すべてはドゥッカ(苦)に包摂される

「ドゥッカ」とはパーリ語及びサンスクリット語であり、四聖諦にいう苦でもあるのだが、釈迦尊が仰った「ドゥッカ」とはそれに留まらず本質的には生死に根差した(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.迷い.心痛.怖れ.哀しさ.淋しさ.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.未熟さ.不満.実質のなさ.惨めさ.無常さ.愚かさ.無明.欲)などを含み、渇望や煩悩や輪廻までも包摂するものである。言い換えるならば[真の幸せ・真の歓び・真の平安(スカ)]を奪うものがドゥッカなのであり、すべてのドゥッカの根源は無知(無明)であり、無明(無知)を真理の光で照らし出してゆく事.盲目的な存在から目覚た存在へと覚醒させてゆく事を目指すのが仏道であり、真の幸せに生きる為の道標なのである。    
釈迦尊は仰っている「ドゥッカを見る者は、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」 ドゥッカというものを正しく観察し検証し理解することが目覚めへの道であり、即ち人間の精神的な主要素である五集合要素(五蘊→感覚.記憶.識別.感情.主観)への執着こそがドゥッカであるという本質に気付き.自覚し、その生起と消滅への執着から超越(乗り越える)してゆくことなのであるが、瞑想という高度に洗練された妄想により体現するものではなく.またプラパンチャ(能書き. 戯れ言.空論)に誑かされることでもなく. 瞑想も一つの心的創造の次元を高める手段でしかなく、プラパンチャも真理へ向かう道の障害てしかなく.移ろいゆく無常なドゥッカに過ぎないものでしかなく、目覚め覚醒し無知(無明)を叡智に入れ替える事により、ドゥッカを乗り越え超越し.体現する解き放たれ解放された道が説かれているのである故に「無常なるもの移ろうものは全てドゥッカなのである」
この世界において唯一、無為(移ろい変化してゆかない)なるもの、それは真理(真実.事実.現実.実相.天地自然自然法則.摂理)だけであり、不安定性(ドゥッカ)の安定化(スカ)の為の堅固な拠り処(精神的支柱)とは、真理だけなのである。
故に[真理の追求]こそか仏道なのである。
人は無知(無明)に生まれついている、成長により汎ゆる知識や情報は増えてゆくが、自らが発見して確証を得るまでは心は無明(無知・未熟)なままである。故に、人を恨んだり.憎んだり.妬んだり.欲したり.怒ったり.甘えたり.拗ねたりという子供レベルな感覚.感情.主観に翻弄されたままである。      煩悩(存在欲)に発する渇望(渇愛)に縛られ.執着の五集合要素(五蘊)による.主観や見解や主義.主張や思想や思い込みや錯覚.妄想などで.争い.恨み.怖れ.苦しみ.悩み.そして迷うのであり、社会においても争い.憎み合い.殺し会ってさえいるのである。
無知(無明)に.正しく集中して.正しく気付き.正しく観て.正しく考え.正しく理解し.正しく生き.正しく行い.正しく努力し(八正道)、真理を発見する事により、無知(無明)の闇は振り払われ、ドゥッカ(苦.悪魔)の正体は見破られ. ドゥッカ(苦・悪魔)は消滅するのである。
例えるならば無知(無明)により、昔は地球は平らだ、いや象の上に乗っていると人々は争い悩み苦しみ迷っていたのであるが、地球は丸いという「真理」を得た現在人は、それを問題とは成しえず.それにより争ったり苦悩したりはしないように、無知を真理に入れ替える事こそがドゥッカ(苦)を消滅し、真の平安と幸せと歓びを顕現させる道なのである。         
大乗にも三宝印・四聖諦・八正道・十二縁起(十二の条件付けられた生起)・五蘊(五集合要素)・輪廻(サンサーラ)・転生(再生)・業(カルマ)・無我(アナッタ)など、仏教における凡そ.ほとんどのパーツは揃っているにも関わらず、例え.全てのパーツが揃っていても、それを正しく組み立てられなければ正常に走る自動車にならないように全ての仏教パーツも全ての正しい関係性を理解し.把握し.認識出来なければ.正しく組み立て.正しく運行して.涅槃や大悟.(勝儀諦)まで辿り着く事は出来ないのである。(故に私は何時も世俗諦を得るには大乗でも良いが、勝儀諦までを目指すなら頂乗でなければならないと言っているなである)
