脳内快楽物質

釈迦尊(ブッダ)は仰っています…
「愚かなる者達は、日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく、雑草を美味しいと食べている家畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」
人は皆んな喜びや幸福を求めて生きている。一部の偏屈な嘘つきを除いて、喜びや幸福を求めずに生きている者など一人も居ないのであるが、本当に愚かな人とは自分が愚かで無明だとは思わず自惚れているから、喜びも幸せも外世界から与えられるものだと錯覚して外世界に意識を盲目的に向かわせるが、思うように得られないと愚痴ったり怒ったり不満を感じて、外世界にその原因や責任を転化するのものなのです。
幸せとは.遠い山の彼方や形而上学的な哲学やらプラパンチャ(戯れ事.能書き.空論.観念論)とか、艱難辛苦の先にあるものだと錯覚しますが、要は体内快楽物質を如何ように分泌させるか次第というシンプルな話なのですから…
愚かな人は自分自身の統制により内界分泌コントロールが出来ずに外界薬物に頼り依存症となってしまっただけの事…
つまりは愚かな人が.愚か者である為には自分自身を知らない必要が有るように人は幸福を追い求めながら何時も真の幸福を取り逃がしてしまうのも[幸福とは何なのか]を本当は何も解って居ないまま幸福や喜びを無明(本質的無知)に追い求めるからに他ならず例えこの世を儚んで自殺しようとする者であっても、破壊欲に憑りつかれた狂人であっても、その中に喜びと幸福とを見出したからに他ならないのであり、苦行する愚か者もその中に幸せや喜びを追い求め見い出そうとするからであり、真の仏教とは決して苦行に埋没するものではなく幸せ歓び悦楽の中に堅固なる涅槃(ニルバーナ)を実現するものである。
 
 
では喜びや幸福とは何なのでしょう?
 
 
世の中の学者や宗教家がその蓄積した知識量により単なる推測に過ぎない不毛な形而上学的な観念を振り回しながら実際には煩悩や欲得への執着に塗れ、苦や悩みや不満や悔やみを深めてしまう思想の荒野の中を彷徨いながら、どんなに高尚な言葉を用い、訳が解らない言葉を操り、理屈を捏ねようが真の喜びや幸福を体現することなど出来ないのである。寝惚けた人や浅薄な能書き垂れも、詩人のごとく美辞麗句を並べ立てるが、所詮は思考による主観や見解という幻想に過ぎず、喜びや幸福というものが概念や思考(意)によるものではなく、無知が叡智と入れ替わったときに潜在域(気)において味わうものであり自らが体現するものなのですから…
 
 
そして心とは西洋哲学が唱える物質に相対する精神や意識ではなく、心とは生物が具える五集合要素(五つの要素の集まり.五蘊)における機能.器官であると自覚しなければならないのであり、つまりは因果律(縁起)に従って条件によって生起している一つの機能・器官に過ぎないのだから変えてゆく事も可能なの物なのです…
先ず思考した概念(意)が潜在域(気)に伝達されて行く訳ではなく、潜在域(気)の概念(潜在概念)が、五蘊という精神作用を経て.表層の思考(意)に伝達されてゆき思考域において.その概念をなぞって見解を言語として認識し.更に思考を加えているだけなのであり、今の思考とは今.考えている訳ではなく潜在域における過去の記憶や経験により生じた潜在意識や意志を表層域の思考が明確化させているだけなのである。
 
 
[思考は潜在域(気)の決定した事項を言葉や概念(意)でなぞっているだけ…その後に主観や見解を捏造している。]
 
 
つまりは喜びとか幸福とは潜在域(気)が「そう感じている」ことであり、世の中に溢れる自己啓発セミナーなどで宣うような思考や意識を変えたり、そう思い込むことでは決して心を変えてゆく事など出来ないのですから…[呪文のごとく嬉しい…幸福だ…と何遍も唱えてみても、潜在域のサムカーラ(五蘊の行蘊)の記憶の残滓や汚穢により不満であるという潜在意志による概念は変わらず、現実には空しくなるだけなのです…]
 
 
つまりは頭(思考)が理解するのではなく心(潜在域)が理解しなければ本当の意味で何ら変わっては行けないのである。
 
 
しかし潜在域(気)を変えて行くのも思考域による意(真意)を繰り返し潜在域(気)へ刷り込んでいくのであるが、思考(意)を呪文化させて潜在域(気)へ繰り返し刷り込んで行くのは無駄な思考を止めて集中してゆくには有効であるが、呪文化し唱えながら潜在域(気)へ伝える言葉には自ずと欲望(我欲)が宿り、真意(神意)は宿らず、欲心を深めた潜在識(意)が宿らせてゆくものであり、欲心のフィードバックにより、人をより欲深させく.存在欲を強め、妄想を生じさせ妄想を深めてゆく事となるから留意すべきなのです…
 
