頂乗仏教学舎  路傍の如来 多々方路傍石

如来品正師 多々方路傍石のブログ

自由な世界

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すぐ横に.自由で穏やかで美しい安らぎの天地があるというのに、何故に多くの人は心の牢獄に捕われた囚人生活のまま.自由な天地を見る事も味わう事もなく心の牢獄の中で.大切な一生を終えてしまうのだろうか…

その心の牢獄は.自我意識を経格子(たてごうし)に.欲望への愛着を横格子にして人の心を牢獄の中に押込め、人の心を貧しく殺伐とさせてゆく処。

井の中の蛙は大海を知らぬように、水中の魚は狭い水中を世界だと思っているように、心の牢獄に捕われている囚人達は、牢獄を世界だと勘違いしているのだろうか、すぐ横に自由で穏やかで美しい安らぎの天地があるというのに.自由な世界を.見る事も.感じる事も.味わう事もなく.囚われの身のまま流れてゆく… 如来、憐れみ法を説く

天上天下唯我独尊

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「天下天下唯我独尊」とお釈迦様が、誕生されて直ぐに七歩あゆまれ仰ったと.実しやかに伝わっていますが.仏教を多少でも理解していれば.それが有り得ない.偽りである事は自明の理だと思うのですが、疑わずに鵜呑みにする事に飼い慣らされてしまった盲目的で無思考な人が多いので.敢えて検証してみたいと思います。
●先ず.生まれたばかりで言語習得もしてない時に、幾らお釈迦様でも仰っしゃる訳がないだろう・・・という見解が一般的見解です
●又、お釈迦様以前の七仏のお一人の仰ったお言葉を.お釈迦様のお言葉とされたという見解も、仮にも仏とされた方が仰る理由がないので故事つけに過ぎないでしょう。
●前向きに捉えた説に、[盲亀浮木]でも喩えられるように、人の身として生まれる事の難しさと.人の身として生まれる事ができた幸運は、それだけで天上天下唯我独尊と言い現せる幸せな存在である事を説かれたのだと言う見解も、一つ説得力に欠けますね。
⭕結論 仰らなかった!
天上天下唯我独尊とは、無明な子供から大人までが潜在的に考えている事であり.自我意識は[自分という存在は特別な存在]だと考えているのです。
お釈迦様の教えでは、無明な人とは.そんな[私・自分・我]という間違った意識.観念から苦を造り出しているのだから、私という存在は.身体にしても.感覚にしても.識別作用にしても.記憶にしても.感情.意志にしても.意識にしても(五蘊作用)は、変化生滅してゆく無常な現象に過ぎない事に気付き.目覚めて.私への捉われ拘り執着を乗り越え.無欲恬淡な[無我]の境地を説かれたのであり、自我意識を滅却したお釈迦様には[天上天下唯我独尊]という自尊心が高じた自我意識がある筈がなく、この言葉はお釈迦様の権威を必要とした真の仏の教えを理解していない信仰宗教団体あたりが、神格化されたお釈迦様の権威を高めようと画策して流布させたものと見受けられるのである。
この[天下天下唯我独尊]という意識が、あらゆる争いやドゥッカ生み出している事に気付くこともなく。
🔵ドゥッカ
不安定さ・不完全さ・苦しみ・悩み・迷い・心痛・嫉妬・憎しみ・恐怖・哀しさ・悔い・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・不満・無常さ・無明・欲・渇きなど

顕貴(ときめき)の日々

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●暗夜行路
人間は、一寸先は闇の中を手探ぐりしながら、盲目的に生きてゆく存在です。
明日をも知れない身の上であり、今、目の前のドアを無警戒に開けた途端、前に殺人鬼が刃物を持って待っている可能性(確率)も無いとは言えず、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまう確率もゼロではないのです…
●無明
そんな暗夜行路に立ち向かって行かねばならない盲目的で[不安定な存在]である人間は、その暗闇を照らしてくれる灯り(拠り処)を必要としてるのです。
●ドゥッカ(生存苦)
盲目的存在には、生きる事自体が苦(ドゥッカ)なのであり、その不安定性.不完全性.苦しみ.悩み.迷い.恐怖.心痛.悔い.哀しみ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.無常さ.無明.渇き.欲望…という本質的な苦(ドゥッカ)により、自己防衛.保護.安全.安心.恩恵などの為に創造神を妄想し、自己保存. 永遠的な存在への欲望が魂.霊魂.霊体などを妄想させるように、盲目的存在とは何かしら支え.縋り.頼り.掴まり.照らしてくれる拠り処(精神的支柱)を必要として辛うじて暗闇の中を生きている。
●楽は苦の種、苦は楽の種
過ぎ去った過去に捉われても、未だ来ない根拠もない未来に期待していても苦(ドゥッカ)を造り出すだけ。
妄想に過ぎない過去に縛られていては今という一瞬の現実を取り逃がしてしまうだけ

