自己探求

無理に自分を愛そうとする必要などありません、だって皆んな世界中で一番自分を愛しているのだから…もしそうじゃないと思っている人がいたら、その人は.もっと自分の心に素直になればいいだけの話し…
人は皆んな幸せ探しの旅をしているのです…
ただ人それぞれに探す方向が違うだけ…
[青い鳥]のチルチル.ミチルも.[幸せの青い鳥]を探して世界中を旅して周ったけれども見つける事が出来ずに…失意のまま帰り着いた我が家の軒先に幸せの青い鳥がとまっていましたね…
幸せとは実はそんなものであり、それを無明という[無知さ]が無常な本質である欲望の充足に幸せがあると錯覚させたり.魅入らせたりするのです…
べつに欲望を否定している訳ではありません、生きる意欲も欲望であり.欲望のエネルギーに生かされてもいるのですから…しかし欲望とは心を満足させたり.幸せを味わうための便宜上の手段(アイテム)に過ぎず、決して欲望を満たす為に有るわけではないのです…まして欲望とは満ち足りる事がないのですから…
本当は[欲望の次元の事物]とは追いかけるものではなく.付いてくるもの(付随物)なのですが、生きたい生き方が欲望の充足の方向に有ると錯覚している方々は、[所有の次元の事物]の所有量が人間の価値のバロメーターだと勘違いしているからではないでしょうか…
そんな欲望に[執着]してもドゥッカ(苦.悩み.心痛…)を生み出すだけだと気付かずに.[欲望の充分]こそ[真の満足][真の心の充分]だと錯覚して無闇に欲望に翻弄されては、底なし沼にはまり込むだけで、一つの欲望を叶えても欲望の更なる要求に翻弄されるだけ…決して満たされる事も堅固な安らぎもないドゥッカ(苦.不満.恐怖.憂い…)と更なる欲望の中を生きる事となるだけなのです…
[欲望の充足とは決して充たされる事のない底なし沼のようなもの]

無明の闇を晴らしたら、満足.幸せ.平安.歓びとは何なのかも見えてきて、既に沢山の幸せに満ち溢れている事にも気付けるのです…
心の充足(幸せ)と、欲望の充足(幸せ)とは、真逆の次元に拡がっているのですから…


私の話は全て.我れを離れて、深淵なる真理の象徴[如来]が語っているのであり、私はその愚かで未熟な頭と心と行ないを以って拝聴し.思惟し.思推し.分析し.検証し.確証を得て.理解しているだけなのですから…

人間の本質とは苦(ドゥッカ)であり、不安定で.弱く.脆く.虚しく.無明で.無常な欲望の塊である…全てが苦の本質により生かされている(不安定さの安定化)
理解する為の簡単な方法(お笑い3つの例)
①小用
小便の排泄を我慢してると苦しくなります…
苦しくなったら排泄すると快感を得られます.
②呼吸
お薦めしませんが、風呂場で水に潜って呼吸を我慢すると苦しくなって藻掻きます…死にそうになったら慌てて顔を上げて呼吸を再開…
呼吸の有り難さ.甘露さに陶酔します.
③食事
絶食して食事をしなければ空腹で苦しくなります(水分補給は忘れずに)…幾日かの後には世界一のご馳走を味わえます.


他との関係性の中で.何かしらに依存しながら生かされている存在であり.他から独立して単独には存在できない現象的存在である…

しかし五つの要素が結合して働くとき五集合要素(五蘊)は実存的な自我(自分)が在ると錯覚してしまうのです…
つまりは世界も苦しみも幸せも平安も、五集合要求(五蘊)という精神作用が造り出しているのであり、真の平安もゴチャゴチャとそしてグルグルと五集合要求(五蘊)を回さない事なのですから…
ですから色眼鏡を掛けて.五集合要素(五蘊)を外界に彷徨わせ、つまらない者や物事、下らない者や物事、どうでもいい者や物事.今更どうにもならない者や物事に、捉われ.拘り.執着して五集合要素(五蘊)をグルグル.ゴチャゴチャと廻し続けていれば.不安定で.不完全で.儚く.脆く.弱く.虚しく.恐怖.実質のない.無明で.無常な毒華(ドゥッカ・苦)という本質により、存在の自己防衛と自己保存の為に、何かしら依り処を渇望して.保護.安心.安全.恩恵を求めずにはいられず.神仏や超越的な力や守護霊などを妄想せずには居られないのです…
つまりは、色眼鏡を掛けている自分に気付き.その色のついた眼鏡をはずし.物事を在るが
ままに眺めれば.天地自然.森羅万象の理法と他の存在のお陰様で存在している事への崇拝.感謝.畏れ.敬いの象徴としての神仏や霊性とは精神性の健全化や浄化や[心の充足]の糧となるのであり、得体の知れない神仏や超越的な力や霊体とは[欲望の充足]の為に必要だと妄想されたものであり、真逆な心を育成してゆくのですから…
心の充足の為の存在としての神仏は平和や安心の道へと導き、欲望の充足の為の存在としての神仏は、排他と闘争へと導くのです…
それは発達した近代社会の論理という無明な錯覚により、神仏や超越的な力の存在否定により、天地自然.森羅万象.他の存在への崇拝.感謝や畏れや敬いという[心の充足]の為の宗教観をも喪失させ、同時に[欲望の充足]の為に.金財.地位.権力など[所有の次元の事物]への崇拝.感謝.畏れ.敬いという決して満たされる事のない無明な宗教観に征服されてしまったからではないでしょうか…


整備され発達した現代社会に随分と守られてはいても、人は無明という一寸先は闇の中を盲目的に手探りでおっかなびっくりしながら辛うじて.運良く生きている存在なのです…
ですからテレビや新聞.雑誌やインターネットそして書店に並ぶ題目倒れの新刊本や根拠のない風聞や主観などに.知らず知らずに染脳(洗脳)され.弱虫がヤクザ映画を見た後.強くなったように錯覚して肩を怒らせているような愚かさで、如何にも自分の見解と一致するから真実だと思ったり.偉い先生様がいうのだから真実だろうと思ったりしながら、偏った正義を振り翳し.多様的で自由な世界を、狭く.醜く.住み難い世界へと.変質させているのですから…
■正信と盲信
例え高名を得ようが.権威があろうが.誰もが挙って支持していようが、世の中に溢れ返る単なる推測に過ぎない不毛な形而上の推論や学説や仮説などを仏教では無益な[思想の荒野]と見做します…
それは全ての愚かさの根源は無明(本質的無知)であり.錯覚であり.盲信であり.欲望だからなのです…