 
潜在域(気)が変わって行かなければ、悲しみが喜びに、不幸が幸福へと変わって行かないものだから尚一層に[所有の次元の事物]に翻弄されながら彷徨ってゆくだけなのである。(※所有の次元の事物とは、存在欲の不安定性を安定化させようと物品や諸事.金銭.地位.名誉.勢力.権力.権威.他人の承認.五感覚の刺激.知識.情報など何かしらを所有し.依存し.執着する事により短命な安定感(喜び[を得る次元であり、一時的満足や喜び幸福感を味わうことは出来るが[苦]という本質へと戻ってしまう性質のもの(本質的には「苦」が満足や喜びや幸福という姿形をとって(化けて)一時的に現れたに過ぎず、苦という本質へ戻る性質であり真の満足も悦びも幸福も得られない。幻想の次元)
 
 
喜びや快楽や満足について現代的に言い換えるならば、満足や喜びや幸福をもたらすものは、「ドーパミンやエンドルフィンやセロトニン・・・・」などの脳内に分泌されるホルモンなどの幸福物質・快楽物質・安定化物質と反作用の物質の適量の分泌作用なのである。
 
 
人々は脳内でこの「ドーパミンセロトニン等」を分泌させて満足感や喜びや幸福感や安心感を味わいたくて日々、存在欲に翻弄されあれやこれやとゴチャゴチャと金財欲・物欲・名誉欲・地位欲・勢力欲・権力欲・権威欲・承認欲・家庭欲・性欲・愛欲・・に魅入られ依存して盲目的に彷徨っていると言えるのである。脳内に快楽・多幸感・安定化物質を分泌させる為に懸命に生きている存在でしかなく、自分の人生を妄想して自惚れて理由付けし見解を捏造して納得していても、本質的に脳内快楽物質の分泌や摂取することを熱望し貪り執着している存在に過ぎないのである。しかもそのドーパミンセロトニンやエンドルフィン等の快楽・多幸感・安定化物質の分泌を所有の次元に探し求めるものだから一時的快楽と引き換えに大きな苦(禁断症状)を味わうというサイクルを繰り返しているのだけとも言えるのである。
 
 
用はこのドーパミンセロトニン等を分泌させる手段であり方法なのであり、それも短命的な分泌ではなく継続的(不死の概念)な適量の分泌を渇望しているのである。しかし人は感情的思考により主観的に物事を判断していると自我意識(自己中心的エゴ)が強まり、それを条件として生起する執着による不満や怒りや恨み苦しみという精神的な不安定感や不快感からの一時的安定や快感の為に、人は妄想を膨らませ妄想を深めてゆく事により、過剰(異常)な量のドーパミンを分泌させ一時的な快楽や安定感を得るのだが、それは現実世界と妄想世界とのギャップを深めてゆくことでもあり現実逃避的な自己防衛反応により幻覚や幻聴や強迫観念に襲われたりという、躁鬱病精神分裂病などの症状を呈してゆく人も多い。又、 そんな本質的な欲求の魔力に抗えず魅せられ嵌まり込む弱者が手を出してしまうものが阿片や麻薬といわれる覚せい剤などの薬剤による薬物による麻薬患者なのであり、別に変な性癖による訳でも性格異常な訳でも特異体質な訳でもなく言わば通常な一般人なのであるが、唯、意志が弱い憐れむべき人々なのである。
 
 
多くの者達が、得体の知れない信仰や新興宗教とかカルト集団に簡単に染脳(洗脳)されて容易には抜け出せないのもその為である。
 
 
そんな人は皆、何かしらの問題や苦しみや悩みなどを抱えているから得体の知れない宗教団体(真の宗教ではない別物)などに入信したりするのであるが、それはその初期においては煩悩(生存欲)の要求にも適い、煩悩(生存欲)は永遠の存在へと向かう物事であると錯覚して幸福感や平安感や喜びを感じさせる脳内物質を分泌するのだが、煩悩(生存欲)は早晩には間違いを認識してしまい興味を失い脳内快楽物質を分泌がなくなるのだが、その味わった快楽の感覚を忘れる事が出来ず禁断症状に陥ると以前の精神状態は不安定となりカルトや信仰への依存を深めてゆくのである。あたかも薬物中毒患者が摂取量を除々に増やし廃人化してゆくが如しなのである。幸せで快適で満足して心が安定している人間には妄想された神も仏も預言者も得体の知れない教義など必要としないのである。(人としての道理・徳目・倫理は必須として具して居なければならない。)
 
 
しかし現実世界に存在する麻薬患者のごとく不自然(外部からの異物や虚偽的なもの)な摂取には必ず一時的な快楽に倍するダメージや後遺症や依存症などに苦しむ事となる。(欲心や渇愛の状態で過剰にドーパミンやエンドルフィン・セロトニン等が分泌したり過剰に摂取したりすると妄想や幻覚・幻聴など譫妄を深め徐々に統合失調症や精神錯乱状態に陥ったり精神が病み破壊されたり、より欲深い人間になってゆく。)
 
 
しかし「不治の病」の項目で暗示させて頂いたように、正しく調えられ制御された心の働き(脳波:α波や未解明な脳波など)によりコントロール(制御)された親和的分泌によるドーパミンやエンドルフィン等の分泌により、軽安があり悦楽があり涅槃が在るのであり、この因縁を悟り(因縁によって生起し現れるものであり因縁が変われば消えてしまう性質のものであると確かに識って捨離する(拘らない)ことで寂静が得られるのである。
 
