応急処置と根治治療

これは言い換えれば.宗教と信仰との関係性と本質についての正しい理解でもあると言えるのです…それを認識して頂くためには.先ず現在の多くの日本人が持っている[宗教]の概念を.改めさせて頂かねばならないのですが.現実を直視すれば.多くの方がお持ちの宗教イコール如何わしい信仰という概念を否定する事は到底.困難であろうとも思えるのです…

どういう事なのかと言えば.宗教という言葉の.本当の語意は[宗ねとなる教え]という意味であり.皆さんが抱いている得体の知れないものへの信仰とか宗教とは異質な別次元なものなのです…

そして宗ねとなる教えとは.人間が正しく.そして幸せに生きる為に.必要となる[第一の教え][核心となる教え]という意味であり.お釈迦さまが説かれた仏教の教えとは.正にそのような教えであり.多くの人達が混同されている信仰や宗教とは[間逆な性質]のものでもあるのです…

ですから.どちらが正しいか.正しくないかという認識ではなく.外国の方の宗教というものに対する概念から見ると無宗教を自認す日本人が.核心を持っていない信用がおけない存在[糸の切れた凧]のような存在と映っていると言われるのです…つまりは皆さんが.お持ちの宗教への概念(信仰心)と.お釈迦さまが説かれた仏教とは実は間逆な性質のものであるという事を先ず理解して頂きたいのです…

◆応急処置と完治治療(根治治療)
仏教とは完治を施す教えであり.決して対処療法や応急処置ではないのです…

何の完治なのかと言えば.無明という盲目さと煩悩(存在欲)を素因とした業病とその苦しみ(不安定さ.ドゥッカ)の完治(根治)であり.その苦しみ(不安定さ.ドゥッカ)という根深い病巣を取り除いて完治させ.堅固な安らぎ.幸せ.安定.清逸という心の健康へと導く教えなのです…
ですから無明の闇が深ければ深いほど世の中が[行き辛い]と感じたり.欲が深まれば深まるほど不満.哀しみ.怒り.苦しみなども増えてゆくのです…

しかし[毒矢の喩え(下記参照)]として説かれる仏教の基本スタンスとして.飽くまでも[対処療法]として.信仰的要素を含んでいる事を否定する事も出来ませんが…
しかし仏教がもつ信仰とは.本質的にはお釈迦さまが説かれた真理の教えへの信仰であって.得体の知れない神仏や眉唾な力への信仰ではないのですから…

先ず信仰とは.仰いで信じるという事であり.本当なのか偽りなのか…正しいのか間違いなのか…などという疑念を持つことなく.ひたすら鵜呑みにして.盲信する事が求められるものではありますが…心が病み.悩み苦しみ人の心痛を.取り敢えず.鎮静化させ安定化させる為には.プラセボ効果も望める応急処置は有効なのです…
ですから激痛を伴う重病患者や癌患者に麻薬物質を痛みの緩和の為に治療と平行して投与したりしますが.それは飽くまで対処療法でしかなく麻薬物質で重病患者や癌患者が治癒する事などないように本当に治癒させるには完治療法(根治療法)が必要なのですから…

ですから信仰も完治療法とは次元の異なる心の痛みや安定化の為の緊急的な対処療法でしかなく.夢幻なものを依り処(精神的支柱)とする事であり.豆腐よりも軟弱な.無常で.空で.夢幻なものを依り処としても.本質的な不安定さが完治(根治)することなどなく.折角の人生を酔生夢死してしまい.迷いの生存を繰り返すだけでしかなく.増して麻薬患者を見て頂ければ解るように常用性という生体反応により.麻薬物質の摂取量を段々と増やしていかなければ.初期の快感.安心感.解放感.喜び.安定感などは得られなくなり.その増量は廃人化するまで続くものなのですから…

全ての迷いの原因は無明であり.誤認なのです…
疑問.戸惑い.躊躇いが有る限り.進歩は出来ず.物事が理解できず.確証が得られず.明晰に見えない限り.疑問を拭うことは出来ないのですから…
ですから本当に完治(根治)する為には.疑問を無くし.真実(真理.事実.現実.実相)を明晰に見る事が必要不可欠なのです…

ですから疑わずに信じるべきであると言うのは的外れな言葉でしかなく.ただ信じるとは.本当に物事が見えて.理解している事ではなく.寧ろ本当には物事が見えてはいない.盲目的に無明の暗闇の中を.行き当たりばったりに彷徨っているに過ぎず.本質的には.不安定状態のままなのですから.変化生滅してゆく無常な世界の苦しみ(ドゥッカ)の中で.取り敢えずの応急処置を施したに過ぎないのですから…

◆二つの観察法 
凡そ苦しみ(ドゥッカ)が生ずるのは.すべて素因に縁って起るのであるというのが.一つの観察[法]である…

しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば.苦しみ(ドゥッカ)が生ずることがない.というのが第二の観察[法]である.このように二種の観察法により意志と信念をもって正しく観察し.怠らず.努め励んで.専心している修養者には.二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される…
すなわち現世における大悟か.あるいは煩悩の残りがあるならば.この迷いの生存に戻らないことである…

◆毒矢の喩え
たとえばある人が毒の矢で射られたとする…するとすぐに仲間が毒矢を抜きとって治療しようとするだろう…
ところが.もしもその射られた人が「矢を射たのは.何処に住む.どういう身分の.どういう名前の人間か…弓はどんな弓で.弦(つる)は何で出来ていて.矢の材質は何か…矢羽根は何の鳥の羽根か…
こうしたことが分からないうちは矢を抜いてはならない.と言ったらどうなるだろうか…

その人は体に毒が回りやがて死んでしまうだろう…
汝が言っているのはそれと同じことである…何故なら私はそうした質問に答えるつもりはないから.汝は修行する事なく死んでいく事になるからである…
だから私が説いたことは説いたように受け容れよ…
説かなかったことは説かなかったと受け容れよ…
私がなぜ説かないのかというと.それらの問題に対する答えは.清らかな行ない.世俗からの厭離.煩悩の消滅.心の平静.すぐれた智慧(叡智).正しい悟り.涅槃(ニルヴァーナ)の役に立たないからである…

それらの問題に対する答えがあったとしても.生があり.老いがあり.死があり.憂い.嘆き.悶えがある…
私が説いているのは.そうした人生の苦しみを解決する道である…
毒の矢を抜き去るように.苦を速やかに抜き去ることが一番大事なことではないのか…
この話を聞いた修行者は.歓喜して教えを信受するようになったという…