世の中に溢れる[信仰.信心]とは物事が見えてない盲信に依って立つのであり、物事は明確に見えた瞬間から[信じる.信じない]という選択は存在せず、事実(真実)だけがあるのですから…
汚れや堕落や不純さの消滅は物事が見え物事が理解できる人にとってのみ可能な事であり、物事が理解できず物事が見えない人には不可能な事なのです…
そして人は物事が明確に見えない限り疑問が残るのは当然の事であり、疑問が残ったまま本当には先へは進めないものなのですが、かと言って疑問に阻まれて一処に留まってばかり居る訳にもいかず兎に角、真実(事実)を明確に見て.理解することは先送りしながら、無明の闇の中を盲目的に生きているのです…
肝心なのは知識.実践あるいは智慧(叡智)を通じて見る事であり理解する事であり、情緒的な信仰.信心を通じて信じる事ではないのですから…
❖訶梨勒(ミロバラン)の果実
■満足
穿った人達には[負けるが勝ち]というような[敗者の論理]にも嫉妬心にも聞こえるらしいが、この世の中で本当に心から満足して毎日を生きている人が果たしてどのくらい居ると思いますか…
一桁…いや小数点以下かもしれませんね…
例えば、心理的に満たされて居ない人に.あれは駄目!これも駄目!と箍(たが)をはめたら.きっと怒りだすだろうと思います…それは満たされていない人に更なる我慢を強いる事になるのですから…
しかし既に満ち足りている人に.あれは駄目!これも駄目!と強いたら、その人は無常なものからの解放に歓びに打ち震える事でしょう…
それは満腹の腹には.更なるご馳走も苦痛でしかないのですから…
そして皆さんがきっと幸せで満足して暮して居るだろうと妄想している世界一の大金持ちでも王様でも、それが世界の征服者であったとしても、少しの幸せと大きなドゥッカ(苦しみ.悩み.不満…)の中を生きているものなのです…
ですから当然に2番手も3番手もしかり、上には上が居るうちは本当の幸せも満足も得られないのですから、諦めたり我慢したりしながら辛うじて今ある幸せや満足で心を慰めているのがせいぜいなのですから… 
つまりは決して充足される事のない欲望の世界の英雄.勝利者.征服者.王者などという人達は、却って庶民より欲望に心を汚し..世評や見栄に縛られ.苦悩し.恐怖し.不満を造り出して.憂いを深め.無常を嘆き.空しさを感じている憐れむべき人達なのです…
堅固な心の充足は.智慧(叡智)により.無明の闇を晴らした平安.悦楽.歓びの中に啓けるものなのですから…
■断見仏教の教えを説明する時、量子力学超弦理論を用いると本当は解かり易いのだが、世間ではカルト教団やインチキ新興宗教などが幸運や金運アップとか引き寄せの法則とか、高位次元と量子世界(ミクロ域)での現象を、実社会(マクロ域)での現象の如く.すり替えて混同させ悪用して人々を惑わせているように見受けられるので、平素は.なるべく平易な言い回しに努めているのですが.[輪廻転生]への断見に対して.やっと深淵なる仏の教えに追い付いてきた感のある現近代科学の[エネルギー不変の法則][エネルギー保存の法則][量子力学][超弦理論]を以って検証して見たいと思います…
この世界は途方もなく膨大な一源なるエネルギーの悠久なる流れであり、心的エネルギーも何かしらになりながら流れてゆく(輪廻転生)の、今で言う[エネルギー不変の法則][エネルギー保存の法則]による連鎖性.継続性であり、この連鎖性.継続性が理解出来ず、根拠や反証もないまま、無明なまま感情的.主観に否定する事を[断見]と言うのです…
●ミクロ域での量子力学超弦理論に照らしても、この世界が途方もなく膨大な一源のエネルギーの流動であることを補強していますし、無色(質量0)状態から色(質量)が生じ、生じては滅し.滅しては生じる変化生滅の世界であり、エネルギー状態から物質状態にまで貫かれる本質的意志(存在し.再生し.再生成し.膨張し.拡張し.安定したい)という運動性による.心的次元による波動という基本運動性質が形成され、この世界(時空)に両端を繋ぎ止められた色(物質.質量)状態と、真理への到達によりこの世界(時空)に繋ぎ止められた軛からの解放…堅固な安定的なリング形成(グラビトン化)により、この時空と高次元世界(彼岸)との往還.成仏の実在性が担保されるのです.
●心的エネルギーの業(カルマ)の形成力の連鎖は.性質.気質.性根として現れる(個人差)
●DNA.RNAの身体的要素の連鎖(個体差)
それと生命の本質 存在欲(自己保存本能) 幸せに成りたい 恐怖(防衛本能)など
本質的意志(存在し.再生し.再生成し.膨張し.拡張し.安定したい)

■オオカミ少女カマラとアマラ
世上は然りであるように.少数の賢明な人間と多数の愚鈍な人間達とで構成される学者の世界に於いても.昨今では否定的な見解が多数なようだが、詐欺目的.募金目的でなくとも[オオカミ少女カマラとアマラ]は因果律(縁起)の理法に遵って見ても.充分に起こり得る話であると言え、それは古代からあった地動説を脅迫や抹殺や火炙りの刑などで封印して18世紀まで天動説が主流であったように、つい最近まで時間を加えた四次元空間より高次元の存在を語る者を変人呼ばわりして排斥していたように、愚鈍な学者や大衆とは無思考で日和見なものなのですから…
要は[オオカミ少女カマラとアマラ]に見るならば、DNA、RNAの連鎖性による色(身体的要素)の継続性と.生命体それぞれの思考能力.身体能力差は、サンカーラ(本質的意志)とその性質である業(カルマ.形成力)の継続性とは別次元の連鎖性に依っている事を指し示しているのです…
つまり頭の良さと性格が一致してないように.生前取得と生後取得とが大別されるように.
精神性と教育とに相関関係が見い出されないように…(教養には見い出される)


生き.存在し.再存在し.継続し増大し一層蓄積(探求心)しようとする意志(欲望) 存在継続の根源的意図
発達した脳による思考力の差
心的意図の栄養素を理解
渇望.渇愛.意図.業(カルマ)は同一のものを指している…
ドゥッカの生起原因.五蘊の意志(サンカーラ)


