頂乗仏教学舎  路傍の如来 多々方路傍石

如来品正師 多々方路傍石のブログ

五集合要素(五蘊)

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自分を高め 世界を変える純粋仏教

五集合要素(五蘊)

色を観ずれば聚沫の如し
感受は水上の泡の如し
想は春時の陽炎の如し
諸行は芭蕉の如し
諸々の識は幻の如し
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 物質(色蘊)は無常であり
  感覚(受蘊)は無常であり
  識別(想蘊)は無常であり
  意志(行蘊)は無常であり
 意識(識蘊)は無常である

物質(色蘊)は苦であり.
感覚(受蘊)は苦であり.
識別(想蘊)は苦であり.
意志(行蘊)は苦であり.
  意識(識蘊)は苦である。
  
    物質(色蘊)は無我であり.
    感覚(受蘊)は無我であり.
   識別(想蘊)は無我であり.
   意志(行蘊)は無我であり.
     意識(識蘊)は無我である。
このようにして意識(識蘊)に執着せず
厭い離れれば貪欲から離れ、
    貪欲を離れれば解脱する      
五蘊(ごうん)と言う、五つの要素の蘊まり(五集合要素)を明確に理解する事が仏道に於ける世俗諦へと至る重要な修養法であると言え、固定的な実相としての自分など存在しない事が理解出来れば、自我に翻弄され囚われ拘る自分が脱落して行く。
●認識過程的構造とそのカラク
人は五つの要素の集まり(五蘊)を条件として色(物質.身体.感覚器官)は形成され五感管(眼鼻耳舌身)を条件として感受(感覚)が生起し、感受(感覚)を条件として想(記憶)が生起し、想(記憶)を条件として行(感情.衝動.業)が生起し、行(感情.衝動.業)を条件として識(意識.概念)が生起し、識(意識.概念)を条件として表層思考が生起する。   

●主観      
右も左も解らない沙弥に正しい方向を指し示すのが有学(三蔵経典)であり、知識.情報.記憶の次元を超越した無情報.無知識.無記憶の思惟により真実(真理)を見い出し理解してゆく道が無学の階梯である。無学に入りては無記なる至上の聖典「自燈明経典」「法燈明経典」の二巻を携え自分を習い学び、天地自然の理法(自然法則)を習い学ぶものであり文字経典は脇経に過ぎない事を識り、実践の中に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)捨て去り(捨離)解き放たれ(解放)自由を得て解脱し涅槃(ニルバーナ)に至るのが世俗諦だと言っても過言ではない。(因みに勝儀諦とは釈迦尊ブッダが「言わぬが仏」と慈悲の心で積極的・具体的に説かれなかった摂理(プロビデンス)をも理解した如来を言う。) 自分(私)とは無我なる存在であり、無我とは,固定的、実相的な存在ではない現象としての存在である 私とは五つの要素の集まり(五蘊)でありその五つの要素が集まって結合して働く時、私という感覚.記憶.感情.意識を形成する。ーーー            つまりは五集合要素の機能(五蘊機能)による作用(精神作用)として、一つの想念としての意識(潜在概念)をその都度に結んでいるだけであり自分(主宰的実体・魂)の想念、意識(潜在概念)ではないのであり、それは移り行く時間と移り行く空間との暫定的な出会いによる現象に対する自分と言う五集合要素の感受機能による感覚を、記憶情報により識別し、意志表象機能による感情を、想念・意識(潜在概念)として生じさせたものを、表層思考域に伝えているだけの五つの要素の集り(五蘊)の機能としての感覚であり、記憶であり、感情であり、意識であり、魂(心の中に主宰的・指導的な魂・霊魂・霊体があるという錯覚)に根差す固定的・実体的な自分(私)の感覚・記憶・感情・意識ではなく、五集合要素(五蘊)の機能と外部刺激・内部刺激との接触を条件として生じる、一つの感覚であり、一つの記憶であり、一つの感情であり、一つの意識だという自覚が必要である「五集合要素(色・受・想・行・識)という物質的要素と精神作用の全てを無常であると観じ、空であると観じ、非我(無我)であると観じ、囚われ、拘り、執着する価値のないものであると観じ、無知・無明の闇を乗り越えて超越し、盲目状態から目覚めて覚醒し、五受蘊の束縛から解き放たれて解放され、解脱する」

