相対的幸福と絶対的幸福

幸福には[相対的な幸福]と[絶対的な幸福]とがあります…
多くの人は幸福は所有(所有の次元の事物)の所有量に依ると勘違いしてますが、真の幸福とはその愚かさや無明さ(無知)を捨てていった先に在るものなのです…
 相対的な幸福とは.他と比較して自分のほうが優れているとか.今のほうが恵まれているというような主観的.感覚的.感情的.記憶.情報.知識.妄想による喜び.快感.幸福感などを味わう本質的には無常な苦(ドゥッカ)が.喜びや幸せという姿や形をとって現れる一時的なものに誑かされているに過ぎない短命な幸福であり、苦(ドゥッカ)という本質から逃れている訳ではなく、相対的である限り楽苦の間を振れ動きながら苦(ドゥッカ)へと還り付く本性のものでもあるのです…
単に条件により生起し.条件により消滅しているに過ぎない現象的な.他と比べて味わう幸福とは、やはり他と比べる事により不満や苦しみ.哀しみを抱かせるものなのですから…         
[上を見たらきりがなく.下を見てもきりがなく、上を見ても意味がなく.下を見ても意味がない]
[他人の牛を幾ら数えても自分の牛にはならない…]
まして主観に基づいた妄想的識別した幸福は幻想に過ぎず、自分より劣っていると思っている人が実は幸せであったり、自分より優れていると思っている人が実は不幸に苦しんでいたりするもので、喜びも幸福も[所有の次元の事物]の所有量なのでは決してなく、その人の持つ価値感(心の秤)次第なのであり、有無同然(有れば有ったで苦しむ者は.無ければ無いで苦しみ、無ければ無いで楽しむ者は.有ればあったで楽しむもの)なのであり、その人の心が.どう受け止めるか次第なのであり、そして[絶対的な幸福]というものがあります。 それは存在の次元に顕現するものであり、無知(無明)を智慧(叡智)へと入れ換える事により現れてくるものであり、世界から分断した自分(自我意識)という存在への捉われ拘り執着から離れ、自分を自在な心で観ることが出来さえすれば.有り余るほどの喜びや快楽は見い出されその為の能力を既に具し、世界一の幸福がすでに与えられていることに気付き、所有の次元の事物が、条件により生起する物事とは同時に条件により消滅する性質のもので在るのに対して実存的・実体的な平安と悦楽に満ちた揺るぎない幸福をえる事が出来るのです。           
正に釈迦尊(ブッダ)の御言葉[心が変われば世界が変わる]のです。
真の満足をもたらすものは[要らぬ欲を減らし.足るを知る(少欲知足)]の心だけなのですから…例え天から金財が雨が降る如く与えられても.心が満たされることはないのです。(欲望は常に[もっと欲しい.もっと欲しい]と要求し続け、渇愛は[渇いた.渇いた]と潤いを探し続け、煩悩(生存欲)は[生きていたい]と永遠の命を妄想しているのです。)     
天地山河草木、すべてが清浄な浄土なる世界に観えるか、欲と偽りに満ちた穢土なる世界に観えるかは、唯、心の状態と叡智の顕現による感性なのです。   
生きる事は言うに及ばず.世界は本質的な苦(ドゥッカ)により成り立つと仏教では考えます…「一切皆苦」    
 
 
この本質的な苦と訳される「ドゥッカ」とは、実は苦という感覚だけを表現しているのではなく、縁起律に遵って生まれて来ている全ての人間は無明(無知)を条件付けられて生まれて来ているのです。
この条件付けられた無明により人間という存在は本質的には、生きる上で具えている不安定さ.不完全さ.苦しみ.心痛.悩み.迷い.憂い.儚さ.弱さ.脆さ.恐怖.空しさ.哀しさ.悔やみ.惨めさ.欲望.無常さ.無明などの本質をドゥッカ(苦)と捉えているのです。
この世界を分別するとは言い換えるなら物事を両極的に判断する事なのです。
本質的には[苦]により成り立っているのですが、兎に角.苦を遠ざけ.封じ込めようと感覚.感情.思考を一極である快楽や喜びに焦点(フォーカス)をあてる時、片一極である苦を前提条件として快楽や喜びを得ているのであり、ヤジロベエに例えるならば片一極の錘に偏ることにより辛うじて一時的に得ているだけでしかなく、万事.自然法則により支点を軸として安定や楽へとに向かおうとする時、片一方の極である苦へと揺り戻そうという働きが生じ、望もうと望むまいと苦へと偏ってゆくものであり、苦と楽との両極の間を揺れている不安定性こそが本質的な苦(ドゥッカ)そのものなのですから…つまりは全てが苦を前提条件として存在しているのです…
苦しいから膨らんで縮んで息をして、空腹になると苦しいから食事をして消化吸収して苦しくなるから排泄して、活動して疲れて苦しいから睡眠してやがて寝ているのが苦しいから起床しているだけなのです。              
 