■運がいいから今日も生きている
自分は運がよくないと嘆く相談者が案外といるものです…そういう相談者に[どうしたの?]と尋ねると.大概がアーダコーダという愚痴が始まります…
先ずは.その人の思い悩み.苦しみを.軽んじる事なく同情し.理解を示してあげ.その人の立場に立った上で、仏法を説いてゆくのですが、大体が自分の都合に周りを合わせようとする愚かさが思い悩み.苦しみを生じさせていたり、中には金財.家族.地位.環境.健康に恵まれているのに思い悩み.苦しんで相談に来られる方も居るのです…
それらは周りを自分に合わせようとしたり、周りと比べようとする処から生じている[無いものねだり]にも等しく、上を見たら切りがなく、下を見ても切りがない半端な立ち位置で欲望の炎に煽られ.ドゥッカという恐怖や不満と本質的な無知(無明)に依るのですから、先ず今ある幸せに気付き、感謝する心を取り戻す処から始めると憑き物が落ちたように平安と歓びを取り戻すことが出来るものなのです…(勿論、そこには如来への信頼が欠かせません)
それと運気とは波動なのです…
波動ですから良.悪の間を振幅してゆくもの…
小さい振幅を大きな振幅へと変化させるのも.振幅を上昇させてゆくのも下降させてゆくのも.今ある幸せ.幸運に気付いて感謝の心で.喜んで生きてるいるか次第なのですから…
☆感謝の気持ちは呼吸にのせる
■功徳を積まずして成仏なし


一切万象 因果応報
一切万法 自業自得

大慈悲

自分に執着して自分の事ばかり考えて生きている人に、慈悲と喜捨(四無量心)の心などあろう筈もなく、そこには辛うじて世間を憚った偽善のみがあることだろう…
何故ならば慈悲を施す心や喜捨する心とは、自分の心の充足度(満足)の如何に従って生じる性質ものであり、例えば無常な欲望の充足に忙しい[地獄心]や[餓鬼心]や[畜生心]という貧しい心には、本当の慈悲や喜捨の心は現れないのだから…
しかもそれがドゥッカ(毒華・苦しみ)を生み出している事に気付くこともなく…
その毒華(苦しみ.ドゥッカ)から逃れようと、欲望の充足へと向かい、無常の波に翻弄される
のですから…
ドゥッカ(毒華.苦しみ)に打ち勝つには、無明の闇を晴らし、堅固な心の充足(満足)を得ることだけなのです…
☆注 釈
[地獄心]
他人を騙したり殺めても欲望を満たしたい心[餓鬼心]
まだ満足出来ない.もっと欲しい.もっと欲しいと貪る心
[畜生心]
これは自分のものだから減らしたくないという自分に捉われた心

しかもその過度の執着による.吝嗇や物惜しみの心の為が、自ら苦悩や不満を造り出している事に気付く事が出来ない…
[毒 華(ドゥッカ)]苦しみ.悩み.不安定さ.不完全さ.心痛.恐怖.憂い.不満.哀しさ.迷い.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質の無さ.無常.無明.欲望…
■無明
欲望の対象である[所有の次元の事物]により心の充足は得られない.
その欲望に幾ら応えたところで更なる要求をしてくるだけであり、決して満たされる事がない…
逆に無明な欲望を抑制していくことにより、欲望の炎に煽られ、波打つ湖面のような心は次第に鎮まっていく…
鏡面の如く鎮まった心は、真実を映し出す…


○世の中で実施される各種の調査でも、老いて最後に悔いる事が、自分に捉われ拘って生きてしまった事だと聞きます、もっと他者の為に何かしてあげればよかったと嘆くそうです…
■ドゥッカ(毒華)に打ち勝つ
心の満足 不満がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲
心の恐怖 恐怖がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲
心の安楽 苦しみがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の平安 悩みがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の幸せ 心痛がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の安定 迷いがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

◆他への慈悲は、幸せの三要素である心の二階部分の育成となります…
◆欲望の充足は幸せの三要素の三階部分であり、有ればあったで幸せですがドゥッカ(毒華)を伴います…
無ければ無いでドゥッカ(毒華)を伴わずに幸せを築けます…
♥ドゥッカ(毒華)に打ち勝つには、心の一階部分の存在性(人間性.人格.精神性…)が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥存在性を磨くには無明(本質的無知)の闇を晴らしてゆく事が必要となります…↓↓↓
♥無明の闇を晴らすには智慧(叡智)が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
智慧(叡智)を得るには感覚.欲望に翻弄されている今に、気付いて目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放されるには、正しい法(真理.真実.事実.現実.実相)を依り処とする事が必要となります…
                  ⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥正しい法を習うには、自分を学ぶ事が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥自分を学ぶには、真の如来の導きに頼む事が懸命な道だと言えるでしょう…
■幸せへと導く慈悲の言葉
私、人々、生きとし生けるものが 、幸せでありますように…
私、人々、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように…
私、人々、生きとし生けるものの願い事が叶えられますように…
私、人々、生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように…


私を嫌う人々も幸せでありますように…
私を嫌う人々の悩み苦しみがなくなりますように…
私を嫌う人々の願い事が叶えられますように…
私を嫌う人々にも悟りの光があらわれますように…

如来の嘆き

人間は誰でもが、幸せに成りたいと願いながら生きているのです…

これから自殺しようとする人でさえ.消滅(死)中にドゥッカ(苦しみ.悩み.不安定さ.不完全さ.心痛.憂い.恐怖.悲しみ.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.不満.空しさ.欲望.無常さ.無明さ…) などからの解放される喜び.幸せ.安心を見い出しているからに他ならず、多くの人が所有の次元の事物(お金.財産.物欲.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.健康.長寿.承認.理解…)に魅入られるのも幸せに成るために必要だと錯覚してるからであり…つまりはそれらは目的物ではなく幸せに成るための便宜的な手段(アイテム)であり付随物に過ぎないのです…
それを実践的に証明するのが仏教であるとも言え、無一物で路傍に立つ如来の嘆きでもあるのです…
如来の出世に会えることが出来た今日の日を生きる人々は、既に大いなる幸運と幸福の縁を持てる[幸運と幸福な人]なのです.
如来は毎日、欲望が渦巻く社会の中で欲望に塗れた人々が行き交う路傍に慈悲の心で立っています…ですから心の沐浴処なのですから…

