宗教と宗教観

宗教と宗教観
言うなれば.ここが仏教の真骨頂でもあり.仏教を仏教たらしめている処でもあるのですが.ここが一番.理解し難い処でもあると言え.その為に多くの仏教を称する低次元な異端の教えを生み出してきた所縁でもあるのです…
宗教と宗教観とは本質的には天と地ほども違うものなのです…
それは[拠り処]の章でも述べている通り、神や仏とは人間の持つ根深い生きていく事への恐れ.不安.虚しさ.無明さが、子供が親に縋るように保護.安全.安心.恩恵を求めて妄想したものであり、そんな妄想的な物への信仰.崇拝を否定した宗教こそ仏教なのですが、それは仏教の成立当時に於いて迷信的.隷属的に人々を脅しこみ.縛りつけていたバラモン教の神々の否定であり、世の中に溢れ返る得体の知れない神仏や眉唾な力などの否定であり、決して宗教観を否定している処か、却って無明の闇の中を手探りで生きている人々には、宗教観が絶対的に必要なのであり、それは共産主義思想とか全体主義思想を見れば明らかであるように.人間存在とは.大宇宙の片隅の.その一銀河の片隅の太陽系という星系の地球という惑星に生きかされている.大宇宙的に見れば微生物にも等しい儚い存在でしかない事実を大いなる存在というタガが外れ病的な増上慢になると無明な人間はパラノイアな人のごとく.自分達の神格化を欲し、自分の主観に逆らう人々を何百万人.何千万人抹殺しようが、意にも返さない愚かな本質を現わす[人の心の奥底に仏も住むが鬼も住む]そんな存在であり、具わった理性という仏心により.得体の知れないものにではなく、人間などという存在には理解し得ない.計り難い.大いなる存在への正しい崇め.畏れ.敬い.感謝という宗教観がなければ人の心から修羅.畜生.餓鬼.地獄へと堕ちて行くか、糸の切れた凧のように激しい流転を繰り返してゆく事になるのですから…
この大いなる世界を司る[理法]に対するとき、不完全で.不安定で.弱く.脆く.儚き人間という存在として.大いなる存在(理法.天地自然.森羅万象の法則)に対する崇め.畏れ.敬い.感謝の心の象徴であり、主観的に神や仏という象徴的な概念を我々と似せて擬人化して自分達に依り近い存在であって欲しいという願いからに他ならないのです…

しかし象徴化し、また擬人化してしまった事により大いなる理法への信仰が、いつの間にやら得体の知れない神や仏という存在への信仰と化し、絶対神やら何たら仏やらパパラッチでも在るまいし我が神と他の神とか何たら仏のご利益と分別.分断化して、妄想にすぎない俺らが神は偉くて他の神は偉くないと争い.競い.戦争までして他人を多く殺戮したほうの神さまが偉いと位置付けられる罪造りな存在でもあるのですから…
しかし決して宗教や宗教観の否定している訳ではなく、寧ろ正しい宗教や宗教観や拠り処が無ければならないといっているのです…
それは言い換えれば.ドゥッカ(苦)という本質により生かされている人間としての自覚、この
なまじ発展した社会に暮らす愚かな人達は、得体の知れない神仏への信仰から解き放たれた時、人間を人間たらしめている宗教観まで喪失してしまい、この大宇宙の片隅に生きる微生物に等しき存在に過ぎぬ自分というものを尊大に捉えて、心を貧しくさせ、この大宇宙を存在させしめている[大いなる理法][大いなる意思][大いなる存在]への崇め.畏れ.敬い.感謝を、得体の知れないものへと振り向けたり、そんな宗教を捨て去った時、同時に宗教観までも捨て去ってしまい、苦しみ.怒り.不満の根源である貪瞋痴思考という無明な生き方をする事になるのですから…
げに怖ろしきは無明なり…
[人は無明なるが故に宗教観を必要とするのです…]
宗教それは人間の無明な心を慰める為でもある一方、修羅心.畜生心.餓鬼心.地獄心にも容易に貶めてしまう人間の心の本性を善へと導くものなのですから…
人間の無明な本性が暴走するとき、人は自分を基準とした尺度と範疇の中でしか物事を見ることが出来ない…それは大いなる真理の一片を以って、真理の全てであるかの如く錯覚している[井の中の蛙]に他ならないのである…
またそんな主観的で片寄った知識や情報が決して真実とは限らないにも関わらず.そのことに気付けず.気付かす、鵜呑みにして盲信する無思考な者達が大勢を締めるのも怖ろしいことであり.そんな愚かで.短絡的で.偏った者の一人が.その狭い了見で下した無常で短絡的な主観に過ぎないものであっても、煩悩は[自分は正しい][自分の判断は間違ってない]と根拠もない自己肯定感を乗り越えることが出来ないものなのです…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄されることとなり、それが苦と不満を造りだしているのですから…