如来の教えに宗派なし

慈雲尊者飲光の遺訓に[釈尊在世に宗派なし]という言葉があります…
真に仏道を歩まんと欲するならば、宗派などというものに捉われ.拘り.愛着していては、自分自身ばかりか衆生を堅固で実存的な幸せ.平穏.安楽.歓喜.静逸へと導く事など到底、不可能なことであり、妄想的で得体の知れない神仏や他力などからの救済を空約束するか、愚かな民衆を染脳(洗脳)して.無明(無知)の闇を深めさせ盲目的に.無思考に.そして隷属的に追随する自分を幸せだと錯覚させ、結果的に折角の人生と金財を無価値に浪費させながら、やがてそれに気付く時.悔いと空しさ儚さとに苛まれながら、因縁深く輪廻を継続させてゆくのです…
弓矢の喩えに説かれる如く、先ず.心に刺さった矢(苦)を抜いてあげる事こそが第一なのですが、それは飽くまで応急処置であって.そこで得た信頼を礎に.観念的.空論的な教義や得体の知れない神仏や怪しげな力へと導き、信仰を強いる存在としての宗派というものであり、今日の社会に於いて考えられている宗教というものなのです…
極論から言えば.お釈迦さまは、今日.社会で言われるような信仰とか宗教というものを否定された方であり、お釈迦さまの在世.当時にもインド社会に溢れ返っていた得体の知れない神仏や怪しげな力や論理に依存した信仰や宗教や身分制度によって虐げられ.染脳(洗脳)され.隷属させられ.強いられていた民衆への慈悲心から、民衆の目覚め(覚醒).捨て去り離れ(捨離).乗り越え(超越).解き放たれ(解放)を願われ仏の教え(仏教)を説かれたのですから…
人は生まれによって賤しいのではなく、行ないによって賤しいのである。
人は生まれによって尊いのではなく、行ないによって尊いのである。
人は生まれによって貴いのではなく、行ないによって貴いのである。
人は生まれによって清いのではなく、行ないによって清いのである。
自分の到達に専念する部派仏教(上座部.分別説)も不十分なものであり、大乗もまた不十分なものである…
しかしお釈迦さまが真に説かれた頂乗なる仏教は現実に則した完璧な教えである…我田引水.自画自賛…笑