皆さん幸せに成りたいと願いながら懸命に生きているわけです…そしてその本当の幸せへの道を指し示す為に.路傍に如来は立っています…
幸運には尻尾が生えているそうです…
幸運を掴むとは.その尻尾を掴む事とも言われます…
幸運とは尻尾をゆすりながら誰の前にも.前触れもなく突然に訪れて、その前を通り過ぎてゆくものだとも言われます…
本当の幸運とは.幸運だよ〜幸運だよ〜幸運が来たよ〜と知らせながら通り過ぎてはくれないものなのです…ですから自ら.幸運だよ〜と主張しながら訪れるようなものには警戒しなくてはいけないのです…
つまり幸運を掴むのも逃してしまうのも、その人次第なのですが、幸運を求めるあまり無闇に手を出すと痛い思いに会う事のほうが多い現実の中にあって、疑心暗鬼に躊躇してばかり居ても前には進めません…
前を通り過ぎてゆく幸運の尻尾の長さ分の間に見極めて掴めるか.取り逃がしてしまうかによって、人生は天と地ほどの差となって現れてくるのですから…
いざ.という時の為に日々、冷静さと集中力と洞察力を養って下さい…
論より証拠で、如来は.決して皆さんが思い浮かべるような如来然としたキンピカな金襴衣装を纏ってはいません.そういったまやかしとも言える外見的な輝きを戒めた糞掃衣(ふんぞうえ)とも言われる法衣を纏って.平安で喜びと慈悲に満ちた微笑みと眼差しを湛えて路傍に立っているのです…
気付いて喜捨する幸運も.見紛い喜捨する幸運を取り逃がすのも、その人次第なのですから.
如来とは、何故.如来なのでしょう…
それは如来蔵を言うのです…
如来蔵とは、真理を蔵している意であり…
真理とは、真の幸運と幸福への道であり…
幸運と幸福を指し示すから如来なのです…
運のいい人は、如来の功徳で無明の闇を晴らして幸運と幸福の人生を歩いてゆきます…
運の悪い人は、如来の前をただ通り過ぎ、大いなる幸運と幸福を取り逃がしてしまいます…
如来の嘆きは、幸運と幸福を取り逃がしてしまう多くの方々への憐れみでもあるのです…


多くの人は、そんな憐れみは[余計なお世話だ]と思うのでしょうが、では現代人は幸せや喜びを必死に探し求めながら得られたのでしょうか…
否、世の中には苦しみと不満が渦巻き.せめてもの救いとして.手身近な所有の次元の事物や者に執着.愛着しながら、辛うじて短命で一時的で無常で空しい喜びや満足に依存し魅入られているのではないでしょうか…

そんな行き場を失った純粋な無明(無知)なまま了見の狭い.貧しい心には.苦行とも言える社会生活がユートピアとさえ映るらしく、真の幸運と幸福を顕現している如来が、糞掃衣を纏った乞食坊主にしか見えないものなのですから…
一切万象 自因果応報
一切万法 自業自得

真逆の道

あーだ、こーだ…
あーじゃない、こーじゃない…
と色んな人達が.色んな事を言うけれど、それらの殆どは.単なる観念.戯れ言.能書き.主観.空論.根拠の乏しい推測(プラパンチャ)に過ぎないのではないでしょうか…それらは実践や体現や実現を伴わない妄想にすぎないもの…そうした溢れ返った不毛な思想の荒野と紡がれた無明の系譜により、真の幸福への道が閉ざされてゆくのです…
如来達の到達された深淵なる涅槃(ニルヴァーナ)は.遥か彼方に仰ぐものでも.拝むものでも.語るものでもなく、自らが実現し.体現するものなのに…
その道は決して茨の道などではなく、悦楽の中に智慧の覚り(覚醒)を啓くだけなのです…


例え、ためになる事を多く語るにしても、それを実践しないならば、その人は怠惰な愚者に過ぎない…
牛飼いが他人の牛を幾ら数えても、自分の牛とはならないように、その人は修行者の部類にも入らない…
いくら修行を積んだ徳の高い僧侶と尊称され
徳の高い説法をしていても、そのように生活していないのならば、その説法は飯の種の詭弁に過ぎない…


俗世の人が喜びだと言うものを、如来は苦しみと観る…
俗世の人が苦しみだと観るものを、如来は喜びと観る…
俗世の道と出世の道.この二つの道が向かう先は真逆なのですから…
どちらの道も.充足を求めてゆく道なのですが[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の道であり、しかも心の充足は無明の闇を晴らす心の育成で到達できる堅固な[実像]ですが、欲望の充足は永遠に到達できない[虚像]なのです…

ましてそれを[仏像]に託しても.妄想を深めるだけに過ぎません…
心と欲望とが.よく調い制御された[中道]に.こよなき幸せはあるのですから…


今あなたが懸命に向かっている方向に本当の幸せがあるのでしょうか…
いつになったら辿り着けるのでしょうか…
辿り着けずに継続してゆくのでしょうか…
苦あれば楽あり…と言われますが、別々にある訳ではなく糾える縄の如く一如なものであり、苦があるから楽があり、楽があるから苦があるとは…変化生滅してゆく現象の一面を切り取って捉えて一喜一憂しているだけなのですから.[楽]しかなかったら楽は楽でなくなり[苦]へと変化してゆく性質のものなのです…
幸せも双極的な不幸があるから、味わえるものなのですから…
■喉元過ぎても熱さ忘れず
[喉元過ぎれば熱さ忘れる]という我慢の句ではなく、[災い転じて福となす]というか苦や災いの経験をトラウマなどにせず、今の幸せ[福]の尺度として.苦を福に転じてゆく智慧が必要なのです[福が来るから喜ぶのではなく喜ぶから福がくる]のであり、楽は苦の種、苦は楽の種なのですから、あとは[好事魔多し]と言われるように気を付けて行けばいいのではないでしょうか、ですから昔、武士が[我れに艱難辛苦を与え給え]と神に願ったのも別にストイックな性格だからなのではなく、[苦労は買ってでもしろ]と言われるのも.自分を鍛える事とともに幸せになる為の種なのだからだと思います…
しかし勘違いして[苦行の道]を歩んではいけませんよ…苦行とは怒りによって成り立つものであり、仏道とは安らい.歓びと悦楽によって成り立つものなのですから…