もし無明の闇を振り払い.明日が明確に解り、未来が確実に見えたとしたら.それも苦(ドゥッカ)に他ならない。
どうなるか既に答えが出ている道を歩く事ほど苦痛なものはないだろう。
張り合いもない退屈で飽きる道だろう
本当の安心も安全も喜びも幸せも自らが切り開き.達成させてこそ味わえるもの。
今日はどんな一日か..明日がどうだろう..未来はどうなるか..と、期待と不安を織り交ぜた変化生滅の味わいの中に顕貴(ときめき)は生まれる。
顕貴(ときめき)のある人生とは[苦は楽の種.楽は苦の種]と気付くことではないだろうか。

仮りの名

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今日交えし人、我が名を尋ねたり…
我れ[多々方と名乗りたる現象です]と、答え胸元を指差したるが、今の新しき皮膚も幾日か過ぎれば垢と落ち行き入れ替わり、内なる組織も幾日かを過ぎれば老廃物となり入れ替わり、骨も又.同じく土に戻りし入れ替わるものなれば、我れを指したる我れはなし。
心も同じく、刺激情報に対して、因果律(縁起)に遵って環境.状態.確率性に影響されて生じさせてる五蘊作用(五集合要素)の概念(潜在意識)を、表層(脳)が想念と思考で再認識して言語化しているだけの現象に過ぎない。
名前というものも今の現象を現す仮の名に過ぎず、結合要素(五集合要素)の結び目を解かれて自在な一滴に戻るとき、性質と運動性を形成させる心的次元が、新たなる生命の心的次元へと流れゆき、新たなる名前で呼ばれるだろう、狸かゴキブリか人の名となるかは判らぬが…、
一つ言えるのは、良い形質の楽器は良い音を奏で、悪い形質の楽器は悪い音を奏でる如く、欲と執着で張り過ぎた弦も緩め過ぎた弦もは良い音を響かせない如く
心的次元の形質により、因果律(縁起)に従って次の何かへと流れてゆく。

心の次元

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思考とはコンピュータ的(物質的)なものであり、意志.衝動.形成力(業/カルマ)とは心的次元により形成されるものである。
●梵我一如
仏教的観点から言えば私達が世界.存在.そして個人.私と見なしているものは途方もなく膨大な一源の根源エネルギー(梵)の流動であり、堪えず変化してゆく物質的(肉体的).精神的エネルギーの結合を私.自分(我)と認識しているに過ぎず、それは五集合要素(五蘊)により形成されている。
これら執着の五集合要素(五蘊)は苦(ドゥッカ・不安定性)の安定化への運動である
釈迦尊(ブッタ)は説きたもう。

