大観

美しい地球を破壊する微生物と美しい地球を造形する微生物
大観とは、知性.理性(仏性)による大宇宙的な俯瞰であるとも言え.世界は自分を中心に動いているかの如く錯覚し、人間を特別な存在と捉える自我意識(感覚→記憶の残滓→感情→主観→自我)に支配される無明な心には真の慈悲や愛が芽生る事も大観を得る事も出来ない。
凡そ、感覚器官で捉えられるもの全ては世界(全体性)を分断し、切り取って捉えた世界(全体性)の一面(断片)でしかなく現実世界でも実相でもなく、真実(真理)とは感覚器官では捉え難いものであり、
無明の闇の中を彷徨う者達とは、その捉える事が出来得ない物事を無理矢理にでも折り合いをつけようと、感覚的.記憶の捏造.感情的.主観的.自我意識でとらえ、理解したつもり(自惚れ・慢)に陥るのである。
宇宙的視野により眺むれば、宇宙の片隅の小さな星に寄生する微生物の如き存在が、全宇宙の関係性の上に存在し因縁により生かされている存在として感謝する事を知らずに賢しく増長し自惚れて、愚かな侭に至高な存在であると錯覚している。全ての事物、全ての生命との関係性(結び目)の中で、それぞれが依存しあって共存しているのであり、単独で存在しているものなど、この世界には何もなく「全ての事物が単独では存在できない世界」という事実に気付き自覚できず大観し感謝し慈悲心という寛容な資質の本当の意味を識ることもなく、ただ業を深めてゆくだけ。
この大宇宙(現象世界)には二兆個を超える銀河が在るという。
その一つ一つの銀河は数千億個の星(惑星)と数百億個の恒星(太陽)により構成されている。 銀河とは大宇宙の神経ネットワークなのである
太陽(恒星)を中心として周る惑星の内の生命居住可能領域(ハビタブルゾーン)が銀河には数十億個在り、そんな銀河の一つである我が銀河系の外淵部に我々の太陽系が在り、その内の一つ地球に我々人類は生存している。(大宇宙的にはそんな存在なのであり、そんな壮大な大宇宙において高等生物が我々人類だけだと主張する方が偏見なのであり、出会えないのは唯、大空間の距離を克服できないからである。例えれば地球から一番近い隣の恒星に行くだけでも十万年も掛かるのだから。)
大宇宙の秩序・摂理・法則は「諸法無我」なものであり、辺境宇宙の一惑星の生命体の一種に対して特別に法則に則らない行為をなされることなど決してないのである。(全体宇宙の調和を乱してしまう)
俯瞰し大観すると、この辺境星にうごめく微生物が「私は預言者である。」とか「私は神の子である。」とか「私は霊能者である。」とか「私は超人である。」などと主張している寝呆けた微生物は滑稽で愚かな道化師でしかないのである。
もっと解り易く言えば、顕微鏡を覗いて見たとき大腸菌などの微生物がウジャウジャとうごめくいている光景は、もし仮に神仏が居ると仮定したときに宇宙の彼方から、その得体の知れない神仏が地球上の我々を眺める光景と然程は変わらないだろうし、顕微鏡から覗いている微生物が大言壮語してるとしたら滑稽な事この上ないのではなかろうか。「人が地中の微生物に心を砕くことないが如く、天は人類という微生物に心を砕くことなし。」
しかも、敢えて神や仏を語るとするならば、人間の創造を遥かに超越した存在であり、この我々の大宇宙でさえも現象世界という神や仏の細胞の一つの中の出来事に過ぎず、もし人間が似せて造られた存在であるならば、一人の神仏の体内は人間同様に約60億個の宇宙(細胞)の集合体ということにもなるのである。
人間の力ではどうする事も出来ない天地自然の摂理(法則)と因果法則の上に生きる法非我なる存在として、大いなる意思(cetana)に対し敬い崇め畏れ感謝し大宇宙を形成している一部として合一してゆく全体意識こそ大観でも在るのである。神仏が人類を造ったのではなく人間の妄想が神仏を造ったのであり、微生物から進化の道を辿り人として生まれた生命が辿るべき道は、人類だからこそ具える発達した「理性」により人としての質(クオリティ)を高め、下位の生命達と同じく感情と概念に主導される存在から、真に完成された人へと目覚め(覚醒)してゆく事こそが、人間の進化への道なのである。
