽んじ.また社会や他人への謙虚さ.配慮.礼義.状況判断.責任感に欠け自我.独善的になり易い。

人間は本質的には不安定(ドゥッカ)な存在であり、何かしらに依存し.拠り処(精神的支柱)とし摑まってなければ一時的でも安定して生きる事が出来ない、だから宗教観という拠り処を喪失した人は、心の安定の為に.宗教の代替として金銭や物や地位…という所有の次元の事物を拠り処とし信仰. 崇拝しようとするが、却ってそれら所有の次元の事物の無常な本質により翻弄される事となる。

●制御の効かない欲望
自分の心と向き合う事なく、煩悩と欲望の赴くままに翻弄されれば、人は決して満たされる事がない。ひとつの煩悩的欲望を叶えたとしても煩悩は更なる要求をしてくるだけ、無常な世界では心の安らいさえも得られない。

自分が、自分は、という[自分]に拘り捉われた欲による自我意識の暴走は、世の中に溢れ返り.垂れ流される.社会の排泄物が如き情報や知識や刺激に汚され、自分勝手.自己中心的で無責任な人間を増殖させ、それは同時に.常ならず変化してゆくこの世界では、思い通りになる時ばかりではないのだから.結果として不満を溜め込み.やがては暴発させる原因(病巣)となってゆく。

真に満足を得る為には、そんな欲望や煩悩を制御コントロールできる自身を育成してゆく事だけである。

社会では計測ができるからと認知能力を重要視しがちだが、人間の価値は認識能力(学業.記憶力.知識...)ばかりではなく、[情緒]を含めた人間性.勤勉性.協調性.精神性.安定性.真摯さ.社交性.利他性.責任感.創造力.根気.自主性.積極性.柔軟性.忍耐力など,様々な要素があり、人間の価値について仏教では[中道]と表現してますが.認識能力(論理性)と情緒(精神性)とのどちらにも偏らない[総合力]により生じる人格(品格)が自分自身を高め.浄め.救ううのだという教えであり、そんな中道思想[総合力]が失われつつあると言えるのではなかろうか。

因みに[論理・認識能力]に偏ると人間性を欠いた非情な存在となり、情緒に偏るとお人好しな能天気となる。

また現代病とも言える情緒不安定な躁鬱病(双極性障害)や悲観的な自殺願望なども、この両極の不安定さから引き起こされる。

グローバル化の罠
これも本が一冊書けてしまう程の内容を一項目として言えば、かって西欧が太刀打ち出ず怖れた日本の官民が一団となった[護送船団方式]と[終身雇用制]の解体であり、グローバル化という自由貿易を装った保護貿易主義による[バベルの塔作戦]であり、官と民のそれぞれを取り込み.意思疎通を阻害して各戸攻撃により撃破したのである。

●差別社会(階級社会)の構築
これも欧米(特に米)による陰謀というか染脳(洗脳)による処が大きいと思える。

私もアメリカ人や白人の中には精神性の高い人も多く見受けられ嫌いではないのだが、彼らは本質的には差別主義者であり、心底にはイエローモンキーという認識がぬぐえず、白人至上主義による差別意識に縛られている、過って黒人や有色人種や肥満体などをストレートに差別していたのだが、今の世ではそれが許されず教養を疑われるから、新たな差別対象として.自分たちのビジネススタイルこそグローバル.スタンダードであり、違うスタイルを差別.攻撃しようとしたり、スモーカーを悪人のように仕立てて差別.攻撃するように、世論形成.心理誘導.染脳(洗脳).プロパガンダをしている。

元々から島国根性とも言われる閉鎖的な差別主義者が多い日本でも、それに倣って階級社会(差別社会)を復活させつつあるのだ。

●自己解放.自己改善.自己昇華

運命を変えたければ、性格を変えてゆかねばならず、
性格を変えたければ、習慣を変えてゆかねばならず、
習慣を変えたければ、行動を変えてゆかねばならず、
行動を変えたければ、言葉を変えてゆかねばならず、
言葉を変えたければ、考え方を変えてゆかねばならない
考え方を変えるには、今の自分を変えて行かなければならない
今の自分を変えて行くには、今日まで造り積み上げてきた自分にカタルシスを体験させなければならない