無明(本質的無知)

⚫信仰と宗教
信仰とは本質的には[盲目的][情緒的][麻薬的]なものであり、人間の持つ弱さ.怖さ.無明.妄迷さを深めさせ、真理から遠ざけてゆく性質のものなのです…
もし信仰をもつ人が[これは私の信仰です]と述べる限りに於いては.その人は真実を保有していると言えるのです…〈信仰の自由〉
しかし更に進んで[これのみが真実であり.他の信仰はすべて偽りである]と、自らの信心あるいは信仰から自分の信じている事のみが真実で他の全ては偽りであり劣っているものだと主張する事は許されず、それは一つの見解に固執して.他の見解を否定する事.それは自らに囚われている事に他ならないのです…
世界ではこの信仰に殉じて.得体の知れない神様や仏様…また或いは迷信的で眉唾な能力を保持すると主張する教祖や教義の為に.不毛な争いを繰り広げて大切な時間と金財を無益に浪費しているのが現実なのです…



仏教とは真理の[発見][覚醒][超越][解放]を説くものであり、それは人々を堅固な安全.平安.喜び.幸せ.静逸へと導く為の宗(む)ねとなる教えなのです…
仏教とは得体の知れない神仏や力への信仰ではなく、自らが眺め.分析し.思惟思推し.考察し.検証し.確証を得て.理解する為のものであり、信仰は釈迦尊(ブッダ)が遺された[偉大な御教え]への信仰であり、盲目的な信仰への依存から目覚め.乗り越え.解き放たれて、真理を依り処とした安定した自分を取り戻す教えなのですから…

論理に偏り、血肉の通わぬ非情な者であってはならない。
情緒に偏り、感覚的.感情的な気分屋であってはならない。
その両極を超越した中道に真理(真実.現実.事実.実相)は顕現し、堅固なる涅槃(ニルヴァーナ)の安定へ到達する。

今昔ともに卑しい野心を抱く欲深い者達は、信仰でも興し無明な民衆を誑かそうと画策するもの…
しかし深淵なる真理を理解する事もなく唯.偉大なるお釈迦様の権威と名声に阿り、教えを捻じ曲げ[こっちの水は甘いぞ〜あっち(仏の教え)の水は苦いぞ〜]と
嘯くは憐れなり…
剰え[ お釈迦が説かれた教えは小乗であり、完全な解脱や涅槃や成仏法は説かれて居らず、大乗仏教こそ完全な解脱と涅槃と成仏法によるブッダになる道が説かれている…]と宣いながらも.深淵なる真理の何たるかの理解も認識も空なる故にお釈迦様が否定された眉唾で得体の知れない神仏への信仰や呪文や真言によって到達できるという怪しげな教義こそが大乗の本質であり、その不毛で盲目的な系譜を無明に無思考に紡ぐ宗派の在り方に大乗宗派の一員である僧侶として先ず解脱した処から私の如来への道も始まった…

人は無明(本質的な無知)ゆえに本質的に不安.怖れ.疑問.渇望しながら.暗夜行路を行くが如く 盲目的に手探りで生きている。
だから保護.安心.安全.恩恵を願い求めようとする情緒は何かしら依存する信仰を渇望するのである。
得体の知れない神.仏や霊力への信仰の空しさに気付き.捨て離れても無明なままの者達は、その本質的不安定性から何かしらの拠り処を必要として、[所有の次元の事物]へと依存しながら、それが目的物の如く.信仰化させてゆく、拝金主義などは正に金財を崇拝する信仰に他ならない。
また仏教は[真理]を語るものであり、真理を求めていない人に、信じる事を強いる事もなく、無明な者を責める事もなく、唯、憐れむのである。
[解る]と[出来る]は違うもの...三歳の子供でも解る事が、八十歳の老人でも出来ないものが、真に価値ある生き方...
⚫己の愚を知るが賢者なり
人は皆、無明(本質的無知)に生まれついている…だから皆、暗夜行路をゆく如く.無明という闇の中を手探りで盲目的に生きている…
この無明という明かりがない闇を.言い換えれば愚か者の状態で誰でもが生まれついている.明日をも知れない身の上なのだ.

