仏道の実践

仏道の実践とは、誰でもが何処でも何時でも何をしていようが日常生活の中で実践してゆけるものであり、そう在らねばならないものであり、別段に仕事を辞めたり、剃髪し山深く人里から離れ隠棲したり、山門を叩かなければ実践できないものでも達成できないものでもないのであるが悲しいかな、釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解することが出来ない者たちの偏見や浅薄な認識や無知による捏造と妄想により、一般の人達は誤解してしまい、偏った者たちが著した仏教解説書という未熟な認識と錯覚と幻想により成り立つ邪見により、世の中の多くの人達を実践的な仏教を、実践する者から傍観する者へと誘い、傍観者から信者へと誘い、単なる信者から無関心な者へと誘ってしまい、仏教を益々、社会や日常生活や人生とは縁遠い、葬式のときだけに用いるものと、仏教とは本来無関係な習俗へと貶めてしまっていることが、実に残念であり嘆かわしく思っている。
多くの人々の心が病み、痛み、惑い、苦しんでいる今の時代にあって、真に必要とされるものが、釈迦尊(ブッダ)が説かれた真の仏教であり、宗教(人間が幸せに生きる為の宗(むね)となる教え)なのであるが、今の社会では真の宗教は廃れ、信仰が心苦しみ、悩み、迷う無知(無明)な人達を、依り盲目的で不毛な道へと導いてゆく。(真の価値・意味の喪失)
社会を捉われなく拘りなく究極的に冷静に客観的に観自在にみるならば、我が日本は実に仏教が根付かない仏教不毛な処であると言わざるを得ず、そこには数多くの無明という闇の中を盲目的に追従する人達による系譜が連々と脈々と伝えられ、伝統と文化と権威という習俗的な思い込みと固定観念により成り立っているに過ぎず、釈迦尊が慈悲の心で説かれた教えを蔑ろにしているのではないかとさえ思う。重ねて言うならば、座禅や瞑想も禅寺や瞑想道場などに行かねば出来ないものではなく、忙しい日常生活や家庭を犠牲にして、尚且つ貴重な時間や費用を労費する必要もなく日常生活の中に実践してゆく事により真実に気付いてゆき、知恵を現してゆき、叡智を育成し「悦楽の中に真理の悟りを啓く」ものであり、却って禅寺や瞑想道場などの型に捕らわれすぎ観念的な内観による心的倒錯や禅定(サマディ)状態による心的創造や神秘主義的な妄想への執着に陥ってしまうより、より高度な成果を得る事が出来るのである。
日々の生活の中で実践的に修養していき、誤った認識を正しい観念へと改め、煩悩による苦しみを常しえの歓びと平安に変えて行くことが出来るのであり、大悟に至るには苦行や難行をして行かねばならないという倒錯した思想が蔓延し、正規に師僧に指南を仰がねばならないという誤った先入観が却って仏道を曇らせているのである。 
今の寺や宗派に大悟(涅槃)へと導ける師僧など居るはずもなく、未達成な者達が限界を定めながら、わき道へと逸れてしまったのだから。    
釈迦尊(ブッダ)は仰っています。天地自然の法則(物理法則)とそれを感じ取る自己だけを拠り処とし、他の何人が称える教えであっても、安易に鵜呑みに受け入れることなく、懐疑の眼を以って世界を眺めよ。それが例え如来の言葉であっても自ら確かめることなく信じることは妄信であり、自ら観察し検証し確証を得たものを信じる事が正信である。
釈迦尊(ブッダ)の説かれた真の仏教は、完全であり真理を説く教えであり決して崇め、拝み、信心や信仰するものではなく、各人が既に具する真理に叡智を以って気付き、目覚め、無知(無明)の闇を真理により照らす方法を説き指し示しているのであり、人として真に至高な存在へと覚醒してゆく為の触媒であり、道しるべであり、筏(いかだ)なのである。
故に釈迦尊(ブッダ)は死期に臨んでも明確に仰っている。
「自分自身を依り所とし、自分自身を頼りとし、他の誰をも拠り所とする事なかれ。(自燈明)
 法(ダルマ・真理)を依り所とし、法(ダルマ・真理)を頼りとし、他の何ものも、頼りとする事なかれ。(法燈明)」
これこそが、無知(無明)の闇の中を、手探りで暗夜行路を行くが如く歩いているから苦しみや不満や悩みや恐れや迷いが生まれるのだから、叡智により真理という眩しいほどに輝ける光により無知(無明)の闇を消し去り、目覚めた(覚醒)存在へと至る、唯一無二なる道であり、何事に於いても進歩や達成してゆくためには不可欠な「不放逸(集中)と自己啓発智慧」であり、辛抱強く賢く決意と信念を以って努力するだけなのである。
大切なのが、自分は今という瞬間にしか存在していないのだという自覚であり、今という瞬間に気付いてゆくことである。自我意識が残っていると「自分は」「自己としては」と自分という意識で考えてしまうのだが、その自意識によりドゥッカが形成されていることが理解できてくると自分という意識から離れ、すべての感覚・感情などを客観的に「ひとつの感覚」「ひとつの感情」として捉えることが出来るようになる。先ず自我意識、自意識からの超越(乗り越える)が、世俗諦と呼ばれる悟りの達成である。