2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

仏教は信心を求めない

◆仏教の有名な言葉に、Ehipassika(エヒパッシカ)という表現があります。 仏教では「信じなさい」とは決して言わないものであり、「自由に、来て下さい、見て下さい。」といった意味で、束縛をしないということであり仏教とは信心でも信仰でもなく、自らよ…

孫悟空(自我の妄想)

「考え方」次第で自分や物事を変えてゆく事が本当に出来るのであるならば知識や見解や思想が満ち溢れる現代社会には苦や悩みや不満など根絶されているだろうに、現実は苦や悩みや不満は増え続け、恨みや妬みは呪いという形をとり、前向きで建設的な向上へと…

賢明と頑迷

釈迦尊の教えは真理である。故に永い時を経過した現代においても実に有益な教えであり、発展を遂げた科学と物質文化の中にあって複雑な社会構造によるストレスに晒され現実と理想とのギャップの中に生みだされる苦悩や不満や怒りが人の心を蝕んでゆく今の時…

本覚思想・真如思想はカルト思想

人がどんな宗教に帰依しようがどんな信仰を信じようが信教の自由であり非難したり批判したりするつもりもないが、偏った思想や誤った思想に染脳(洗脳)され折角の人生を迷妄の中を彷徨う決定邪見に陥らないよう、真実を知って頂きたく善良な者達に対して警…

無明(無知)・意と気

無明とは無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ないこと」をいうのであり、縁起という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は業(カルマ)を生起させ、業(カルマ)により欲求を生起させ…

心の余裕

宗教(宗ねとなる教え)とは本来.人の心を縛るものではなく、人の無明(本質的無知)や愚かな心を晴らして解放していくべきものなのに、残念ながら社会には、偏った思想や見解や理論で人の心を縛ろうとする宗教と言われる類のものが溢れ返っています…そして現代…

現象世界

この世界は現象世界なのである。 全ての事物は「生じては成長し変化し滅してゆく」という現象を永遠に繰り返しているだけなのであり、私とは生じ成長し変化しながら軈て消えてゆく途上にあるだけの存在なのであり、妄想された神や仏の差配によって現象が醸さ…

有学と無学

仏教でいう有学と無学とは学暦.教育.知識が有るか無いかという事ではなく、知識(スートラ.経蔵)、情報(アビダルマ.論蔵)、見解などを一つの頼り道標とし規律(ヴィヤナ)に遵い学び理解し修養に役立て実践してゆく階梯であり、その到達する処は世俗に縛られる…

感情と理性

思い通りに生きたい、思う存分に生きたい、心の望むがままに生きたい、心が欲するがままに、快きままに生きたいと彷徨う心は煩悩(存在欲)の衝動に絡め捕られ気分しだい感覚しだいで糸が切れた凧の如く流れ、行き着く先は、苦と不満を積み上げ自分勝手で碌…

死随観

生死は一如なり、 人は何のために生まれ、何のために生きるのかという素朴な疑問にすら答えることが出来ないままに無明(本質的な無知)の闇を抱えたまま盲目的に手探りで暗夜行路を行くが如く.しかし賢明に兎に角.生きているのだが、いつの間にか仕事や学業や…

信仰と宗教

世界には宗教に分類される幾多の信仰が存在しますが、その中にあって唯一無二の得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であると主張しなかったマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです… 故に仏教の中に信仰を探すならば人間ブッダと…

不治の病

私は病気なのだろうか?病院へ行ったほうが良いのであろうか?脳内麻薬の多量分泌病なのだろうか?人は元来、感覚中毒患者であるが、それとは明らかに異質な軽安な悦楽に、心は解き放たれ、安定化した心は法悦と至福なる快楽を生ずる。 解き放たれ安定化した…

乞食坊主と物乞いシッダ―ルタ

釈迦尊という方がどう生活なされたのかを正しく認識して頂く為には先ず仏教というものを依り正しく認識して頂かなくてはならないと思う。まず大乗は紀元前・後期より、馬鳴(アシュバ・ゴーシャ)等が中心となり「大乗起生論」を軸に成立させ、後に龍樹(ナ…

聖道跡に大悟あり

吾を臥龍鳳雛と呼びし者在れど、吾、縁の下の筍なりて、縁に依り、縁の下にて日陰に住す、然れども精進を怠らず聖道跡に思いを凝らし成したれば、縁に触れ縁を穿ちて、縁に依り、縁の上にて日向に惰眠する凡庸を蹴散したる清竹と成らん。 聖道跡、此れ釈迦尊…

世俗諦と勝義諦

釈迦尊の説かれた真正な仏教に於ける悟りとは実は大別すると二階梯より成り立つのであるが、近代の仏教世界に於いてこの重要な認識が曖昧となている処が釈迦尊と等正覚な如来への道を阻んだのである。 上座部に於いては有学の四向四果における阿羅漢果(応供)…