●参照「主観」
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【雑阿含経・サンユッタ.ニッカーヤ】五蘊(色受想行識)の色を観ずれば聚沫の如し、受は水上の泡沫の如し.想は春頃の霞の如し.行は陽炎の如し.識法は幻の如しと観ぜよ。
※即ち物質的要素も感覚的要素も心的要素も、五蘊作用(精神作用)も全て泡沫.霞.陽炎.幻のようなものであり、一つとして実相的で確実なものではないのに、執着(愛着)してしまい固定的実体として永遠に存続する事を妄想するから、それらの変化生滅に思い通りにならないドゥッカ(苦悩.苦痛.悩み.不満.儚さ.空しさ.脆さ.弱さ.不完全さ.不安定さ.惨めさ.哀しさなど)を生じさせるのです。
故に諸行は無常であり、故に諸法は無我であり、故に一切は皆苦なのであり、それらから目覚め覚醒し、乗り越え超越し
解き放たれ解放された境地(涅槃・ニルバーナ)は寂静(※色キチガイの寂聴ではなく寂静です。平安.悦楽.静逸)なのです五集合要素(五蘊)とはその字の如く五つの要素(色受想行識)の集まり(蘊まり)であり、私とは即ち五つの要素の蘊まり(集まり)であって固定的な実体ではなく無我な仮体なのである。色(物質の蘊まり)=受(感受機能の蘊まり)=想(記憶,知識,情報,経験の蘊まり)=行(カルマ(業)・アーサバー(汚穢)・性質などの形成要素の蘊まり)=意識(潜在概念・潜在意識の蘊まり)であり、無我で無常で空なる人間の本質を言い得た「結べば柴の庵にて、解くれば元の野原なりけり」という一句の如き身なのである。
毒矢の喩えで説かれるようにこの五集合要素がどうして結合したのか?どういう性質のものかを探求する事ではなく、五集合要素という集まり(蘊)により刺激・情報の感受により記憶・情報・経験などにより何かしらの感覚を生じ、性質・業・精神性などにより何かしらの感情を生じ、意識・概念を生じさせている心に気付き分析し思惟し理解し、叡智に基づいて執着から離れてゆく実践的なプロセスが修養であり、否定とか肯定という断片的な見解により迷いを深めてゆく道ではなく、真実を把握し理解してゆく道が仏道なのである
●ドゥッカ(苦・痛み)とは執着の五集合要素(五蘊)である。
条件により生起するものは、条件により変化し消滅する性質のものである。故にこの世界に於いての条件により生起しているものは全てドゥッカなのである。
全ては移ろいゆく我れと、移ろいゆく時空との縁起の中での出逢いであり暫定的な出来事でしかないものを、その様に観じ理解できないからドゥッカ(苦痛)が姿を現すのである。
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●五つの集合要素(五蘊)
(1) 物質(色蘊)の要素の集まり(ルーパ・カンダ)
外界の物質と相対する身体の物質的要素
◯固体・液体・熱・空間・運動・代謝とその派生物(五感官・各器官)
「自分」を分析すると、物質的な姿・形が見つかる。
「自分という物体」「自分という存在」「自分の体」に執着する。
「身体のお陰で楽しい・身体こそ大切だ」と勘違いし、身体の為に食事をし、身体の為に体を洗い、お洒落し着飾り住家,見栄,体裁,高慢,比較,承認と身体の奴隷状態となる。
しかし身体とは生きている間中、垢・汗・唾・粘液・大便・小便など汚物を排泄しながら、死んだら死骸となり腐敗し土へと戻るものであり、毎日、代謝により身体を補修し続けながら生きているのであり、身体はずっと滅しては新たに生じ変化してゆく物質であってそこには、私・私たるもの・私という実体など無いのである。
(2) 感受・感覚(受蘊)の要素の集まり(ヴェーダナー・カンダ)
感覚は流れ続け、変化し生滅し続け、そこには「本来の私」という主宰的な魂・霊魂などの要素は存在しない。
五感官(眼耳鼻舌身)による外世界との接触と、肉体的・心的な接触によって感受する快・不快・そのどちらでもない感覚の全てが含まれる。
六種の感覚
①眼が、色・形との接触による感覚 
⇒視覚
②耳が、音との接触による感覚   
⇒聴覚
③鼻が、匂いとの接触による感覚  
⇒臭覚
④舌が、味との接触による感覚   
⇒味覚
⑤身体が、物との接触による感覚  
⇒触覚
⑥心が、感知対象との接触による感覚
⇒第六感(心象)
※感知対象(思い・記憶・知識・経験など)
私たちの肉体的・心的なすべての感覚は、この中に含まれる。
感受するものは刺激であり、痛みだけなのである。
「快・楽」とは痛みの刺激の負担量が減ることにより感受する感覚であり本質的には「痛み」に他ならないのである。
快・楽とは苦・痛みを前提条件として現れる感覚に過ぎないのであり、その負担量が増えて苦痛と感じる処からがドゥッカである。
六機能(六根)を制御コントロールし、感覚的な快楽が無常で空な本質のものである事を理解し、感覚への執着を乗り越える(超越)
(3)識別・表象(想蘊)の要素の集まり(サンニャ・カンダ)
感受した感覚を感知するのは、想蘊(サンニャ)である。
人,物,現象などを記憶の残滓,知識,経験などにより判別・再認識・確認できる要素(脳的機能)である。
想蘊(サンニャ)は頭の中で煩悩(存在欲)に促されずっと妄想して流れていて、想蘊(サンニャ)の妄想により自我意識を深め「私だ」と自我に固執する。