この世界(現象世界)は一源の根源エネルギー(梵)世界(彼岸・安定世界)の一点に生じた揺らぎ(インフレーション・不安定性)により、途方もなく高密度な膨張(ビッグバン)により形成された世界(宇宙)であり、今も尚.加速度的に膨張を続けている。
不安定性の発生により生じた安定化運動でもある膨張とは、同時に次元の分裂でもあり、この世界(現象世界)は次元分裂により発生した11の次元により形成されていて各次元の形状により全ての運動は形成されている。
全ては不安定性の安定化運動である。
この世界の全ては途方もなく膨大な根源のエネルギー(梵)の各次元における流動であり、膨張により[空間的次元]を形成し、根源エネルギー(梵)の凡そ4パーセントが物質化(色化)し質量の発生により[時間の次元]を形成し、[相対的次元]により各種エネルギー(重力.反重力.電磁力.核力.弱い力)を形成し.根源エネルギーと相対的次元の関係性により、根源エネルギーが素粒子(クォーク)を形成し.素粒子の集まりにより原子(陽子.中性子.電子.光子など)は形成され.原子の集まりにより分子は形成され、分子の集まりにより物体は形成され、全ては一源の根源エネルギー(梵)の振動パターンにより形造られているのであり、それは[次元の形状]がエネルギーの振動パターンを決定付け.運動性.性質.形状を形成させている。
『全てのものは因果律(縁起)に随い、条件により生起し、条件により消滅している。生起する性質のものは、同時に消滅する性質のものである』
【 次元構造 】
3次元  縦.横.高さ (マクロ)
4次元  +時間   
5次元 重力を形成する形状の次元
   (時空に結びつかない形状の力)
6次元 反重力を形成する形状の次元
(膨張)
7次元 電磁力を形成する形状の次元
(光の次元)
8次元 強い力を形成する形状の次元
(核力)
9次元 心的エネルギー(生命エネルギ ー)を形成させる形状をした次元
10次元 世界(大宇宙)を包み込む次元
11次元 ミクロから宇宙に広がる次元

●根源エネルギー(梵)のコントロール
梵我一如
●因縁[起]果報の法則

●この章は、路傍の如来の説法に於ける「輪廻」の補足資料として執筆。 路傍の如来の説法(晩冬の集い)において路傍の如来が話された、叡智によりこの世界の実相を明確に洞察された釈迦尊(ブッダ)が旧来のバラモン教などが説く魂(霊魂.霊体)の輪廻を否定なされながらも輪廻は肯定され仏典にも数多く残されている逸話を妄迷な盲目的な信仰(バラモン教など)から、蛇が旧来の皮を脱ぎ去るように真実への脱皮を促した釈迦尊(ブッダ)の輪廻の改革的な教えを旧来のバラモン教的信仰を礎に興った大乗が、釈迦尊(ブッダ)が垣間見られた真実の輪廻を旧来の魂論的(バラモン教的)な輪廻思想と混同して捉えてしまった事は否がめず、空の思想を拡大解釈した半端な者達の手により釈迦尊(ブッダ)の説かれた輪廻をも方便だと捉え、因果律を再誕を含めて説かれる因縁の縁起(十二縁起)を蔑ろにし釈迦尊(ブッダ)の真意から逸脱した得体の知れないものへの信仰を大きな船だと宣いしは疑問を呈する。 ●では生命とは何か、輪廻するものは何か?つまりは業(カルマ)とは突き詰めて言えば何か?という問題でもあり、その為に彼の世を含めて此の世界はどの様に成り立っているのかを解説するものである。 先ず五集合要素(五蘊)に説かれるように精神(心)を含めて生命とは何かと言えば、四つの力(重力.電磁気力.弱い力.強い力)の作用により身体形成させるDNA.RNA(設計図)に随い構築され形成された物質的化学的要素と九次元の形状により決定付けられたエネルギーの振動パターンにより生じる心的エネルギーの性質による集合要素こそが生命体であり、以前から説かれるように輪廻するものとは魂や霊魂というような固定的.実存的.永遠的なものではなく、9次元(心的エネルギーを形成する次元)の意志.運動性.性質形成力(業・カルマ)であり物質的要素に結び付けられた状態を生と呼び.結び目を解かれた状態を死と呼び.次の何かへと結び付けられてゆく心的次元(9次元)が輪廻であり、エネルギーは肉体的要素と心的次元との結合で絶えず供給されエネルギーの振動により、物質的(電気的.化学的)なコンピューター的要素である認識.識別.思考(CPU).記憶(メモリー)要素と衝動.意志.感情.表象という心的要素により、意識(概念)を生じさせる。故に輪廻してゆくものは心的次元(九次元)であり、性質.運動性.電荷である業(カルマ)なのであるつまりは微生物から人類までが違った形状要素を含む同じ種類の次元を有し、結びつき生体となり結び目が解かれて死体となりながら次の何かへと成り続けるのである。つまりは微生物の心的次元は微生物としての物質的な機能.能力との集合要素を形成し、人間の心的次元は人間としての物質的(色)な機能.能力と集合要素を形成するのであり、その次元の要素(i意志.性質.運動性)により各々の生命体へと輪廻してゆくのである。実存的.主宰的.実相的.永遠的な魂.霊魂.霊体などではなく次元的要素として意志.性質.運動性が輪廻してゆくのであり、次が何であり因果律(縁起)に遵って新たなる感覚器官.思考域.記憶域などの機能.能力と結び付いた集合要素により貴方は再び出現するのである。 ●意識(主観)とは、物質的要素(色).感覚的要素(受).識別記憶要素(想).意志要素(行)に依存して生じるのであり、それらから独立して単独では意識は生じない。 「意識は条件により生起し。条件のない処には意識は生起しない。」 ●肉体的(物質的.電気的.化学的)な要素とそれに結び付いた心的エネルギー界(九次元)の結合による五集合要素への執着が輪廻を生じさせる芽となる。