真の勝利者

【山の彼方 カールブッセ】 山の彼方(あなた)の 空遠く 幸い住むと 人の言う 噫(ああ)我れ人と 尋(と)め行きて 涙さしぐみ 帰りきぬ 山の彼方に なお遠く 幸い住むと 人の言う [山の向こう、ずっと遠い空の彼方まで行けば、幸福があるのだと誰かが言った。 …

平安こそ悦楽なり

人の心とは繰り返される「五蘊」の流れであり、人の身体とは変化生滅し続ける「集まり」である。心身の形成(結び目)が本能を生じさせる。 一切の形成されたものは無常である。(諸行無常) 一切の形成されたものは苦しみである。(一切皆苦) 一切の事物は…

ドーパミン

釈迦尊(ブッダ)は仰っています… 「愚かなる者達は、日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく、雑草を美味しいと食べている家畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」 …

苦は妄想から生じる

「もし人が、一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される。」 「あらゆる苦(ドゥッカ)は渇愛を原因とし、渇愛は妄想を生じさせる。」 渇愛を制御するならば存在欲(煩悩)は制御され、存在欲が制御されれば感情や自我は…

感性

釈迦尊(ブッダ)の真正な仏教が説いているのは世の多くの者達が説く、思考域での意識改革を説いているのではなく、無意識層(潜在意識・末那識-自我意識)と基底層(本能域・横たわる阿羅邪識)をも含めた真理に基づいた覚醒による[調えられた感性]なのです。表層…

苦楽一如・大楽と小楽

【苦楽一如】 ◆苦楽は一如なりて苦楽とは感覚の分別なり 苦を前提条件に楽は在り、楽を前提条件に苦は在る。(楽は苦の種 苦は楽の種) 苦と感じるのも、楽と感じるのも、同じ物事を違う方向から捉えているだけであり、人間の本質は「苦と痛み」により成り立っ…

成功と失敗

世に言う、成功も失敗もその本質は一如なりて唯、捉え方による価値観しだいなのである。人の価値、生きる価値とは、その行為の上にのみに在り、決してその結果には無いのである。好きも嫌いも表裏一体なものであり結果とは一過性なる現象に過ぎず、賢者はそ…

物欲

「物欲は果てしなく、空しきものなりて、しかも物欲に満たされることなし」 人は[あれが有れば][これが欲しい]と生きる為には然程も必要でもないものにまで物欲に翻弄され短命な感覚的な喜びを積み重ねて幸福だと錯覚ながら真に満たされる事がない。 その本…

如来品正師 語録その4

◆如来品正師 多々方等正覚 語録 苦を前提として楽は在り、楽を前提として苦は在り 苦楽を前提として不苦不楽は在り不苦不楽を前提として苦楽は在り 苦を前向きに受け止め捉えざる者楽に気付く事なく未だ苦中に在り 楽とは味わうもので苦とは心に留めるもの苦…

如来品正師 語録ー3

◆如来品正師 多々方等正覚 語録‏ 「心、自縛より解き放ちたれば、軽安に依りて雲上の住するが如し。日々、托鉢に出ずるとき、正に雲上より下界へと降りるが如しなり。」 想念を解き放ち思考を働かせず、心とは本質的には捕え所なきものである。表面の思考に…

如来品正師語録その2

◆如来品正師 多々方等正覚 語録 人は不満の中を流れてゆく・・この本質に気付かずに生きると心の中は不満が積もり塊りともなり心を修羅・畜生・餓鬼へと貶める。気付く者は生きるに感謝し食べるに感謝し息するに感謝しあらゆる物事に感謝でき慈悲を施し幸せ…

如来品正師語録その1

◆如来品正師 多々方等正覚 語録 暮らし貧しくとも、心、貧しくなるなかれ。 暮らし恵まれたれば、感謝を忘るるべからず。 暮らし劣るとも、心、劣る者となるなかれ。 身体、健康なれど、心、不健康となるなかれ。 我れを褒め、他を貶むる者になるなかれ。 身…

仏教経典

純粋な仏教における最重要な教典は「自燈明経典」「法燈明経典」という無記の至上なる二巻の経典であり、それを補足するのが幾千と有る経.律.論蔵経典類だと言え、中でも釈迦尊(ブッダ)の生のお言葉や真実の御教えを多く収蔵しているのが南伝大蔵経典である…

純粋仏教修養項目

純粋仏教 修養項目 僧侶(比丘)とは修行する出世俗者であり.剃髪し粗衣を身に纏い托鉢で暮らしている。このような慎ましい生活を送るのは負債や生活苦の為なのではなく.我らの心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱し自由になるためであり、真正なる釈迦尊の教えを…

多々方路傍石

真聖な仏教を追求する聖(ひじり) 如来品正師 多々方 路傍石(等正覚) 世俗に寄り添い衆生の中に乞食僧((比丘)として身を窶し、聖(ひじり)として生きる事こそが仏道の本道であると見定め、釈迦尊(ブッダ)の歩まれし聖道跡を歩まん。 幾星霜の日月の修行と…