外界の快楽(感覚)への執着こそが.苦悩(ドゥッカ)の原因なのです…
世界は.常なく変化生滅してゆく[無常]なものであり、短命な感覚的な快楽を手に入れても充足は得られず、更なる欲望が芽生え.際限なく翻弄され続けるだけでしかなく心の安まる時は少なく、苦しみ(ドゥッカ)は膨大なのです…
永遠に色褪せない悦楽は.心の充足からしか得られず、欲望が満たされる事など永遠に訪れないのだから…
欲望への執着…そこには.幸せ.快感.喜びの仮面をかぶった苦しみ(ドゥッカ)という悪魔が居るのです…
ですからその幸せ.快感.喜びは一時的で短命であり.遠からず色あせ.その正体(苦しみ)を現わして、決して満たされる事のない欲望世界へと引きずり込んでゆくのですから…
世俗的な利益を追い求めるのも一つの道…
また永遠の平安に向かうのも一つの道…
■方向転換
俗世の人達は.感覚に刺激を送り続けることが、幸せだと勘違いしています…
出世の人は、感覚が刺激に取り込まれること無く、平安に在るがままに在るのが幸せだと知っているのです…
疑問を解消したい.知りたいと言う知的好奇心を武器として、依り快適に暮らしたいという欲求が、人類に文明をもたらし此処まで進歩させたのは間違いのない事実であるが、且つその欲望が諸悪の根源となる障害でもあるのではないだろうか…
何故?という疑問がある限り、人は真には先へは進めないものであり、かと言って疑問に埋もれ思索に更けても居られず、その疑問には蓋をして思考停止状態で生きているのが大概なのである…
若い頃には、[自分は何故生きてゆくのだろう?][何をすればいいの?][何で働くの?]など身近な問題にwhy?しながら答えを見い出せないまま横に放置して、時が過ぎたある日[自分はこれで良かったのだろうか?]と愕然と気付いて後悔と未練を抱くから輪廻してゆくのですから…
[後悔.先に立たず]と言われるように、今更どうしようもない処まで気付かずに生きるか、少しでも早く気付いて軌道修正を図ることによる真の幸福な人生の実現を説いているのが仏教なのですから…
■輪廻転生(変化生滅の流れ)
輪廻転生には二つの意味があるのです…
生というものへの執着により.生死を繰り返し何かしらに成り続けてゆく連鎖.継続性とともに、今生においても一瞬一瞬.一日一日.造り続けている業(カルマ)という形成力による因果律に従った連鎖継続性(縁起)も輪廻転生しているのです…
生命とは蝋燭の炎のようなものであり、さっきの炎と今の炎は同じものでもなく、かといって違うものでもないのです…
つまりさっきの貴方と今の貴方はおなじものでも違うものでもなく、因果律に従って唯、連鎖継続しただけか.方向転換を図り違う道へ進路を切ったかだけなのです…
全てはエネルギーの連鎖運動なのです…
生死の区別も.さっきと今との区別も、昨日と今日の区別も、意識思考瞬間の違いだけであり、この生の[最後]の意識思考瞬間が、次の何かしらでの生の[最初]の意識思考瞬間を条件付けて連鎖してゆくように、今生においても前の意識思考瞬間を、次の意識思考瞬間へと連鎖継続させながら、ゴチャゴチャと考えたり、妄想したりしているのですから…


■呼吸と集中
呼吸に集中することは高度な精神状態を育成する為の最もシンプルで重要でやさしい訓練法なのです
安堵の呼吸.平安の呼吸.慈悲の呼吸…
呼吸法は同時に肉体的健康.リラクゼーション.精神安定.安眠.仕事の効率.落ち着き.休息.智慧.閃きなどにも.とても有効です…
つまらまい物事.下らない物事.どうでもいい物事に感覚的.感情的.主観的に捉われ、拘り.気をとられゴチャゴチャと考えてる暇に、意識を呼吸に集中して自分を高めていって下さることを祈願しています…
如来 沙門に問う

人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、数年の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う

人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、数日の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う
人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、飯食の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う
人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、呼吸の間なり…
如来いわく、汝、道を知れり…
■精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく。
低次元に於ける階梯  渇望と存在欲に発する衝動による執着。  
①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪・浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。       「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」


人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのである。
■幸せを招く慈悲の言葉

私、人々、生きとし生けるものが 、幸せでありますように…
私、人々、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように…
私、人々、生きとし生けるものの願い事が叶えられますように…
私、人々、生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように…


私を嫌う人々も幸せでありますように…
私を嫌う人々の悩み苦しみがなくなりますように…
私を嫌う人々の願い事が叶えられますように…
私を嫌う人々にも悟りの光があらわれますように…

主観

己れの愚を知るは賢者なり、
己れの愚を知らぬ者こそ真の愚か者…

 

最近.特に著しい精神的劣化の最大原因は妄想的思考であり、その妄想的思考へと陥らせているのが[主観]なのですが、その主観とは.五集合要素(五蘊)により形成される感覚的.感情的.妄想的な概念と意識なのです…
本来は五集合要素(五蘊)により生じた主観(概念)を.表層域(思考域)に於いて客観的な思考(理性)を加えて一つの見解(ドグマ)を造っているのですが.その客観的な思考(理性)を加えることなく、感覚的.感情的.妄想的な単なる主観を.真実.事実.と錯覚したり.思い込んでいるような人は、根拠も.証拠も.証明も.事実関係もないまま.自分の考えは正しい!自分の考えは間違ってない!という了見の狭い自我意識にしがみつき、自分の愚かさに気付くことが出来ないものなのです…
■頭の中のゴミ屋敷
人は、主観と言う精神作用により生きているのであり、主観が.悪いと言っているのてはなく感覚.記憶.感情.性質により現れた主観は決して真実を映しだしてはいない事を自覚すべきであり、単なる主観であっても.時には鋭く真理を付いた主観もあり大いなる閃きも主観なのですが、大概の主観とは、永い年月の間に造り出された妄想や思い込み.勘違い.錯覚.染脳.性格などにより色が付き歪んだ眼鏡を掛けて観ているようなものが主観であり、西洋思想や西洋哲学に冒され、我れ思う故に我れ有りと.浅薄に受けとめて自我意識を深め自ら苦悩や心痛を造り出したり、根拠がある理由でも確証を持つ理由でもなく唯、感覚的.感情的.妄想的に生じさせているだけに過ぎない主観を、これが自分の考えなのだと錯覚し執着しようとすれば自らを苦しみや不満を造り出す事となるのですから…


