2016-02-13から1日間の記事一覧

信仰と宗教

世界には宗教に分類される幾多の信仰が存在しますが、その中にあって唯一無二の得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であると主張しなかったマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです… 故に仏教の中に信仰を探すならば人間ブッダと…

不治の病

私は病気なのだろうか?病院へ行ったほうが良いのであろうか?脳内麻薬の多量分泌病なのだろうか?人は元来、感覚中毒患者であるが、それとは明らかに異質な軽安な悦楽に、心は解き放たれ、安定化した心は法悦と至福なる快楽を生ずる。 解き放たれ安定化した…

乞食坊主と物乞いシッダ―ルタ

釈迦尊という方がどう生活なされたのかを正しく認識して頂く為には先ず仏教というものを依り正しく認識して頂かなくてはならないと思う。まず大乗は紀元前・後期より、馬鳴(アシュバ・ゴーシャ)等が中心となり「大乗起生論」を軸に成立させ、後に龍樹(ナ…

聖道跡に大悟あり

吾を臥龍鳳雛と呼びし者在れど、吾、縁の下の筍なりて、縁に依り、縁の下にて日陰に住す、然れども精進を怠らず聖道跡に思いを凝らし成したれば、縁に触れ縁を穿ちて、縁に依り、縁の上にて日向に惰眠する凡庸を蹴散したる清竹と成らん。 聖道跡、此れ釈迦尊…

世俗諦と勝義諦

釈迦尊の説かれた真正な仏教に於ける悟りとは実は大別すると二階梯より成り立つのであるが、近代の仏教世界に於いてこの重要な認識が曖昧となている処が釈迦尊と等正覚な如来への道を阻んだのである。 上座部に於いては有学の四向四果における阿羅漢果(応供)…

真の勝利者

【山の彼方 カールブッセ】 山の彼方(あなた)の 空遠く 幸い住むと 人の言う 噫(ああ)我れ人と 尋(と)め行きて 涙さしぐみ 帰りきぬ 山の彼方に なお遠く 幸い住むと 人の言う [山の向こう、ずっと遠い空の彼方まで行けば、幸福があるのだと誰かが言った。 …

平安こそ悦楽なり

人の心とは繰り返される「五蘊」の流れであり、人の身体とは変化生滅し続ける「集まり」である。心身の形成(結び目)が本能を生じさせる。 一切の形成されたものは無常である。(諸行無常) 一切の形成されたものは苦しみである。(一切皆苦) 一切の事物は…

ドーパミン

釈迦尊(ブッダ)は仰っています… 「愚かなる者達は、日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく、雑草を美味しいと食べている家畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」 …

苦は妄想から生じる

「もし人が、一切の妄想から離れることが出来れば、あらゆる苦(ドゥッカ)から完全に解放される。」 「あらゆる苦(ドゥッカ)は渇愛を原因とし、渇愛は妄想を生じさせる。」 渇愛を制御するならば存在欲(煩悩)は制御され、存在欲が制御されれば感情や自我は…

感性

釈迦尊(ブッダ)の真正な仏教が説いているのは世の多くの者達が説く、思考域での意識改革を説いているのではなく、無意識層(潜在意識・末那識-自我意識)と基底層(本能域・横たわる阿羅邪識)をも含めた真理に基づいた覚醒による[調えられた感性]なのです。表層…

苦楽一如・大楽と小楽

【苦楽一如】 ◆苦楽は一如なりて苦楽とは感覚の分別なり 苦を前提条件に楽は在り、楽を前提条件に苦は在る。(楽は苦の種 苦は楽の種) 苦と感じるのも、楽と感じるのも、同じ物事を違う方向から捉えているだけであり、人間の本質は「苦と痛み」により成り立っ…

成功と失敗

世に言う、成功も失敗もその本質は一如なりて唯、捉え方による価値観しだいなのである。人の価値、生きる価値とは、その行為の上にのみに在り、決してその結果には無いのである。好きも嫌いも表裏一体なものであり結果とは一過性なる現象に過ぎず、賢者はそ…

物欲

「物欲は果てしなく、空しきものなりて、しかも物欲に満たされることなし」 人は[あれが有れば][これが欲しい]と生きる為には然程も必要でもないものにまで物欲に翻弄され短命な感覚的な喜びを積み重ねて幸福だと錯覚ながら真に満たされる事がない。 その本…