先ずドゥッカを紐解けば、妄想から自我意識そして主観へ潜在域へと逆戻ってゆくとサムカーラへと行き着く。この場合のサムカーラとは(サンニャサンカーラ)を指し、五集合要素(五蘊)における想蘊(サンニャ)と行蘊(サンカーラ)とを「サンニャサンカーラ」と一連の精神作用と捉えるのである。潜在域で働くこのサムカーラに蓄積された記憶の残滓や汚穢・煩悩などが全てを決定付けているのであり、意識が物質と相対して存在していると錯覚するのは錯覚でしかなく、心とは五集合要素(五蘊)における機能・器官の一つに他ならず、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊を条件として生起していて、単独で存在している心などどこにもないのである。 煩悩(生存欲)による執着も、渇望(渇愛)により条件付けられている。そして渇望も十二縁起で説明すれば感知・接触・六器官・精神的肉体的現象・意志・業を経て無知を条件として生起しているのである。無知も前生の老死に条件付けられて生起しているのであり、その老死も誕生に条件付けられたものなのである。十二縁起も実は輪状(完結する形態)として捉えなければならないのであり単なる連鎖という直線的な連続性と捉えてはならず同時に輪廻を語って居ることに気付いて頂きたいのである。つまりはサムカーラの浄化・純化により業(意図)・自我による心理投射でもある執着の五集合要素(五蘊)から解放されてゆくのであるが、無知を真理に入れ替える為の真理の発見・理解・認識や叡智の顕現がなければサムカーラを浄化・純化してゆくことは出来ないのである。「汚れと不純さの消滅は、ものごとを識り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である。」と説かれたのは詰まりは無知により諸悪が成されるのだから、無知を真理へと入れ替えなければ渇望(渇愛)を条件として五集合要素(五蘊)は生成・煩悩(生存欲)を経てドゥッカ(苦・悩・空虚)となり病・老いなどにより悔やみの中を死んでゆき、そのドゥッカが次の生起を条件付けているという無知を基点する輪廻転生という継続性・連続性の連鎖運動をも説いているのである。            
五蓋に説かれる「疑い」も「疑うな」ではなく疑問を等閑とせず「疑問をなくしてゆく事」を説いているのであり、諸悪や挫折や偏見の根源は「無知」であり錯誤であり誤解なのである。疑問・戸惑い・躊躇いが有る限り先には進めず進歩しては行けないのである。又、物事が理解できず明晰に観えない限り、疑問が残るのは当然なことであり、故に真に進歩して行くためには疑問を持たねばならず、それを無くしてゆく事が進歩なのであり絶対不可欠な要素なのであり、理性により冷静に客観的に注意深く明晰に見て理解してゆく事が、真理の発見や叡智の顕現により無知を真理へと入れ替えて、サムカーラを浄化・純化してゆき、執着の五集合要素(五蘊)を滅尽(無意図・無自我)してゆく事が「ものごとの生成の消滅がニルバーナである」と釈迦尊が仰ったように、記憶の残滓・煩悩・汚穢といった記憶・先入観・固定観念・錯覚・無知を捨て去ること(捨て去るとは真理と入れ替える事)により顕現するニルバーナとは実存的なものであり、条件により一時的に生起しているだけの所有の次元の事物による喜びや満足や安心などの「生起する性質のものは消滅する性質のものである」という泡沫的なものではない存在の次元における実存的な安定こそがニルバーナという生命の真の本質なのである。執着の五集合要素(五蘊)こそがドゥッカ(苦の種)であり、自分とは五集合要素だとも言え、固定的な自分というものはどこにも発見できないのである(無自我)。 その五集合要素(五蘊)という精神作用により生起している意識(思考・概念・精神)とは一つの精神や意識や思考の奥に主体的な魂や霊魂や霊体などが存在するという観念的な錯覚を否定するのであり、五集合要素(五蘊)により作り出される概念や意識こそが自分そのものであり、その奥や裏には本体的な魂や霊体などは存在しては居ないのであり、その五集合要素(五蘊)という精神作用により作り出される感覚や概念や思考とは、サムカーラに蓄積された過去の記憶の残滓や汚穢など(誤解・真理・錯覚・偏見・先入観・固定観念)などにより決定付けられているのであり、今、頭に浮かんだ思考や判断も実は潜在域において人それぞれのサムカーラによる意志により決定付けられた潜在概念・潜在意識を、表層の思考でなぞって言葉に置き換えて思考を継ぎ足しているだけなのであり、サムカーラが変わってゆくに随って感性や見えるもの物事の価値観や意味なども当然に変わってゆくのです。つまりは無知(無明)を真理に入れ替えてゆく事こそが渇望(渇愛)・煩悩(生存欲)による執着の五集合要素(五蘊)を断滅してゆく(捨て去ること)により顕現するニルバーナ(涅槃)という実存的な(捨て去ることにより顕現するものであり、条件により生起するものではない)領域へと到達するものなのです。しかし世の中では寝ぼけた人達(精神が倒錯した者たち)が第三の目とか超越した力とか霊力を得ようとか、悟りや涅槃さえも得ようと必死なのですが、所有の次元を探し回って得るのではなく、無知(無明)を真理に置き換える、無知を捨て去ることにより存在の次元に於ける真理に気付いてゆく事が、目覚めた人となってゆく道なのです。  仏教では「己の愚を知るは賢者なり」と説かれます。これは自分のドゥッカ(苦・空虚・未熟・不安定・愚か)の原因でもある無知に気付く事でもあり、人は気付くことにより進歩向上してゆけるのです。ですからその逆の人こそが真の愚か者だと言えるのです。
つまりは阿呆とは自分が阿呆であることに気付けない人、だから阿呆なのです。
もし自分は未だに阿呆だナァと気付ければ阿呆ではなく無知の闇から目覚めて賢者へと向かっている人なのです。