苦は妄想から生じる

「もし人が、一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される。」
「あらゆる苦(ドゥッカ)は渇愛を原因とし、渇愛は妄想を生じさせる。」
渇愛を制御するならば存在欲(煩悩)は制御され、存在欲が制御されれば感情や自我は制御され、自我が制御されれば妄想も制御される。意識は五蘊による刺激や情報を主観的に捏造することなく、在るが儘に感受し識別するならば自我意識は脱落して[所有の次元]への執着から目覚め、必要以上を求める執着から心は解放される。
仏教の基本は[妄想に陥るな]の現象的存在の自覚[四念処]から始まる。思考は無限なる想像力により創造と発展を成し遂げてきた。一方で思考(主観)は雑念に入りやすく思考(主観)による想像が雑念となり深まると妄想へと陥る。今、思考していると理性により客観的に制御しながら想像してゆけば創造(推理・洞察)を生みだしたりするが、思考(主観)を制御する事なく雑念となり妄想へと陥るとき感覚や感情に執着して心は馬車馬の如く暴走を始め妄想は更に深めてゆく時、妄想を現実と錯覚させる事すらあり、人を欲深く執着させてゆき、中には重症化し幻視・幻聴・幻覚を現実と見紛う人さえ現れる。
そのメカニズムは、理性(客観的理解認識能力)による思考が想像や空想に入った時[今、空想を始めた。]と気付かせてくれる気付き(サティー)があり自由な発想をしてゆくが、主観による雑念や妄想には陥るとき気付かせてくる理性(客観的な理解・認識能力)は感覚や感情への執着により理性の制御が働きずらくなり、妄想へと陥り自己中心的で感情的な妄想を膨らまし心を歪めてゆく。
主観が雑念に入った時、その雑念を気に入り妄想へと暴走させてゆくものは感情の三毒(貪瞋痴)なのであり、自我が絡んだ妄想へと陥ると理性は吹き飛んで他人や社会を破壊してでも自我の欲求を叶える妄想へも容易に陥るものである。更に妄想が深まると妄想を現実の如く捉え、心の中で何人、何百人、何万人の人や他の生物を殺傷し弄り不遜に振舞う妄想や幻想を現実世界で実現しようとするような狂気的な人間を作り出す自己染脳(洗脳)さえあるのである。
このようにして世間で言われる絶対神とか神や仏は妄想により造りだされたのであり、人が本能的に宿す大宇宙(現象世界)への畏怖から生ずる敬い讃え崇め感謝する存在を妄想により捏造した産物なのであり、神や仏が人間を造ったのではなく人間が神や仏を妄想したのである。予言や迷信を語り、霊言や超能力を宣いカルトな思想を説くパラノイア(妄想者)が造ったのであり、空理空論や詭弁と能書きで正当化を図り、人の感情に訴えようとするが理性で思考するならば容易に判断できる筈なのだが、世人は元来が感覚が感受する刺激がお気に入りなので妄想により捏造された幻想に魅入られ易いのである。
神や仏そして悪魔や鬼が何処にいるのかと問うならば、それは皆の心の中に全て居るのです。
理性に勝る神は居らず、感情(不善処)に勝る悪魔は居おらず、自我に勝る鬼など居らず、よく調えられた、その身こそが仏なのですから…
一例として最近、見聞した笑える話を一つ披露しよう。
[大乗自身が、大乗の出自の卑しさの馬脚を現す]
大乗はいう[大乗とは瞑想の中に釈尊の教えを聞き、出来たものである。]
これは明らかに[大乗とは妄想の中に釈尊の教えを聞き出来た。]と言っている【論拠の一】大乗が成立した経緯は、釈迦尊が入滅され300年位が経過した時代において各部派に於いて指導力に劣る者が指導者と成る事が増え、それにより修行しても四向四果の流れに乗れず脱落した者達が興した運動が「大乗」という誰でもが安易に悟り幸福を得る事が出来る方法を捏造(妄想)したのである。
【論拠の二】修行を脱落した原因は明白なのである。今でもよく見受けられる修行から脱落する者達に共通する[忘筌]という問題、これは理論や形式に拘ったり捉われたりして基本や実践を蔑ろにする事であり、先ず専念すべき四念処における最初の気付きである心念処[妄想に気付き、陥らない]という訓練の基本が身に付いて居ないから次の集中や発見へ至る為に[ただ眺める]ことが出来ず妄想の中に幻想を抱いてゆくのである。正に妄想により大乗は造られた証の一つであろう。
【論拠の三】300年前に入滅された釈迦尊が自分に語りかけて来たと幻想.妄想する人間達の特徴は…
①仏教では死後に、この世の者達に語りかける理法などない。(迷信や土着の信仰などに根差す妄想なのです。)
釈迦尊に於いても[輪廻の軛から外れ二度とこの世には戻ることはない。]と仰っているのだから不遜な妄想でもあるのです…
③多くの弟子や修行者達の中にあって自分は釈迦尊が語りかけて来るような特別な人間であるという自我に侵された自惚れと錯覚の中に思考する未熟な妄想思考者である。