知性(理性)を自ら否定し放棄するが如く.主観は主観の外に出る事は出来ず.客観を正しく認識する事など出来ないと嘯き自惚れる現代人にとって事欠く事のない知識と情報と刺激に溢れ返る現代社会には多くの間違ったり偏ったり染脳的な浅薄で無価値などうでも良いような下らなく詰まらない知識と情報と刺激に溢れている事に気付かず欲望に惑わされ無防備に記憶域と潜在域に蓄積してそれらに基づいた感覚的.感情的.主観的思考を繰り返す事により物事を在るがままに現実的に見る事が出来なくなりやがては心を病ませてゆくような頭の中にゴミ屋敷をせっせと築いているような人を多く見かけます…世の中には無明(無知)なままに五蘊作用(五集合要素)に翻弄され主観的(識)に.感情的(行)に.偏った記憶(想)に従って.感覚的(受)に.妄想的な(UFO.心霊現象.オカルト.超能力.得体の知れない神仏)などに影響されて妄迷を深めたり、スマホなどへの外部依存症や.主観に心地良い作為的な偏った知識情報などに染められて心を汚してゆく人や、胡散臭い瞑想会?などに通い染脳されて心を拗らせた人が実に多い事に驚かされ此の傾向が益々殖えて行くだろう予感に嘆息します…
真正な釈迦尊(ブッダ)の教えにより心を病んだ人々の心の回復と治癒という大いなる救いは実を結んではいますが説法の大半はそんな心の病んだ人達の回復.治癒.救いの為に費やされ他の大勢を占める多くの主観的思考法により自我意識を深めて主観的(感覚的.感情的)な認識により在るがままに現実的で正しい自己認識が出来なくなっている愚かさに気付く事なく主観的認識に自惚れたり誇りさえしながら現実的には苦や不満や心痛に翻弄されて無明に生きている憐れな人々を救う事に専念する事が出来ないのは歪めません…
■主観は五つの要素(色蘊.受蘊.想蘊.行蘊.識蘊)の集まり(五蘊)により生じる
①色蘊(物質.空間.熱.水)と五感管(眼→視.耳→聴.鼻→嗅.舌→味.身→触)を条件として受蘊(感覚)が生起する。
②受蘊(感覚)を条件として想蘊(記憶)が生起する。
③想蘊(記憶)を条件として行蘊(感情.衝動)が生起する。
④行蘊(感情.衝動)を条件として識蘊(主観.概念)が生起する。
⑤識蘊(主観.概念)を条件として表層思考域に於いて知性(理性)が生起し主観的な認識を客観的な認識へと昇華させて行く事が出来る
●知性(理性)による客観的な認識理解能力により五集合要素(五蘊)の精神作用・感覚.記憶.感情.主観の汚穢を浄化しハイポテンシャル化させてゆく。
しかし不安定な感覚→記憶の残滓(捏造情報)→不安定な感情.衝動→不安定な主観という依存関係性に従った判断.認識は真理(真実.現実.実相)を映し出さず、正しい現実認識.正しい自己認識が出来ない。人間だけが具している至高な宝である知性(理性)という客観的認識能力は埋没し、主観的な自分の理解.認識.判断.選択.自覚.納得.合点などを絶対視し無明なまま自惚れたり誇りさえする妄想的な者を愚か者(暗愚)と呼ぶのである知性(理性)による客観的な認識に基づく真理(真実.現実.実相)の発見こそが不安定な感覚.記憶.感情.主観への捉われ拘り偏りから目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれて解放され、堅固な自由で平らかで穏やかで静かな境地へ到達させる。それは知識でも選択でもなく叡智による発見なのです…
主観に捉われ拘り偏る心は自我の妄想を深めさせドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.痛み.不満.悩み.哀しさ.怖れ.脆さ.弱さ.儚さ.空しさ.欲望.無明.渇き.欲望)の中を彷徨い流れゆく事になるのです…
五集合要素(五蘊)
色(身体.五感管)常に変化してゆく不安定なもの
受(感覚)時間.環境.状態などに影響される不安定なもの
感受しているからと言って正しく感受(視.聴.臭.味.触)しているとは限らず時間.環境.状態による自分を感受している想(記憶)偏った知識.誤った情報.捏造された記憶の残滓.先入観.思い込み.錯覚.固定観念.既成概念.迷信.伝聞.通説.習俗.世評.洗脳(染脳)などと感覚.感情.主観.自我意識により形成される不安定で不完全なもの
行(感情)時間.環境.状態などによる自分の欲望に基づいた衝動であり煩悩(存在欲).自我.渇愛の投影でもあり、感覚器官で捉えられるもの全ては世界(全体性)を分断し切り取って捉えた全体性の一部分(断片)に対しての感覚に過ぎず、通常の感覚器官では真理(真実.現実.実相)は捉え難いものなのである。
眠っている潜在煩悩を目覚めさせると激しく貪ったり.激しく怒ったり.激しく悔やんだり哀しんだりさせ起伏の激しい感情を造り出す
識(主観)不安定で捏造され偏ったり間違った感覚.記憶.感情により自分の状態を世界に投影しているのであり真理(真実.現実.実相)を正しく映し出して居ない
※妄想を生じさせ、自我を深めさせる
■主観は根深い煩悩(存在欲)により生じ主観により妄想は生じる。
■知性(理性)により客観的思考は生じ、客観的思考により創造(想像)は生じる。
「もし人が、一切の妄想を離れる事が出来れば、あらゆる苦悩から完全に解放される。」
■諸悪の根源
凡そ汎ゆる苦悩.怖れ.憎しみ.差別.敵対.争い.欲望や全ての悪は自己中心的で自分の立場に捉われ拘り執着した妄想により生じる。
主観的思考をして行く事は自己中心的で自分の立場に執着した自我意識や、自我(主観)による妄想を深めて行く事となり、凡そ汎ゆる苦悩は妄想により生み出されるものである故に妄想.自我.主観を深めるとは即ち苦悩を深め不満.疑い.怖れ.憎しみ.差別.敵対.争い.欲望に翻弄されてゆく事だと言えるのです
■無明(無知)を乗り越える(解放)
主観は主観として受け入れ、知性(理性)により客観的に物事を認識して自分の見解.観念.主義.主張.宗教.哲学などにしがみつかず埋没せず捉われず拘らず執着すること無く無明(無知)の闇を真理(真実.現実.実相)の光明で照らし出し無明(無知)から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放され叡智を顕現させた処こそ平らかで静かで歓喜に満ち溢れた堅固なる到達点(ニルバーナ)である
■進化(世界平和の実現)
主観的思考→客観的思考→中道
煩悩(存在欲)→知性(理性)→中道
自我→無我(相互依存性.相対的関係性)→中道
自我意識→一体性(同一性).共生→中道
妄想→創造(想像)→中道
煩悩→知性(理性)→中道
情緒→論理→中道
野性→仏性→中道
争い→平和→中道
苦悩(ドゥッカ)→満足.平.静.歓.喜
無明(本質的無知)→覚醒→超越→解放(自在な一滴)


