負担量

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毒と薬は同じもの、苦楽も一如なり
人を殺す毒というものが在って、それとは別に薬という.人を生かすものが在る訳ではなく、苦という忌わしいものが在って、また別に楽という愛おしいものが在る訳ではなく、それらは単に負担量の違いにより現れる作用(現象)の違いに過ぎない。
それは環境.時間.状態.蓄積量に影響されるものでもあり、薬も健康体には毒ともなり、毒も負担量により薬にも.好い刺激にもなるのですから。苦楽とは感覚の分別であり、楽あれば苦あり…楽という感覚があるから苦という感覚もあるのであり、苦楽の重ね合わせ(スーパーポジション)こそ中道であり安定であり苦でも楽でもない静逸である…
楽を愛おしみ.苦を忌んでも苦楽は一如に纏わりついているのだから…
苦とは苦だと認知した時点からが苦であり、楽の姿で現れた感覚が古くなったり負担と感じたものが苦なのであり、苦の感覚が古くなったものが楽であったりもする…だから昔の苦い経験や苦しかった想い出は.味わい深く蘇るのに、楽しかった想い出などは案外に忘れ去っていて然程も残っていないものである

つまりは苦(ドゥッカ)や楽(スカ)とは外部刺激情報.内部刺激情報という現象を.その負担量により分別し認識しているだけなのであり、[苦である][楽である]或いは[苦でも楽でもない]とはその負担量をどう感受したかという問題であり、本質的には負担が無ければ生きてゆく事さえ出来ない存在であり.解り易く負担を負荷と言い換えれば引力による負荷により筋力は維持され、一定の負荷を掛ける事により筋力は増してゆくように、負担と感じる負荷を苦(ドゥッカ)と捉え逃れようと欲し、負担とは感じない快い負荷を楽と捉え貪ろうと欲すしているのである。

中道とは両極への極端な執着を乗り越える事であり、この負担量の[ほどほど]の処が中道だと勘違いしてはいけません。
人は何かしらに愛着したり怒ったりしながら生きているのです。
しかも愛着するのが幸せだと勘違いしているのです。
ですから楽に愛着すると.苦とは怒りの対象となるのです。
六根(眼耳鼻舌身意)に受ける刺激に愛着すれば、やがて飽きて物足りなくなり更なる刺激を求めて彷徨ってゆくだけで、安堵する事がなくなります。

苦があるから楽があるのだと、片極への偏りを乗り越え
両極を受け入れ負担.負荷としない事が中道です。
苦の中に幸せを見い出そうとするような苦行とは、貪瞋痴つまりは貪欲と怒りと愚かな我慢により成り立っています。
また楽の中に幸せを見い出そうとする享楽的な人も、貪瞋痴つまりは貪欲と怒りと愚かな我慢により成り立っていて、欲望に翻弄され少しの喜びと大きな不満や失望や怒りの中を彷徨っているのです。
しかし負担・負荷による苦(ドゥッカ)こそが生存の素因(煩悩)の栄養素(エネルギの根源)であり、空腹になり空腹感が負担と感じ苦と感じるから食事をし、満腹になると快楽(満腹感)を感じ、満腹感を超えると負担と感じ.苦と感じ,やがて消化.吸収した後には腸に蓄った残物を負担と感じ.苦と感じ排泄し快感(排泄感)を感じる、煩悩(生存欲)は物質的.現象的な外部刺激情報や内部刺激情報に向かい愛着し、それが永遠の生存(妄想)の為にブラスだと判断した負担.負荷を快楽と感じ貪り欲し、マイナスだと判断した負担.負荷を不快と感じ.怒り不満を生じ、ブラスかマイナスか判断付き兼ねる負担.負荷に対して惑いや迷いを生じさせる、プラスと判断し快感と感じた負担量.負荷量もやがて正体を現したり飽きたりして負担と感じ負荷と感じ苦(ドゥッカ)を生起させ、マイナスと判断し不快と感じた負担量.負荷量も正体を現したり慣れたりして負担.負荷と感じなくなると苦(ドゥッカ)は消滅してゆく。すべからくこのような心理循環や心理過程を繰り返しているのである。

●負担量を増加させ苦(ドゥッカ)を生じさせるのが無明な執着であり、負担量を減らし快楽を生じさせるのが叡智による解放であり、それは世に言われる解放で脱出でもなく.妄想や自縛を含め.あらゆる物事に縛られ束縛されながら負担.負荷の中で人は生きているのであり、生きる事イコール負担.負荷であり、苦楽とは負担量.負荷量の問題であり、自分勝手に自己中心的な自我意識に基づいた分別.好嫌による.自我意識に誠実に生きる事ではなく、自我の妄想に囚われ過ぎず.自我の妄想に拘り過ぎず.自我の妄想に誑かされず.自他同時に無我なる現象的存在である事に気付き、負担.負荷と感じない負担量.負荷量を図り、苦にも楽にも偏らない中道的な悦楽と平安と静逸な歓びの中に日々是好日を実現させた処こそ.妄縄にも.自縄にも.社会にも.生存にも.健康にも.寿命にも束縛されず、負担だ負荷だと負担量.負荷量を増やす事のない負担.負荷から解き放たれた真の解放と自由を実現するのである。