超越瞑想

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⭕内観と内々観
「人の心のその中は仏も住むが鬼も住む」
人の心、そこには整合性もない無数の自己がすんでいる。
ダークサイドを含め.それら無数の自己をよく知り理解してゆく事で.心は自然に制御されてゆく。
自分の心とは自分を騙し誑かそうと走り逃げ回る.気まぐれで捉えどころのないもの。
それにより人は根拠なく自分を自惚れさせたり間違った見解を哲理の如く崇め手放す事が出来ず浄化と進化を阻害するもの。
「己の愚を知るが.真の賢者なり」
近年.仏教を科学に寄せて偏った観念を嘯くような者達が多いが、真実は理論物理学など科学が.真の仏教(如来の教え)が説く真理の正しさを一つ一つ実証しているとも言える。

内観とは、禅定・瞑想・観照などと同義語であり、ヨ-ガ(瑜伽)を含めて世間に溢れている型に拘りすぎたり、神秘体験や超能力や第三の目などの獲得といった精神的倒錯した観念を持込んで真の目的を逸する事がないように敢えて内観と呼んでいるのである、まず緊張を解す為に息抜きと集中の観照で感覚と想念とに遊ぶ(現れる感覚と想念を眺める)内観と,止観から無念無想へと向かう禅那(サマタ)と,各部位へと集中して正念正智へと向かう観行(ヴィッパサナー)による内観とがあり、内観により禅定状態へ入る事を目的として自分、生きる、存在、各部位、世界、自他・・・・等について「思考に捕らわれず客観的に、不放逸に、冷静に、観察し、理解し啓発するために安定した姿勢で集中し外界へ捉われ易い意識を内へと向けサティ(気付き)による定の状態に向う事が目的であり、瞑想や内観により解脱が得られるのではなく、内観により気付いてゆくのである。云わば解脱とか涅槃とか覚りというものは得る(獲得する)事ではなく、気付くことにより捨ててゆく事なのであり、捨ててゆく事により顕現するものなので実存的なものと表現されるのである。何か高みの存在の憑依状態に陥る理由でも神秘的な特別な能力の獲得などを目的とした誤解され堕落した陳腐な儀式やテクニックに惑わされる事なく、聖道としての釈迦尊の開発された内観法から逸脱して行く事がないよう自ら克己してゆかねばならない。健康瑜伽などいくら行ったとてサティ(気付き)が得られる事などないように、明確な目的意識に基いてに(客観的に、不放逸に、冷静に、観察し、理解し、啓発する)ならば、立って居ようが、座って居ようが、歩いて居ようが、横臥して居ようが、放逸に陥らず怠け心を起こさず、眠気に負けず呼吸を制御し集中して内観してゆくならば、瑜伽・瞑想・禅定、観照において姿勢を正す事に心掛け無駄な力が入らぬよう注意して陳腐な型やテクニックに捉われる事なく精神的倒錯に陥る事なく真の目的に向かった内観が出来るのである、世の中では座禅やヴィッパサナーで完成すると誤解されているがマハシのいうラベリング(実況中継)にしてもゴエンカや道元がいう瞑想三昧にしても実に偏っていて自縛から解き放つ事を目的とするものである