●心を修養を目指す者達よ、
五集合要素(五蘊-色.受.想.行.識)は無常であると…
五集合要素(五蘊-色.受.想.行.識)は苦(ドゥッカ)であると…
五集合要素(五蘊-色.受.想.行.識)は無我(アナッタ)であると…
五集合要素(五蘊-色.受.想.行.識)は空であると…
如来の教えを聞いた聖なる修養を目指す者達はその様に観て主観を厭い離れる。主観を厭い離れれば貪欲を離れる
貪欲を厭い離れれば解脱する。
■参照 妄縄自縛  

http://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/66474535.html

所有の次元

人は皆、幸せになりたい.幸せでいたい.と懸命に生きているのです…そして自分を幸せにしてくれるのではないかと錯覚して、[所有の次元の事物]への欲望に血眼になっているのです…
しかし[所有の次元の事物]の.お金も.財産も.持ち物も.地位も.名誉も.権威も.権力も.家族も.伴侶も.子供も.健康も.寿命も.他人の評価や承認も、決して目的物などではないにせよ、幸せになるため.幸せで在るため、便宜的に必要な手段(アイテム)の一つであり、大切な付随物にですから…上手に用いれば幸せにもするし、下手に用いれば不幸にもするものなのですから…


お金持ちになって.幸せになるのも喜ばしい事ですし、王様になって幸せになるのも喜ばしい事なのですが、果たしてお金持ちになって本当に幸せになれたのでしょうか?…絵本の中の王様ではなく.現実社会の王様になって果たして本当に幸せになれるのでしょうか?…
理解しやすいお金や財産について言えば、無ければ無いで、楽しく生きてるような人ならば.有れば有ったで楽しく生きる事もできるでしょうが、無ければ無いで苦しんで生きているような人は、有れば有ったでやはり苦しんで生きているものなのです…
何故ならば、所有の次元の事物は多種多様で世の中の幸せになる為のアイテムなるものは、お金で贖えるものばかりではなく、寧ろお金持ちになって失なうもののほうが多いとさえ言えるのではないでしょうか…

必要以上に有れば有ったで、失なったり.減らしたりする事を心配したり心.貧しく吝嗇になったり、もっともっと有る人は.騙し取られたり.盗まれたりする恐怖に苛まれ疑心暗鬼になる事もあるでしょうし、しかも金財では無常な本質のものしか贖えないのですから…所有によって却って.争いを招いたり.劣化や毀損を心配したり憂いたりと.無ければ蒔かないだろう.苦しみの種を蒔いてもいるのですから…


幸福(しあわせ)の三要素にも書きましたが、お金とか財産とかの[所有の次元の事物]とは[三階部分]の幸せ要素であり、心を形成する[一階部分]の存在の次元の精神性や人格とか、[二階部分]の社会や他の生命との絆や関係性の上に構築されるものであり、建物と同じで[一階.二階部分]が堅固で安定していない[三階部分]ばかりが重たく歪つな建物は不安定で崩壊の危険さえ孕み.ドゥッカ(苦.心痛.恐怖.空しさ.不満.憂い…)に翻弄されながら生きることともなり.安定的で堅固な幸福(しあわせ)を得ることは出来ないのです…

●幸福(しあわせ)の三要素https://lineblog.me/bongteng/archives/2235385.html
①お金は万能?


お金がどんな事でも、解決できる万能な魔法の杖であったなら、実に羨ましいことかもしれませんが、残念なから金財万能主義はその人から

大切なものを奪い去るのです…

例えば他人を自分への利得で判断しがちとなり、その為に人に裏切られたり騙されたりする.

人の行為や人情に頼る必要がなくなると、人は傲慢になりがちで、他人への思い遣りや労りの心を忘れ、金財に富むに従い貧しい心となってゆくのです…

お金を得ようとして成長する人も居る反面、お金に魅入らて餓鬼心.地獄心へと堕落してしまう人も多く、お金が有り過ぎて不幸になる人も結構多いのです...

ですからこれだけ恵まれた社会に暮らしながら世界幸福度調査でも.街を歩く人々の表情からも、世を儚んで自殺する若者の多さからも、お金や財産が有ろうが無かろうが.幸福に暮らしている人は決して多いとは言えず、寧ろ.自分勝手な正義感を振りかざしたり.虐めや嫉妬や不満や怒りが満ち溢れているのも、心の一階部分(存在の次元)そして二階部分(社会や他との絆や関係性)が育成されていない未熟な人間が多いからなのではないでしょうか…

②恐 怖

お金が減る恐怖

お金を失なう恐怖

お金を盗まれる恐怖

お金持ちに吝嗇な人が多いのも、お金持ちを本当には楽しめない.この三大恐怖に疑心暗鬼な餓鬼心に苛まれるからなのです.

いい意味の倹約家と物惜しみとは似て非なるものであり、心の三要素との関係性により幸せと苦しみの真逆な道を辿るのですから…

③家系の断滅

[積善の家は栄え、積不善の家は滅びる]と言われるように、家訓を持つような家柄を除き、成金家などに多く見られるように、経済環境や教育環境に恵まれて育っても、立派な大人を育成する反面、怠惰で虚栄心ばかりが強い大人を育成する結果となり、家系を危うくしたりします…

 

自分の力量でお金持ちになった人たちは、辛酸や苦労も舐めてきているもので自分を律する術も心得てもいるものですが、子供や孫たちの事となると.お金の苦労を知っているだけに兎角、甘くなりがちで、甘やかされて育った子供が自立心の薄弱な録でなしとなるのは自明の理なのですから…

[鉄は熱い内に打て]と言われるように、厳しく躾けるべき幼少期に甘やかしてしまって、長ずるに従って厳しく接しても.曲がった性根を更に歪めさせるだけなのですから…

子供にお金を与えてお金の力を覚えさせるのはある意味、丁半博打のような賭けでもあり、裏目に出れば身上を潰すような放蕩者を造り出したりするのです…

どれ程の金財を遺しても後継に恵まれなければ、家系は三代と続かずひ滅亡することが多いのですから…


④清貧とは.