●法句経典(ダンマパタ)
「物事は心に基づき、心を主とし、心によって創りだされる。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き随う
影がその身体から離れない如く」
「物事は心に基づき、心を主とし、心によって創りだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き随う
車を引く牛の足跡に車輪が付いてゆくが如く。」
●人は心が主体であり、身体は従体である。
●主体にとり従体とは付属物であり無くてはならない物であり、本質的には負担物であるとも言えるのである。
●仮に心(主)だけで在るとするならば.負担と感じる苦(ドゥッカ)とは、心(主)が感じる心的な負担に他ならない。
●苦(ドゥッカ)とは相互依存関係性(縁起)という条件によって生起する現象・感受した感覚を負担だと感じた処からが苦(ドゥッカ)であり、負担だと感じるまでは楽か或いは苦でも楽でもない(不苦不楽)な状態であり、負担イコール苦(ドゥッカ)なのではなく負担・負荷は本質的には「一切皆苦」なものであるが負担量が少ない時或いは負担と感じない時は楽或いは不苦不楽とiいう姿をとり、負担量が増してくると苦という姿を現すのであり、楽とは苦(ドゥッカ)を前提条件とするものであり、本質的な苦(ドゥッカ)が楽と感じる負担量で一時的に現れた状態であり負担量が増してゆけば本質である苦と感じる性質のものなのである。つまりは楽とは本質的な苦を前提条件として存在するものであり負担量の調節により楽へと転化させる事も、苦と感じ続ける事もある性質のものである。
●負担量が増し「苦」と感じた時からが「苦」であり、苦と感じていない時が楽か不苦不楽の状態という事である
●心を従することが未熟であるならば自ずから負担と成し「苦」の中を彷徨うか.苦からのがれようと破壊へと向かう。
●心を従するならば自ら負担を取り除き「楽」の中に生きるだろう。
●苦楽は物事の在る無しではなく心が負担と感じる量次第なのである。
●人は皆、喜びを探し幸せを求めて生きている。(生存の素因による欲望である)
●今、自殺してしまおうと考える人も、その中に喜びや幸せを見い出すからに他ならない。
●生きる事自体が本質的には負担であり苦(ドゥッカ)であるので、生きている事自体が苦しく負担なのだと錯覚する。
●しかし殆どの場合、何かしらの枝葉の問題に過ぎず生きる上で逃れ捨て去る事が出来ない問題でも決してないものを、その問題に執着し、その執着から離れられず負担と感じ苦(ドゥッカ)と感じる感覚を生きている事の負担であり苦(ドゥッカ)であると錯誤しているのである。

【人の心は潜在識が主体であり表面意識」は従体である。】
例えれば、潜在識が「嫌い」だと判断する物事は、意識で「好きだと思おう。」と振舞っても、心は「嫌だ。」と感じてしまう。
【人の潜在域では本能が主体であり、潜在識が従体である。】
五官(眼耳鼻舌身)が外界から受け取った情報を思考域で感受し認識し、
情報を潜在域へと送る。(潜在識→本能域→真我)
本能「三要素 攻撃本能(激質)・防御本能(暗質)・理性(純質」から生ずる(貪瞋痴の煩悩と理性からの客観性)の衝動を潜在識で受け取り意思(行)を生じ表面意識へ送る。(表面意識は送られてきた衝動を認識し.思考し.見解を生ずる。)
【人の本能域では真我が主体であり、本能は従体である。】
真我とは本質的な形成力(カルマ)であり、魂.霊魂.霊体の類とも違う、心的エネルギーに衝動.意志.性(さが)を生じさせる心的次元である。

緩すぎず強すぎず.丁度よく張られた弦は良い音を響かせるように、良い形状の楽器は良い音を奏でるように、よい形状の心的次元はよい衝動.意志.性(さが)を形成させる。

真我は普段は反応しない(唯、感受している。)。本能が激しく揺れると真我にも作用し反作用として本能は目覚めたが如く強い反応を生じる。
つまりは表面意識が潜在識に繰り返し送る情報の繰り返しにより、潜在識が見解を形成し。潜在識が本能域に繰り返し送る情報が本能の見解を形成し、本能が真我に繰り返し送る情報が真我の見解を形成しているので表層意識が「善い清い正しい」見解を繰り返し潜在域に送っていけば潜在識→本能域→真我が、「善い清い正しい」見解へと除々に変わってゆき、「善い清い正しい」衝動を表面意識へと送ってゆくように変わってゆく。またこの逆に表層意識が「悪い穢れた不正な」見解や妄想を繰り返し潜在識に送ってゆけば潜在識→本能域→真我へと汚れてゆき、性格が悪くなり欲深くもなってゆくのである。
それぞれの主体にとり従体とは「無くてはならない物であると共に本質的には負担物」なのであり、それぞれの領域において「負担を負担であると確かに識れば負担量は自ずと制御される。」のであり、負担から解き放たれて不安定な主体は安定化してゆき「涅槃」へと向かうのである。
不安定なそれぞれの主体を不安定にするものが「執着」という「負担」なのであり、本能の不安定な衝動に突き動かされ人は「・何かを考えないでは居られない(妄想)。・何かをしないでは居られない。・五官を駆使して何かの情報を探し求めないでは居られない。・何かを所有(頼る)しないでは居られない。・群れたがる。・・・など」不安定な本質を安定化させようと「自分がしている。」のではなく「させられている。」のである。例えば妄想しようとして妄想している訳ではなく「させられている」のである、自分の意思により考える事は思考であり「空想・想像」は理性(客観的思考・理解能力)が主導しているが、妄想は感情(貪瞋痴)が主導しているのである


業(カルマ)とは自業自得なものであり、そのようにして形成された「心」が身口意の三業により行なった識別(感情)を業として積み重ねてゆき、その積み重ねた業による五蘊(精神作用)による感覚.認識や識別.感情.概念により業を形成し.業を深めていったり、心の負担を増やしてもゆくのである。在るがままに眺め、在るがままに聞き、在るがままに生きれば、心は平安にあり、その調った感性は法悦を味わう。

真理は無常.無我.存在苦なのである