人間とは因果に律せられ誕生を条件として成長し老いて死ぬ事を条件付けられている。その老死により、無知(無明)が条件付けられ、その無知(無明)という性質により、本質的な怖れ、弱さ、不安、愚かさなどにより、得体の知れない神や仏などの超越的な力や存在を感情投射し妄想してしまうのであり、絶対神や物理法則に反する外的な得体の知れない力など存在せず、神も仏も悪魔も鬼も、心的な創造でしかなく、言うならば全てを正しく認識し判断し理解できる能力である「理性」こそ神であり、すべてを破壊でき心を蝕み土塊を黄金の如く魅入らせる怖ろしい悪魔こそ「悪感情」(貪瞋痴・不善心処)であり、自我(エゴ)の存在欲に執着した無慈悲な心こそ「鬼」なのであり、神仏とはそれらの象徴的な表現でしかないのである。
世界の大いなる意思(天地自然の法則である物理法則・因果法則)を否定する迷信やカルトの類は、愚かな子羊を脅す為の有効な手段でしかなく、それを真に受けて真意を汲み取らず、盲信することは決して善ではないのである。
迷える者の輪廻は果てしなく輪廻の流れは激流なり、堕ちれば地中の微生物から捕食の関係性により進化の道を再び歩まねばならない。
故に釈迦尊の教え「人の身に生まれるは難く、尊い教えに出会うは更に稀なり、涅槃に至る者は僅かなりや」「盲亀浮木ー大海に住む盲目の亀が百年に一度海面に浮かんでくる時に小さな穴の開いた海を漂う流木の中に首入れるという寓話(ぐうわ)」にいわれる如く、物事が出会うことは非常に難しく稀れな非常に珍しいことであり、大宇宙の関係性(結び目)による因縁により、人の身に生まれることが出来たという事が如何に幸運なことであり、先ず直近の幸運は約一億個のライバル(精子)達との競いにおい受精を勝ち取った生命として誕生したのでもあり、その競いに於いて敗れたライバル(精子)は輪廻の再生により今は近所に住む野良猫の三毛ちゃんとなっているかもしれないのに敗者を労わることもなく気付くこともなく感謝することさえなく、時間と命を無駄に費やす事の愚かさと、それによってもたらせる結果(自業自得)(善因善果・悪因悪果)による輪廻の激流と何処へ辿りつくのかの話は、迷信でも妄想でもなく摂理なのです。これは何をしなさいよとか、何を残すしなさいよとか、どう成りなさいよ、とか言っているのではなく、「しっかり味わいなさいよ。」と解釈して頂きたい。
吾我心、漂う雲を想うとき雲と合一し吾れ漂う雲なり。しかし心的創造に過ぎず、
吾我心、流れる風を想うとき風と合一し吾れ流れる風なり。しかし心的創造に過ぎず
吾我心、大宇宙を想うとき宇宙と合一し吾れ大宇宙なり。しかし心的創造に過ぎず、
現象の全てを内包し、色音香感覚動静の全てを内包す。しかし心的創造に過ぎず、感覚は万境に随いて転ず、意識も万境に随いて転ず、生も死も万境に随いて転じゆく、およそ自分などという実体は何処にもなく、魂や霊魂という実体なども何処にもない錯覚に過ぎず、唯、盲目なる意思に随いて現せる表象なり。ただ条件により生起し、条件により消滅しているだけ、苦悩(ドゥッカ)は煩悩により生起し、煩悩は渇き(渇愛・不安定)により生起し、渇きは無知(無明)により生起している、故に無知(無明)を叡智に入れ替えてゆくことが真理(ニルバーナ)へと目覚めて行く道なり、しかし凡人は真理を受け入れたがらず、思い込みを真実だと信じて疑わない。         
                                           如来品大師