自我の妄想により仲間割れ,争い,破壊,敵愾対象など比較・優等劣を識別をする。
※人々に調和をもたらす妄想など無いことを理解する。
想い出,記憶⇒想い(記憶の残滓)⇒想蘊(サンニャ)により妄想の流れを造り続け深めてドゥッカ(苦・痛み)を造り出す。
「私」への執着「自我意識」という偏った(バイアス)認識を蓄積させている。「私の感覚」と「私の感覚による感情」が常ならざる無常なものであり空しく儚く短命なものであると明確に理解できれば感覚とそれによる感情(主に不善処)に捉われなくなる。
主観的な認識で構築されてしまっている想蘊(認識:表象)を客観的な理解:認識:記憶へ入れ替えてゆく。
(4)意図・衝動(行蘊)の要素の集まり(サンカーラ・カンダ)
善悪に関わらず全ての意図的行為が含まれる。
業(カルマ)とは意志(チュターナー)があって身と口と心で成される行為であり、意志がない行為は業(カルマ)を造らない。
感覚(受蘊)と識別(想蘊)による心の働きは意図的行為ではないので、感覚(受蘊)と識別(想蘊)は業(カルマ)の結果を形成しない。
精神性(質・格・境地・器量)の性質による注意力,意志,信念,自信,集中力,叡智,エネルギー,欲望,嫌悪,憎しみ,無知(無明),自惚れ・自我意識といった意図的行為だけが業(カルマ)の結果を形成する。これらが意志(行蘊)という集合要素を構成している。
〇心の中には「何かしたい」「何かしなくちゃ」という衝動が常にあり、頭を空っぽにすることが不得手で出来ず、いつもゴチャゴチャと雑念していて、単純な物事をどんどん複雑にしてゆく。
それらに過剰な意味付けをして執着する。
前の状態の消滅が、次の「何かしたい」「何かしなくちゃ」という衝動のエネルギーを生じさせ、「行かなくちゃ」「帰らなくちゃ」「休まなくちゃ」「寝なくちゃ」などとどんどん変化しながら流れて行き。踏み止まることが出来ない。
そこには「私」という実体はない。
二つの連続する時間を通じて、同一で在り続けるものは何一つとしてない。
●想蘊の主観的な記憶,経験,知識などに基づいた偏見,先入観,常識,固定観念,自我意識など偏ったサンカーラ(業,精神性)と言う性質により形成される衝動により潜在意識(概念,想念,心象)を結ぶ。
(5)意識・概念(識蘊)の要素の集まり(ヴィンニャーナ・カンダ)
意識は六つの機能(眼耳鼻舌身心)のうち、どれか一つを基礎として対応する六つの外的・内的対象(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・心的対象)のどれか一つに対する反応・返答であり、意識は他の機能と関連している。
こうして意識(識蘊)も、感覚(受蘊)識別(想蘊)意志(行蘊)と同じく内的機能と対応する外的対象によってそれぞれが形成される。
意識(識蘊)は対象の存在を感知しているだけであり、対象を認知しない。(認知しているのは識別作用・サンニャである。)
〇意識は条件から生起し、条件のない処に意識は生起しない。
意識とは五集合要素の機能により生起しているのであり、心の奥の主宰的な実体(魂・霊魂・霊体)が意識を生じさせる訳ではない。
❤外から内へと向かう依存関係の縁起の流れにより、五つの要素が蘊まり(集まり)機能するとき物事は在るがままの存在として現れるが、内部刺激(渇望)による五集合要素の依存関係の逆転した流れによる縁起が内から外へと機能すると自我や実存的な存在を錯覚したり妄想してしまうのである。
〇識蘊(ヴィンニャーナ)とは頭が識別(サンニャ)する事ではなく、心が認識することである。
心(ヴィンニャーナ)が働くためには受蘊(ヴェダーナ)と想蘊(サンニャ)が必要で、そこには必ず行蘊(サンカーラ)の意志(精神性・業カルマ)の形成力によって造り出される。
生じた意識(ヴィンニャ-ナ)に過去の記憶・見解・観念などを加えながらグルグルと五蘊を回転させて潜在概念を形成させる。
その潜在概念(意識)を表層の思考域に伝え、表層の思考域において言語化し思考を加えて新たな見解を持つ。
〇私たちは五つの集合要素に「これこそが自分だ」「これこそが自分の考えだ」と執着して限りない苦しみを作り出している。
私とは何ものなのかさえ解らない無知(無明)な状態で、業(カルマ)を深め精神性を育成することもない行蘊(サンカーラ)による意識(ヴィンニャーナ)は、煩悩(存在欲)に基づいた感覚的で主観的な偏り(バイアス)により、妄想を深め所有の次元の事物に魅入られ、決して満たされる事のない欲望(渇望)の中を生きてゆく事となる。
〇自分が不満の中に居たり貧困に喘いでいては真に他人に慈悲を施すことなど出来ない。真に慈悲を施すには先ず自分が満たされて居なければならない。
満たされた心でこよなき幸せを実感する為には、精神性を育成し悪業(カルマ)を蓄積しなければならない。
●精神性の育成
〇人としての質(クオリティー)を高めたもう。
〇人としての格(レベル)を磨きたもう。
〇人としての境地(ステージ)を深めたもう。
〇人としての器量(イデア)を広げたもう。
それには所有の次元の事物への執着の本質的な不安定さ、空しさ、儚さ、無常さ、無価値さなどを明確に理解することである。