勝儀諦(時空の諦観)

世の中には世俗諦(人間存在の諦観)を説くアビダルマ(教説)やドグマ(教義)は溢れ返るほど在るのですが、釈迦尊(ブッダ)が到達された勝儀諦(涅槃.ニルヴァーナ)への道は.その難解さ故か.歴史の中に埋ずもれ、各部派.各宗派ともが世俗諦を以って涅槃(ニルヴァーナ)の完成だと錯覚して今日を迎えているのです…(もし世俗諦が涅槃への到達であるのならば、仏の教え(大悟)は別段に難解でも.微妙でも.深淵でもないのですから…それに気付き嘆いた龍樹(ナーガルジュナ)は、世俗諦と言う[人間の存在性]と大宇宙との関係性と、[大宇宙の存在性]から導かれる生命の存在性(勝儀諦)の存在を見出したのではないでしょうか…
仏教ではこの世界(時空)は途方もなく膨大な一源(一種類)のエネルギーの流動である事を2500年前に既に看破し、大宇宙の意志(天地自然の法則・物理法則)と膨張し.拡大し.再生し.再々生してゆく安定化運動性と、大宇宙の意志としての人間の存在性(喩えるならば、真の芸術とは自己完結的なものなのですが、本質的な安定化運動性により理解者を欲する如く、大宇宙の意志は.この芸術的とも言える大宇宙を理解する存在を欲して生命を創造し、至高な存在[人類]を生みだしたのではなかろうか…)
つまりは天意(大宇宙の意志)に適うとは、諸行無常.諸法無我.一切皆苦を覚り、在るがままに天地自然を敬い.畏れ.崇め.賛美し.感謝する事だと言えるのです…
これは神仏論とは真逆な本質のものであり、神仏が人間を創造したのではなく、人間の弱さ.儚さ.怖さ.などドゥッカ(本質苦)が.依り処として神仏を欲したのであるが、もし仮に善の化身としての神仏が存在するならば、善の化身が依怙贔屓はしないだろうから、自然法を侵す人類を決して許しはせずに滅ぼす事だろう…神仏など居ない事に感謝…
つまりは、大宇宙の安定化運動性による人類の存在と、神仏の采配による存在とは真逆な存在であり、前者は天地自然の理法の上に存在し、後者は天地自然の理法に反して存在することになるのです…
一切万象は因果応報であり、一切万法は自業自得であり、神仏の差配により為されているのではないのですから…


■五集合要素(五蘊)という精神作用
人が通常に於いて認識できる世界とは、五蘊による精神作用が全てであり、色蘊(身体)に具わった受蘊(五感覚器官.眼耳鼻舌身)による感知能力と、想蘊(記憶.情報.知識)による認知.識別作用と、行蘊(意志.表象.サンカーラ)による感情と、識蘊(意識.概念)による認識作用という限定された範囲に於ける現象世界への認識能力を以って.世界だと錯覚して感じ取っているのですが…高度な集中力により五集合要素(五蘊)を完全停止させる事により[想受滅]の領域へと至るのです…[想受滅]の在るがままの悦楽のなかに叡智(智慧の真理)は顕現するのです…
話は多少.逸れますが、お釈迦様が何故に必要としない御立場となられても尚、死期を覚られて最後の旅に立たれても尚、托鉢.辻立ちを欠かされなかったのか…それは一口に言えば社会の流れの中での開眼による感覚器官(受蘊)による感知…想蘊にやる認知…行蘊による無知などの.五蘊(精神作用)の認識.制御コントロールの為でもあると言えるのですが、この最良の修養法も.サンガ(集団)が大きくなり多くの弟子達に敢えて薦めなかったのは、この先.サンガ(集団)が更に大きくなったり、国教化したりした時に街中に沙門が溢れ、人々の迷惑となったり、沙弥な者達が間違った教えを拡めたりする事を厭られたからであり…それが托鉢の[連行化]へと繋がっていったのではないのかと洞察しています…
■時間とは
一源のエネルギーの流動(変化生滅)を時間の次元として捉えているのです…