経験知.知識.情報.知恵などにより少しずつ無明の闇を照らし出しながらビクビクしながら辛うじて生きているのが実像なのであり、そうではなく私は確りと物事が見えていると錯覚している人が居るとすれば彼こそが愚の骨頂と言えるだろう.

無明の闇が晴れたなら、そこには何の心配も.不安も.不満も.怒りも.渇愛も.拘りも.捉われも.執着もなく.在るがままに在るだろうが、無明で愚かな人には心配や不安や不満や怒りや渇望や拘りや捉われや執着が沢山在る筈、常ならず移りゆく無常法の中をじたばたと生きている事だろう…

不完全で不安定なのは.愚かな人間なのだから当たり前。
間違いも失敗も当たり前、要は糧と出来るか.何時までも繰り返すかだけ…
どんな生き方をしている人でも無意識に持っている.根拠のない[自分は正しい]という錯覚と妄想に気付く事だけ…
人は何かしら[自分は正しい]という判断が持てなければ何も出来ないし.先には進めないのだから…
行動する時、ただ気付き[本当に良いか悪いか]ひと呼吸…
自ずと.いけない行為.間違った行為.下らない行為.詰まらない行為.恥ずべき行為.
悪い行為は抑制されてゆくだろう…
そこには魂.霊魂.霊体などの本質的.実存的な妄想的な存在への錯覚が関係していて、無意識に内在する根拠のない[自分は正しい]という愚かさは自分の魂.霊魂.本質的存在の叫びだという勘違い…
[思考の後ろには本質的.実体的な存在など.存在しない、蓄積してきた無意識による思考自体が思考者なのである。]
そんな無意識な無明さ(愚かさ)から来る[思い込み]こそが生きてゆく上での数多くの厄介な問題を造り出している。
根拠のない主観的.感覚的.感情的.自我意識の妄想から、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、智慧の光明で照らし出された真理(真実.事実.現実.実相)に依拠した、安定.安心.愉悦.静逸.多幸な毎日を奥深く味わう為には、先ず[愚かな自分を受け入れる]処から賢者への道は始まるのです。
●虚無思想と無常思想
仏教は無常性(常なく移りゆく世界観)や空性(非実存...現象的存在性)を説いていますので、それが浅薄に受け取られてしまい[虚無的・刹那的・享楽的]なものだと誤解されがちなのですが、真実はそれら虚無的.刹那的.享楽的な思想や観念とは真逆な思想で在るとも言えるのですが、日本では特に[侘び寂び(わびさび)]への憧憬や滅びの美学などという歪んだ美意識と相まって、虚無的.刹那的.享楽的なものが無常観だと錯覚しているのです。
先ず、虚無感とは物事と生命存在の全てに価値観を見い出せない世界観の事ですが、その価値観とは変化生滅を分断して捉えた片極に偏った価値観でしかなく、無常(常なく移り行く)とは、滅したように見えても新たに生じ、破壊と創造は繰り返され、今日沈んだ太陽も明日はまた昇り、死んだ人が生命があれば生まれてくる生命があるという、変化の中にこそ真の価値観がある事を説いているのですまた刹那的.享楽的とは、過去に捉われ明日に期待しながらも、今の感覚的.感情的.主観的な快楽への欲求を優先しようとする、今が良ければ[後は野と成れ山と成れ]という自暴自棄的な観念であり、仏教の似て非なる処は、感覚的.感情的.主観的な.詰まらないもの事、下らないもの事、どうでもいいもの事、愚かなもの事などに.気を取られていたり、捉われていたり、拘っていたり、、執着してないで、今と言う一瞬一瞬を無駄に過ごず大切にしなさいと説いているのであって....それらの感覚的.感情的.主観的な.詰まらないもの事、下らないもの事、どうでもいいもの事、愚かなもの事などに.気を取られ、捉われ、拘り、執着して翻弄され、ドゥッカ(苦.不満.空しさ.儚さ.虚無感.......)を造り出してしまうのも無明の闇の中を手探りで盲目的に愚かに生きているからなのだよ!という教えなのです。