感性

釈迦尊(ブッダ)の真正な仏教が説いているのは世の多くの者達が説く、思考域での意識改革を説いているのではなく、無意識層(潜在意識・末那識-自我意識)と基底層(本能域・横たわる阿羅邪識)をも含めた真理に基づいた覚醒による[調えられた感性]なのです。
表層の思考域で意識や概念を変えようと努力してみても.そのおおもとにある無意識層・基底層の概念.潜在意識(潜在概念)を変えてゆけなければ.現実は何も変わらず、基底層の渇き(渇愛)によって生じてる煩悩(存在欲に起因する汎ゆる欲望)を真には制御出来ずに煩悩の衝動による感覚に翻弄された.不安定で受動的な感情に促された主観(概念)を生じさせ.妄想的な自我意識に支配されたドゥッカ(苦悩.不満.不安定さ…)を造り出すのです
六処(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)との出会いによる刺激(視覚.聴覚.嗅覚.味覚.触覚.感覚)を五集合要素である五蘊(色受想行識)という精神作用で識別し錯覚した概念を生み出し.積み上げて自我意識(エゴ)という妄念により、自ら無常で空しい苦を生み出してゆく…
人は表層意識(思考)では言語化して考え.行動しているので、それが自分の心だと錯覚したり勘違いしていますが、実はそうではないのです。
無意識層と基底層の衝動によって作り出される概念と感覚と潜在意識(潜在思考・潜在概念)により形成された意識(無意識)を後付けで思考域が言葉として認識しているにすぎないのです。(犬も猫も概念と無意識で行動している)
言い換えるならば、今ある自分を導いてきたものは思考ではなく潜在域の概念であると言えるのです。
しかし普通、人は潜在域とその奥の基底域を直接的に変えたり調えたりすることが残念ながら出来ないのです。ですから表層の思考や意識を一生懸命に変えようとしても中々変えてゆけないばかりか負担を増してしまう事となり因り感情的な人間になって行ったりするのです
潜在域の概念の発生メカニズムが変わってゆくことが、いわば「境地」が変わってゆくという事なのです。
無意識層を変えて行く方法は、表層の意識をまず調え、集中力を増し、心の今の状態に気付き、良い想念を潜在域へ送ってやる事に努め、やがては潜在域が調えられてゆき、基底層さえも調ってゆくのです(四念処)
そうして調えられた心が観るこの世界は、清浄で愉悦に満ちた有難い世界なのだという事に気付くのです。
それには先ず雑念や妄想に気付き、妄想に取り込まれない気付きが必要であり、雑念や妄想を深めず、物事を理性により客観的に理解、認識するよう努めてゆく事であり、五蘊(色受想行識)の精神作用の本質が無常であり空であり苦である事に気付くならば、自我は消え感情に振り回されず平安を得るでしょう。
衝動的な感覚の発生による受動的な感情(喜怒哀楽)を生じさせるものが「所有の次元」の事物であり、調った感性による能動的な悦楽(歓喜)を生じさせるものが「存在の次元」への明確な気付きであり、五蘊という外的な刺激に頼らない真の悦楽(歓喜)であり、空しく無常で苦であるという本質である「所有の次元」による喜びとは短命で一時的な喜び(小楽)でしかない事に気付き、「存在の次元」という智慧と真理の発見により気付く否依存的な追随的な悦楽(大楽)への道を説いているのだ、釈迦尊の真聖な仏教なのです。
「地獄も極楽もその身の内に在り」
「心とは考えるものではなく、感じるものであり味わうものである。」「幸せも、美味しいも、考えるものではなく感じるもの、味わうものである。」