知足(足るを知る)とは、今あるもので我慢するという意味ではなく、不必要な負担を背負わない幸せの上に.本当に必要なものは既に在るという無一物の軽安さと余計なものがない悦楽に満ち足りた状態を言うように、清貧も、清く貧しく[清貧]であるには、一階部分の精神性.人格.器量.境地が育成されていなければ実現することは出来ません、清貧とは唯、貧しさに甘んじて文句を言わずに暮らすことではなく、本心では金財へ執着したまま清貧を気取るのでは負け惜しみのようでもあり.悲しすぎますし、その積み上がった不満を何処かで暴発させてしまう危険さえ孕んでいるものなのですから…

全体主義

全体主義思想

お釈迦様は、自分を正しい方向へと運ぶための教えを.乗り物に喩えて.筏(いかだ)により、彼岸(ニルヴァーナ.涅槃・大悟)へと渡れと説かれました…それは教えも必要が無くなれば打ち捨て.捉われて重荷にしない為なのです.つまりは教え自体が宝というよりは、教えにより血肉となった境地こそが宝なのですから…
大乗思想とは.ある意味.全体主義思想だと言えると思っている…
権威や空論や得体の知れない神仏への信仰により.全体の利益を個人の利益より優先するという全体主義思想だけではなく、個人の私生活や心情までも積極的に.また強制的に全体を従属させようとするものであるのだが、凡そ全体主義が人々に自由と解放と幸福と安心を永続してもたらした事などなく、そこにあるのは束縛と恐怖と収奪と隷属であり、決して達成される事のない絵に書いた餅に過ぎない事は歴史が証明しているのですから…
それは突き詰めていけば、全体主義思想とは群衆心理や集団心理を利用したマインドコントロールを目的としたものであり、例えば.とても順僕な一個人も集団的状態に於いて心理誘導されると犯罪性.凶暴性.攻撃性.盲従性.衝動性.激高性.軽信性.被暗示性.偏狭性.感情を刺激し.道徳倫理感の欠如的をもたらし、平然と殺人を犯す人間へと変身させもする怖ろしいものなのだから…
例えば[皆の幸せ]とか[皆の利益]とは耳障りがいい言葉ですが、非営利団体と嘯いても教団経営とは経費が嵩むものであり利益追求は必然となるのであり、[富]に関して見た時、皆が富み.恵まれる事は有り得ない幻想でしかなく、金財とは皆が金持ちであったら価値のない性質のものであり、あの手この手で誰かと奪い会い、誰かに苦しみをもたらす事により獲得する弱肉強食の本質により、そこに貧富の差を生じさせることにより価値が生じているのですから…
汎ゆる所有の次元の事物に留まらず、また感覚的な面においても、誰かが快く暮らす為には、縁の下の多くの人々の労苦を必要とするものなのですから…
また感覚的な満足や幸せとは、他の犠牲の上に成り立つ性質のものなのであり、ですから平等で平和で幸福な社会(ユートピア)という小説からヒントを得て創り上げられた理想論を掲げた社会主義共産主義が、却って支配層と隷属層という差別と搾取と隷属により成り立つ階級社会を造り出してしまいますし、皆を乗せる大きな船だと嘯く大乗は得体の知れない神仏や怪しげな力とか眉唾な法則を、無思考に盲信することを強い、逆らう者には仏罰が当たるとか地獄へ堕ちると脅し込むことにより成立しているのです…
ですから仏の教え仏教では理想論を語らないのです…
今も昔も、理想論を語る人には腹に一物ある人が多く、理想と現実とのギャップが甚だしいものなのです…
それらは仏教で戒めているプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.仮説.妄想.形而上の論理…)の一つでもあり、仏教とはそんな耳障りのいい幻に捉られて酔生夢死する人々へ慈悲の心から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放される道を説いているのですから…
例えば、中国仏教を日本にもたらした中国の今の支配者である中共は、現在.アメリカと戦争の危険さえはらみながら揉めていますが、今ひとつその緊張感が伝わって来ないのも、もし戦争となった時に、重要な要素(ファクター)となるだろう日米同盟に風穴を開ける策としての.日本の御し方は先刻ご承知とばかりに日本を見縊っている節もあり、それは荘厳重厚な美辞麗句で飾り立て.難しい言い回しで大言壮語した理想論を語れば.豚も木に登るが如く、コロッと騙せると高を括っているのであり、近年の重要技術情報の搾取や.世論形成や.ハニートラップや金に転ぶ浅薄さにしても、愚かなくせに小賢しい連中を.正義と善意の仮面を被り.偽善と空論と饗しを以って下手に出ながら、容易く下僕として取り込んできた経験と、阿弥陀信仰や観音信仰.弥勒信仰などを進化.発展した仏教だと嘯きながら、日本人を誑かし.盲目的な系譜を紡がせる事にも成功を収め、バッタもんを随分と掴まされながらも.日本の為に先進的な仏教やら何やらを伝えて下さった大中華帝国様々と強烈なバイアスを掛けた成功体験に味をしめた過去に裏打ちされているのですから…
人は自分を基準とした尺度でしか物事を見ることが出来ないもので…
無常な現象で偏った見解に過ぎない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄されることとなり、それが苦へと繋がってゆく…
苦しみ…それは一切を如実に観ることのできない、人間の無智からきているのですから…
しかし残念ながら、世間と言うものには、事実を素直に認める性格は持っていない…
伝統的なこと.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
まして付和雷同しやすい質を具した無思考な善人が多い我が日本民族は、悪意を懐に抱いた偽善者の巧言にコロッと騙され易い…
●信じる者は騙される          無思考に、権威に騙され.世評に騙され.伝統に騙され.欲望に騙され.風説に騙され.肩書に騙され.多くの人は真理(真実)を見ようとはしない…                社会をつらつら眺むれば今まさに真の仏教思想を説く事の重要性を痛感せずには居られない…

知識や情報により悟る事なく…

精神作用(五蘊)や思考力により悟る事なく…

悟りを欲して、悟る事なく…

呪文を唱えて、悟る事なく…

瞑想により、悟る事もなく…

唯、在るがままを眺めるだけ…

●情けない話ではありますが、強い相手や権力には阿り.口をつぐむ一方.虐めたり叩いてもよさそうな奴は、徹底的に虐めたり叩いたりして憂さを晴らそうとする、そんな長いものには巻かれろ的で居るから責任の所在を明確にすることもなく.自分勝手な正義を振りかざして攻撃対象としての村八分を造り出そうとする心の貧しさを併せ持つのが、多くの日本人(大衆)の根深い国民性なのではないでしょうか…
当たり前だと言われることであっても、何処で、誰が、何の為に決めたを踏まえていなければ、唯、盲信しているだけ…そして妄信者はどうでもいい者物事.下らない者物事.つまらない者物事など小事には拘り.捉われ.執着してゴチャゴチャと考える癖に、肝心で大切な物事には感情的な主観を先立たせて、現実と妄想の狭間で藻掻いている…

目覚め[覚醒]   乗り越え[超越]   解き放て[解放]
⚫バイアス
先入観.思い込み.錯覚.既成概念.固定観念.迷信.通説.仮説.伝統.暗示.
権威.洗脳.誤解.偏り誤った知識や情報.