[釈迦尊(ブッダ)の言葉]
物事は心に基づき.心を主とし.心によって造り出される…もしも汚れた心で話したり.行ったりするならば.苦しみはその人に付き従う.荷馬車を引く牛に.車輪が付いてるゆく如く…
物事は心に基づき.心を主とし.心によって造り出される…もしも清らかな心で話したり.行ったりするならば.福楽はその人に付き従う.影がその身体から離れない如く…
苦しみや悩みから脱却する為に必要なのは、対象の排除などではなく、物事を正しく見ることが大切なのですが…
しかし人間にとって.物事を正しく見る事が案外と難儀であり、中々出来ないものなのです…
社会にあっても学校の中でも或いは仲間達との間に於いても、一人でも嫌う人がいると落ち着かないという経験があると思います…
しかし、その人は単にそこに居るだけであって別に自分に危害を加えるわけでもないのに…
それは結局のところ[嫌い]と思う自分の感情が[あの人が居なければいいのに]という見方で見てしまっているだけに過ぎず、自ら態々、苦しみや息苦しさを生じさせてしまうわけです…
そうすると、自ずと自分の感情は相手に伝わり間違った見方がなければ本当は自分にとって最大の理解者であったかもしれない人とも互いに傷つけ合い、最後には苦しみ合う結果になってしまう事さえあるのです…
つまりは無明な主観が造り出した根拠のない妄想に自らが縛り付けられ、物事に対して正しい見方が出来ない事の一例なのです…
「認識する主体が変われば.認識される客体も変化する」
仏教の唯識に[一水四見]という言葉があります水といっても四つの見方に見えるという意味ですが、つまり同じものでも見る立場や心の持ちようで違うように見えてくるという意味です…
① 天人には水が清浄な透き通ってガラスのように見える
② 人間の私たちには、そのままの水に見える。
③ 魚たちには住み家と見える。
④ 餓鬼には燃えた血膿に見える。
これは[天人][人間][魚][餓鬼]という立場で[水]を見た場合、それぞれ異なって見えることを例えたものですが、また現実的に捉える場合でも.例えば砂漠の真ん中で喉が渇いた人にとっては水は黄金に勝る価値があるかと思えば、水害地の人達には水は恨めしいものでもあり、水に生かされも.苦しめられもする、状況.環境.時間や心の在り方により.その見方は違ってゆくのですから…
これを私達に当てはめてみると、人間は皆んな生まれ育った環境や境遇や時代、受けた教育.経験.知識.情報や考えてきた事など様々で、その上.性格.嗜好など興味を持った事などにより.人それぞれの独自の世界観や価値観があります…それが一つの「物差し」となって、色々な物事にそれぞれの認識を与えているのです…
ですから自分が見ている世界は、他人には違って映っているかもしれませんから、同じものを見ていても、意志をそちらに向ける人もいれば気づかない人もいるのではないでしょうか…
ですから世界と呼んでいても…一つの世界に皆んなが居るのわけではなく、人それぞれがそれぞれの世界を造り上げ.人それぞれの世界をそれぞれの見方で見ているという事なのです。
つまり人それぞれが各々の世界を持っていて、それぞれの世界で暮らしていて、何処か.何かしらの接点で共有を試みて[絆]とか[繋がり]を造り出すしているのです…
人生の中で、いろいろな苦しみや悩みに出合った時、それらの原因の[自分の世界は正しくて.他の世界は間違っている]という自己中心的な自我意識による.ものの見方が大半であり、ものの見方を自分自身が変えることによって、今まで見えなかったものが見えて来たり、気付かなかったことに気付かされたりして、小さな世界が大宇宙的世界へと拓かれていくのではないでしょうか…