■この世界(時空)へ繋ぎ止めるもの
存在への執着
所有への執着
自我への捉われ
■存在性とは
輪廻転生が理解できない人は、大概が[自分]という意識で考えようとしているからだと言え永遠の霊魂や霊体という存在がないのなら.輪廻してゆく自分もまた無いと考えるようですが、諸法無我と説かれるように[自分がある]という意識は五つの要素(五蘊)が結合した時.自分という存在(実存性)を錯覚してしまうのであり、自分という意識の存在性は禅語の[引き寄せて.結べば柴の庵なて、解くれば元の野原なりけり]が端的に表現していると思います…
心の真の主とは、[私]の居なくなった[生命]そのものであり、心の次元により形成された心的エネルギーの波動なのですから…
全ては常なく変化生滅してゆく流れてゆく[諸行無常]なこの世界には、霊魂や霊体などという常住的なものなど存在し得ないのです…
では何が流れて行くのかと言えば、それは[心的次元]であり、一源のエネルギーは各種それぞれの次元を通過する事によりそれぞれの波動を形成しているのです…
心的次元とは、楽器のようなものでもあり、出来のよい楽器を通過すれば良い音色(波動)で響き、出来の悪い楽器を通過する音色(波動)は耳障りな音色(波動)を響かせるものなのですから…
そして次の輪廻転生してゆく先を洞察するのは.実に簡単な事でして、掻い摘んで書けば.凡そ[平安.安堵.歓喜.静逸などをエネルギー(糧)として生きてる人はその境地により下天界.人界へと輪廻してゆく][妄想的.パラノイアな思想をエネルギー(糧)として生きてる人は修羅界へと輪廻してゆく][感覚的.感情的な喜怒哀楽をエネルギー(糧)として生きている人は畜生界へと輪廻してゆく][我欲への渇望をエネルギー(糧)として生きている人は餓鬼界へと輪廻してゆく][怒りや闘争をエネルギー(糧)として生きてる人は地獄界へと輪廻してゆく]のですから…
輪廻転生とは、罪や罰などではなく身体的生命連鎖性と心的生命連鎖性の理法なのです…
言い換えれば、今.生きてる一瞬一瞬、毎日毎日も輪廻転生しているのですから、死後も連鎖を継続してゆく為にもエネルギー(糧)が必要なのであり、それぞれに適したエネルギー(糧)の供給が適う先へと向かうのです…
無明の闇を光明(真理)で照らし出し[目覚め(覚醒)、乗り越え(超越)、解き放たれ(解放)]上天界(彼岸)へと輪廻(成仏)してゆくか…[寝呆け、染められ、縛られて]闇を深めてゆくか…
一切万象 因果応報
一切万法 自業自得
■この世界(時空)への呪縛とは
この世界(時空)への執着、即ち輪廻転生…
数学ではなく算数計算なのです…
人間が幾ら増えたとしても100億体程度
下層の修羅層(肉食畜生)で1000億体
下層の畜生層(草食畜生)で5000億体以上
下層の餓鬼層(昆虫.爬虫類)で1兆体以上
最下層の地獄層(微生物)で1000兆体以上
〔3千万種.無尽蔵〕
この多様な生命層を全宇宙に拡げても.その比率は同じであり、多様な生命層の流れの中で.人の身(生命層の至高な存在)として再生する(生まれ変わる)のは難儀(盲亀浮木)であり、善良で心の豊かな人(1〜5%程度)ぐらいでしかなく、成仏(心的エネルギーのグラビトン化波動の形成により高次元へと再生)とも成れば、0~1%程度であり、欲望への執着の業火に焼き尽くされた者であっても[死ねば仏だ]経典の霊力を以って[大枚の銭金で成仏できる]と大衆迎合的に仏の教えを歪曲したのが馬鳴(アシュヴァゴーシャ)の大乗起信論なのです…
存在への執着.所有への執着.自我への捉われによりこの世界(時空)に繋ぎ止められる者の波動は、深度により地獄層から修羅層の何れかの波動と共鳴しながら再生してゆく…
人の身の現在と変わらず.何かしらに成り続け、その何かしらの五集合要素(五蘊)に従って、新たな意識を結んでゆくのです…
記憶.知識などは今生に置いてゆくものであり、今生の最後の思考瞬間が、次の始めの思考瞬間へと継続してゆくのです…
此の世で[自らを島とし.自らを頼り(依り処)とし.他人を頼り(依り処)とせず、理法を島とし.理法を拠り処として.他のものを拠り処としないで在る人々がいるなら.彼らこそ修行者として最も涅槃(ニルヴァーナ)に近い境地にある者である...

心、貧しくして 涅槃なく
心、貧しくして 彼岸なし…
心、卑しくして 涅槃なく
心、卑しくして 彼岸なし…
心、無明にして 涅槃なく
心、無明にして 彼岸なし…
繋ぎ止められし時空を流れゆく
目覚め 乗り越え 解き放たれますように…