【論拠の四】大乗が当時も流行っていた本覚思想やカルト思想を取り入れたのは[所有の次元]を彷徨う者の欲得への執着によるのであり、信者が欲しい、権威が欲しい、勢力が欲しいなど新興宗教の本質による成立なのである。(兎角、真理と真理へ至る道を正しく指し示す事が出来ないものは本覚思想かカルト思想を掲げる。)
『妄想とは煩悩(存在欲)から生じる感情(貪瞋痴)による感覚から生じ雑念から妄想へと陥り、妄想により自我は形成され自我により妄想は深まってゆく…
「雑念に気付き妄想へと陥らせない」⇒「自我に気付き妄想へと陥らせない」⇒「妄想の制御に依り感覚を制御せしめ」⇒感覚の制御によりて感情(貪瞋痴)を制御せしめ」⇒「感情(貪瞋痴)の制御により煩悩(存在欲)を制御せしめ」⇒制御され調った煩悩(存在欲)は安定化を得て執着や渇愛から解き放たれ真の生きる意味をも悟る。故に、
「雑念を制御できずして集中するは能わず」⇒「自我を制御できずして、妄想を制御するは能わず」⇒「妄想を制御できずして、感覚や感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感覚を制御できずして、感情(貪瞋痴)を制御するは能わず」⇒「感情(貪瞋痴)を制御できずして、煩悩(存在欲)を制御するは能わず」⇒煩悩(存在欲)を制御できずして、生死の軛から解き放たれ、悟りて梵住するは能わず。
これ以外に涅槃に至る道はなし、もしこれ以外に涅槃へ至る道があると宣う者、皆、邪見なる者である。
正観すれば厭離の心を生じ、悟りは自ずと啓かれる。これ全ての悩みや苦しみから真に解き放たれる唯一の道なり。
雑念に気付き制御する事が出来なければ妄想へと陥り、妄想は暴走してゆき暴れ馬の如く振る舞い、感情に主導され自己中心的な自我による妄想へと深まって妄想を現実の如く錯覚させもする。妄想が更に深まると幻視・幻聴・幻覚さえも現れる事さえあり、妄想とは人を欲深くさせ本覚思想やカルト思想や神秘的で非現実的な物事に魅入られるのは欲深くなった感情(貪瞋痴)による妄想が理性を凌ぐからなのです。
雑念の中に閃き在り、しかし殆どの雑念は妄想へと陥らせる。
雑念を雑念だと確かに気付き、妄想を妄想だと確かに気付くならば、雑念や妄想とは呼ばず想像なのである。
妄想により人生を誤る者多し、
妄想により心を病む者多し、
妄想により現実より逃避する者多し、
妄想により貪瞋痴を深め、苦悩の中を流れる者多し。
妄想に陥らない法、それは自ら今という瞬間々々に気付く事だけなのです。
普通の人達の認識している世界とは、五官(眼耳鼻舌身)から入ってくる情報を[意]で捏造して受け取り妄想して、妄想により達した結論や主観を真理であり事実であると錯誤してしまい偏ったり誤まったり歪んでしまった見解を積み上げてゆくのです…
「苦悩とは妄想により造られる」
生じさせる苦悩の多くは、他と比較する事から生じさせている妄想なのです。
因果律による[これ生ずれば、かれ生じ、これ滅すれば、かれ滅す]であり、自他(自分と他)とを比較して[所有]に於いて優等劣という分別をするから、在りもしない苦悩という妄想を生じさせているのであり、比較しないならば苦悩は存在しない事に気付くだろう。
もし今の自分より何物かを多く所有する他と比較して苦悩を生ずるならば、自分が他の立場に立つ時も、より多く所有する他と比較して矢張り苦悩するだろう…苦悩の連続の中に一生を費やさねばならず、[所有]による比較で自分の[存在]を判別しようと試みる愚かな行為は決して満たされる事などない貪欲と執着を生み出し妄想により苦悩するのだから。
物事は[有無同然]であると仏教は説く、金(所有物)がいくら有ろうとも、例え天から金が雨の如く降り注いだとしても決して心は満足はしない。
幸せとは金財(所有物)の多寡によるのでは無く、心の在り方次第なのだから、いくら事物(所有)が在ったとしても、有れれば有ったで苦しく暮らし、無ければ無いで苦悩し暮らす。幾らも事物(所有)が無いとしても、無ければ無いで楽しく暮らし、有れば有ったで楽しく暮らす事が出来るのだから。
存在欲(煩悩)の衝動により人は絶えず考えている、否させられている。
それをそのまま放置すれば雑念を生じ妄想へと陥ってゆく、物事を思考する時、想念に気付き、あらゆる事物に対し考える時、仮説をたて観察し検証し、理解し確証をえてゆく…これが釈迦尊(ブッダ)の真の教えなのです…
真の満足は[足るを知る心]により.もたらされるのですから…
ストレスの多い現代社会に於いて増えてしまったのが躁鬱症やそれを重症化させた精神分裂症などの心の病であるが、現代医療では根治を放棄して対処療法に終始して、その指導する内容は症状を和らげる事を目的としていて、根治させる方向性からは却って症状を固定化させたり重症化させてしまう治療を行ってしまっている事は、そのような症状をお持ちの方たちが真正な仏教を学ばれると次第に症状を軽減させ治ってしまうのも、多く検証され明らかな事実であり、要はその状態の真の秘密や原因や錯覚や間違った概念(無知・無明)を真理に置き換えてゆけば良いだけなのである。