 
つまりはこのドーパミンやエンドルフィン等の無心状態での制御法を「法灯明」の道に求め、自分の中に智慧により顕現により発見してゆく道が「自灯明」であり、仏教の本質でもあるのである。法灯明と自灯明により至高なる悦楽と歓びと幸福を得られるのだから、何にも依存も必要とせず三帰依にのみ帰依し、必要最小限の物以外に何も必要とせず(知足・無一物)
 
 
一息一息の中に真理と智慧と満足と悦びと平安を持続してゆく者となるから聖人であり真の勝利者であり如来であり到達者なのである。
 
 
因みに、人が死に近づいたとき「お迎え」があった人は、最後の時(臨終)に際してβ-エンドルフィン やドーパミンが一気に通常の何百倍も放出されて、性交による快楽の何百倍の快楽を味わいながら逝くと言われます。
 
 
しかし信仰を中心とした宗教に嵌まり込むと、その偏った欲念によりドーパミンの放出を阻んでしまうとも言われます。何故ならば宗教(道理・徳目・倫理・真理など)の面を軽んじ、得体の知れない作為に満ちた価値観(作為的な社会と作為的な神や仏)を押し付けられ染脳(洗脳)された潜在域(気)や真我(本質)は、自分に内在し具する価値観(存在の価値)を歪めた決定邪見者は彼岸(天)へは赴かないと釈迦尊は仰っているのです。
 
 
この「所有の次元」と「存在の次元」を端的に現す禅語に「月白く風清し」という一句が在りますが(人間社会の中で金財や物欲、地位や名誉、主義や主張、承認、勢力、権力、権威などの欲得に捉われている者は、自分自身が輝く月や清らかな風のようにはなれない。所有するものに依存することにより、依存する事物の放つ輝きや威力をまるで自分が放っているかの如く錯覚してしまい、主体である筈の自分という存在を客体化させてしまうという見当違いな価値観に気付けない者に垂れる絶妙な一句である。)
 
 
仏教とは、これらの心から沁み出すような、心に沁み込むような愚かな心
 
 
アーサバ―(汚れ)の滅尽を目的とするのであり、悟りも涅槃も求めるものではなく精神性の育成と終着心からの解放によるグリコのおまけみたいなものだと考えて頂きたい。
 
 
ここで言うアーサバ―(汚れ)を簡単に言うと、自分というものを冷静に分析してゆくと「自分という存在はいつまでも愚かで未熟で空しく、つまらない物事、どうでもいい物事、下らない物事に捉われたり拘ったり気を捕られてしまう存在である」つまりはアーサバ―の汚れでいっぱいな存在である事に気付かねばならない。
 
 
日々の努力精進と気付きで、そんな自分の愚かさを少しずつ改めてゆき、アーサバ―(汚れ)を滅尽してゆくのが、仏道修行であり「仏道とは何かを得てゆく道ではなく、捨ててゆく道なのである。」
 
 
誠に神や仏や預言者などが微たる人間に対し啓示した価値観であるのならばその価値観は自分に内在する価値観を超越するものであるのだろうが、残念ながらそれら得体の知れない神や仏や預言者などは、作為ある人間達が自分たちに都合よい価値観を、作為と妄想により創造した神や仏や預言者に付託しルールともしたものであるから、只、信じろ信じろと宣い信じない者には罰が下るなどと脅かすのであるが、そんな偏った価値観に翻弄され存在欲の衝動に翻弄され所有の次元に誑かされ、自分に具する価値観を歪めて「存在の次元」を彼方に追いやって、真の幸福は得られないのである。
 
 
それら得体のしれない神や仏や預言者などという類のものは、人間に内在し具する大いなる何か、大いなる存在に対して帰依したい守られたいという人間の根源的な本能に付け込み、羊の皮を被って近づく狼の如きもので「それは我が神、我が仏、我が預言者である」と嘯いて、不死や啓示や奇跡を捏造し、染脳(洗脳)とプロパガンダを駆使して一時的な所有と喜びと幸福をもたらすかわりに、皆が自らに具して内在する真理や価値観などを破壊しつくして家畜のごとく飼い慣らす害毒に他ならないのである。
 
 
釈迦尊は仰った。「自分を救うものは自分だけであり、自分の努力しだいなのだ、神や星々が願いを叶えてくれた験しなど無いのだから。」
 
 
憐れなるかな、善と向上を求めながらも罠に捉われし家畜達が幸せでありますように。(善へ向上を求める者達よ、目覚め真理を目指せ。)
■脳内快楽物質
○内在性カンナビノイド
アナンダミン(アナンダマイド)
多幸感 陶酔感 
ドーパミン 短命
多幸感 快感 意欲 爽快感
(制御されない異常分泌)では 脅迫観念 妄想 幻覚
注意力散漫 
○β.エンドルフィン
内在性オピオイド 多幸感
脳内麻薬(依存症はない)
セロトニン 幸せホルモン
オキシトシン 関係性 絆 安定感