型に拘わりニミッタ「光の輪」が見えるだとか、意識を心臓の中にある意門(アナバナ似相)に運ぶとか無益な行に捉われたり、空海観照法により.仏が見て仏と一体化させてゆくと言ったが.先入観や暗示を与えて生じさせる神秘的な妄想に他ならず、陳腐なテクニックの一つに過ぎず、宇宙空間に一人浮かんでいるような感覚に捉らわれてしまう錯覚を解き放たれた感性とか軽安から生じると誤解するが実はそういう状態を欲しているサンカ-ラを条件にして生起させているだけなのであり、妄想からの厭離を目的としながらその実は妄想を深めているのである。それらは到達し達成し完成へと至る為の内観(観照)とは成りえない事を承知して頂きたい。無理に変える必要もないが禅那や冥想の型に拘る必要などなく良い姿勢と呼吸に留意して内観へと向かい獲得してゆくのではなくあらゆる物事について気付いて捨ててゆくのであり(道元禅師は自分というものを捨ててゆく事こそ仏道であると世俗諦を得られた)、白圭.更に磨きて真理へと到達する.内々観(超越瞑想)へと向かうのである。

基本は、五官に捕われて外界へと向かおうとする意識(五蘊)を内向きへとベクトルの方向性を変えて精神を集中させ雑念を排除してゆくことであるが内観法(ジャーナ)には大別すると「①正念正知するディヤーナや気付きの内観ヴィッパサナー」と「②無念無想へと向かうサマティー」とがあり、①と②とが禅と定であり「禅定」よばれ世俗諦を得て、内々観により想念の発生する源へと伝ってゆき超越友呼べる覚醒により勝義諦を得るのである。ここで内観(観照ビッパサーナ)より.内々観(超越瞑想)へと深まるにつれ意識は現世へ戻って来れないのではないかという類の恐怖を感じだす、その恐怖とは死への恐怖と同質な恐怖感でもあり言うならば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という心境に辿りつき、その恐怖感を乗り越える事により.光に満ちる真世界(異次元世界)へと到達し、「想受滅定」へと入った生死の軛を同時に乗り越えた瞬間でもあり、異次元世界と現象世界との関係性、現象世界の無色界(非物質).色界(物質)とその形成力、生命の流転(輪廻転生)などが理解できるのである。

※禅定(ジャーナ)が現れた状態については既に解説済なのでこの項では省き「想受滅定」でもある内々観について解説する。

内観とは「外界」に対する「意識領域」に於ける内観なのであるが、内々観とは「表層意識領域」から「無意識領域」へと向う内観であり、更には想受滅定による「無意識領域」に対する「潜在基底層」へと向かう内観なのである。詳細はここでは省くが簡単に説明すると、光に満ちた真世界(彼岸・異次元世界)への到達と.梵我一如(個と全との同一性.一源性)による現象世界と異次元世界(大梵天界・帝釈天界)との合一と言える。

「想念は表層意識に、湖底から浮かび上がる泡の如く発生する。それは表層意識に制御されない衝動的なものであり、その想念が表層意識の何処の場所から発生しているのかは、統一した心は容易に定めることが出来る。次にその泡の如く発生した想念を心の深処へ向かい辿ってゆくのである。その想念の泡は深処へ向かうに随ってだんだんと小さな泡塊の如くなってゆく。腑と気付く処は無意識層なのである。想念の発生場所であり潜在基底層が揺れ衝動を伝えて来る時には感情(不善処・善処)を造りだす概念思考領域である。

