絶対真理と究極真理

[真理は一つであって、第二のものは存在しない…その真理を知った人は.人と争うことがない]
世の中には真理だと称するものは多々あれど.バッタものでも真理だと称すれば真理になる訳ではなく、何処までいっても.真理は真理であり.虚仮は虚仮でしかないのですから…
しかし究極の真理は世の潮流に逆らい、人間の利己主義的な欲望に逆らうものであり、人が真に至高な存在へと脱皮し.こよなき幸せな人生を過ごしてゆく為に、明確に理解し.目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放されなければならないものでもあるのです…

如来が体現する、この真実は見難く、理解し難く、賢者にしか把握されない。潮流に逆らい、高遠で深く、微妙で難解なこの真理は、欲望や情緒に打ち負かされ、煩悩に命ぜられ無知(無明)の闇に包まれたもの達には見えない。」
世の無常を捉えても心は理解できずに、無常の流れに苦悩し哀しみ儚んでいる…
世の無我を捉えても心は理解できずに、無相で固定的な実体を有していないのに、自我の妄想を乗り越えられず、自分への執着を断ち切れない…
世の縁起を捉えても心は理解できずに、一縁一法は認識するが一縁に依らず一法に立せず、それでいて一縁一法を晦ます事のない壮大なる相互依存関係性が理解出来ずに振り回されている…
世の輪廻を捉えても心は理解できずに、今この瞬間も輪廻の途上であり各瞬間毎に生成し継続し続けているのであり二つの連続する瞬間を通じて同一で在り続けるものは何一つとして無く全ては一瞬毎に生起し一瞬毎に消滅しながら流転しているが、その流れは肉体(集合要素)の分解により断ち切られる事なく因果律に随って物質的要素も心的要素も別の何かに成り続けてゆくのであり微生物から人類までの連鎖の激しき流れに飲み込まれている…
煩悩・渇望・渇愛・愛着・意図・心的意思・業(カルマ)は同一のものを指している。
それは欲望であり、生存し、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようとする本質的意思である「不安定状態の安定化への運動」であり、これがドゥッカ(苦・痛み)の生起の原因であり無知(無明)に起因し、誕生に起因している。
それは存在を構成する五集合要素(五蘊)のサンカーラ(行蘊)の内に含まれる…
この輪廻の激流からの解放を解脱とも成仏とも言うのであり死ぬことを言うのではないのです…
生存、非生存に欲も執着もなくなり、執着がないから不安も怖れもなくなる。
誕生も終わり純粋な生も終え成されるべき事は成し終え、生存、非生存への執着
が無いからオイルと芯がなくなるとランプの炎が消えるように肉体の分解と同時にこの世界から消滅する。
そう理解した者は絶対叡智を具えている
何故なら生存と言うドゥッカからの解放と消滅の知識こそは絶対安定へと至る聖なる叡智であり、この真実に依拠した解放は不動である。
非実存は偽りである実存すなわちニルバーナ涅槃は真理なのだから。
同じようにこの世界の絶対真理(無常・無我・本質苦・縁起・輪廻)も同一のものを指しているのです…
それは聖なる究極真理である「本質的不安定の安定化への運動」であり、時空的に捉えたのが諸行無常という絶対真理であり、存在的に捉えたのが諸法無我という絶対真理であり、性質的に捉えたのが一切皆苦という絶対真理であり、相互関係性を捉えたのが縁起(因果律)という絶対真理であり、循環性を捉えたのが輪廻という絶対真理であり、時間的にも空間的にも存在的にも性質的にも相互依存性でも循環性・継続性に於いても全ては「絶対安定世界(五次元世界)の一点に発生した揺らぎ(不安定)の安定化への本質的意思による運動であり、運動エネルギーによる、存在し.再存在し.増大し.一層蓄積しようとする聖なる究極真理によってこの世界は存在しているのです…
人も他の生命も同じであり、幸せ.喜び.快楽を追い求めドゥッカ(苦)という不安定性からのスカ(幸福.歓び.快楽)という安定性への生命エネルギー運動に他ならないのですから…
故に、この絶対真理を心が理解し、究極真理を体言した如来を天地は祝福し.他を憐れみ.歓びに打ち震え、他と争うことがないのです…