無意識の揺れが想念を生じさせているのである。

次には無意識層から光に向かって(光と感じる妄想ではなく生命エネルギ-の輝き)内へと進むが如く、より深処へと至れば、そこが阿耶邪識とも真我とも呼ばれる潜在基底層の入り口へと至る。釈迦尊の時代には大悟した幾多の弟子達でさえも訪れたという記録(経典)は残っているのだが今では何人も未到達の領域(境地)である。
世の中には理性の仮面を被った実は感情的な人が多くいて、和を以って尊しとばかり事なかれ主義に陥り、大人なのだからと大人しく波風が立つのを怖れてか無関心を装ってしまうような風潮が現代の偏った新興宗教やカルト団体の隆盛や、卑怯な論理をマカリ罷り通らせてしまっているのではなかろうか。孔子の言葉に「過ちては改むるに憚ることなかれ」とあるように、仏教においても他宗に対し誹謗中傷ではなく共に高めて発展してゆくためには「真理は真理、虚仮は虚仮」と言わねばならない事もあるだろうし、一部の作意ある者達は釈迦尊の直説や教説は存在しないというのが定説であるなどと宣い、だから釈迦尊の真の教説に反する教義であろうと疑経ではないと嘯いているが真の定説は第一、第二結集により編纂された経典の中にも釈迦尊の教説でないものが含まれているという意味であり釈迦尊の教説に反しない教説は釈迦尊ご自身が是認されていたからでもあるが、後代の作意ある者達は釈迦尊が仰ったと宣えば何でも通用するが如く乱造したのも後代に入ると既に釈迦尊が伝説上の人物であり実在の人物ではないかのように誤認されたからに他ならず、釈迦尊は実在の人物であり、仏教思想も一貫した至上の教えなのである。  
信教は各人の自由なものであり、最近では世界中で無宗教だと自認する人々が増えているようだが、暗夜行路を行くが如く手探りで生きている無明な存在であり本当はどんな宗教でも持ってないよりは持っている人間のほうが自戒や道理、徳目や倫理感.知性を育ててくれるだろう。しかし妄想された神や仏や得体の知れない力などへの信仰は自分という存在の意味や価値観を放棄して押し付けられた得体の知れない意味や価値観に従属して依り盲目的に生きてゆく事に他ならない。その為に多くの人達がが、貴重な時間や財産を失ってゆく被害者とも呼べる多くの人達を生み出してゆく社会を、自己責任だから他人の問題だと放っておいて果たして善いのだろうか。偏った大本営発表や収益優先のメディアに誘導され、権威や勢力に誑かされ、享楽主義化した社会の波に遅れまいと所有と感覚に儚い価値を見出している前に、我が身に置き換えてより良い社会の実現には積極的で在らねばならないと思うのである。何故ならば悟りの道とは、気付き啓発し目覚めてゆくものなのだから。

今ある幸せに気付く

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人は皆、喜び.幸せを探し求めて生きている

しかし喜びや幸せは探し求めるものではない
(チルチルとミチルも[幸せの青い鳥]を求めて世界中を探し回ったが何処も居なかった)

喜びや幸せとは、気付くもの。

既に沢山の喜びや幸せを持っているのに気付けずに、愚痴や不満ばかり言う人がいる

愚痴や不満の中にいては新しいものなど創り出せる筈もない

愚痴や不満な日々は楽しくも喜びも持てず、愚痴や不満.で益々不幸になってゆく
加速度をつけ.負のスパイラルに陥ってゆく

自分の不幸の責任を社会や他人のせいにする

物質文明.競争社会.情報化世界の中では顕著な現象

●幸せは気付くもの
今ある幸せが活力を生みだす

前向きに生き、他人を思い遣ったり.気使う[心の余裕]が持てる

豊かな心が育ってゆく(豊かな心と貧しい心)

●今ある幸せ(楽は苦の種. 苦は楽の種)
今、既にある幸せに気付く事が、楽しく幸せに生きる秘訣です。
※平和な社会は大いなる幸せ
阿呆な政治家が権力を握れば簡単に消え去る平和な社会
基地外が増えれば造作なく破壊される平安
※今日も元気に歩いてる
松尾芭蕉「旅に病み 夢は枯野を駆け巡る」
病んで覚ったが、元気に歩いて旅する事ができるのは、実に幸せなもの
※今日も生きている
惜しくも早死する人もいる.事故や災害で無念に世を去る善人もいる.何故か今日も生かされている(人間なんて当たり処が悪ければ豆腐の角に頭をぶつけただけで死ぬ事もある脆い存在)
※今日も美味しく食事できた
笑い事でも当たり前でもなく世界では今でも餓死者が毎年.何十万人.何百万人も出るのです。
※人間、自分が他から独立して自分の力で生きているという思いは錯覚.過信.無明.思い上がりでしかなく.天地自然.他人様.他の生命のお陰様で生かされているのです。
※他にも
無思考から脱出して智慧や記憶を駆使すれば幸せの種は、幾千.幾万と発見出来るはず。
四苦八苦は幸せの種
【四苦八苦】
生.老.病.死
愛別離苦 愛するものとも別れなければならない苦しみ
求不得苦 求めても得られない苦しみ
怨憎会苦 怨めしい人や憎らしい人とも出会ってしまう苦しみ
五蘊盛苦 五蘊作用(精神作用)が造り出す苦しみ
朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなし
朝(あした)に生を授かれば 夕べに死すとも悔いなく過ごす