 
この[本質的な苦]を苦として捉えるほどの負担量でないから苦と感じていないだけであり.もし負担量が増せば苦しいと実感して気付き、快感という感覚も実は本質的には痛みなのであり、その快感でさえ快感の負担量が増してゆけば本質的には痛みである事に気付くのです。  
苦を苦として捉え避けよう避けようとすると苦は纏わりついて来るもので、この苦というものを[苦である]と直視出来るならば[苦]と感じない他の時間は[楽]なのではないでしょうか。      
つまり楽とは[本質的な苦]が[楽]という感覚で現れている状態に過ぎず[本質的な苦]はまず[楽]という感覚で現れやがて[苦]へと戻ってゆく性質のものであり、どんなに楽しい物事にも飽きが訪れ、どんな快感も麻痺してゆき依り強い刺激を求めて苦しむものであり、凡そ全ての物事は.これを繰り返しているだけなのです…
要は現象の[楽]で在る部分を捉えてゆくか、[苦]である部分を捉えてゆくのか次第なものなのです。(味わいかた次第)呼吸で例えてみれば、通常は負担と感じない範囲で何気なく呼吸しています、しばらく息を止めてみれば苦しくなり、その後に思い切り息をすれば快感をかんじます。普段、余り気にもせず何気なくしている呼吸でも、念処(客観的に観察)してみると[苦]の部分で捉えれば息を止めていた状態の[苦]を認識し、その後に息をして[苦]が一時的に消えます。(呼吸できる喜び安堵の快感さえ味わえるのです)   
[楽]の部分で捉えれば[苦]を感じ、苦の負担量を調節してやると[快感][楽]を感じるのです。       
いつもは何気なくしている呼吸は一日に約一万回しています。もし[苦]と捉えれば一万回苦しみ、[楽][快感]と捉えれば一万回[楽]と[快感]を得ることが出来ることでもあるのです。   
苦も楽も実は捉え処の問題なのです(苦楽一如)        
つまり生きる事自体が本質的には苦(存在苦)であるのですが、呼吸ひとつをとってみても[苦]と捉える人もいれば[楽][快楽]と捉えられる人も居るのだという事であり[苦]と捉える人と[楽]と捉える人が世界を同じように捕らえ眺めると思いますか?[苦]と捉える人と[楽]と捉える人とが物事の重要度を同じように選択してゆくと思いますか?
[苦]と捉える人と[楽]と捉える人とが同じような人生を描いてゆくと思いますか? 世の中には溢れかえる程の苦楽があります。自分にとって苦だと感じているものを苦とは感じない人が居れば自分にとって楽だと感じるものを苦と感じる人も居るのです。苦楽とは負担であると感じる量の問題なのであり負担量を調整していくだけで自分というものが天と地ほども違う人生を織り成してゆくのです。  
 
 
誰でも何処でも何時でも変わって行けるのです何故ならばこの世は無常(常ならず)な世界なのですから…    
[五感官(眼耳鼻舌身)の要求に幾ら応えた処で.更なる刺激を求めてくるだけ…逆にそれを抑制していってやれば、波打つ湖面のごとき心も、次第に鏡面のごとく澄み渡り、何のために生きているのか映し出すのです…」       
実に単純な事柄でもあるのですが中には世の中そうは楽観的に物事は捕らえられないし出来はしないと仰る人もいるものですが、このシンプルな事柄を邪魔し阻むものが[妄想][妄想癖]なのです。人は本能の衝動(煩悩)に促され妄想を始めます。妄想は感情に従い暴走してゆきそれにより偏ったり間違ったり不善な見解を生じ主観を形成して行くからなのであり先ず妄想を始めたらそれに気付き止めてゆくようにして、その代わりに心を集中するように努めて自我意識の妄想を乗り越え、常ならざる無常な世界だという現実を理解して、思い通りにならなくて当たり前(無常なのだから)望み通りには物事は運ばなくて当たり前(無常なのだから)と、当たり前の現実に惑わされて苦や不満や怒りの中を生きる事なく、現実を前提条件として心(潜在意識)が真理を理解できれば平穏と歓びと快楽・快感と満足を奥深く味わえるでしょう。その為に日々、精神統一や瞑想や沈思などにより現実を直視し現実を理解し心(潜在意識)に理解させる訓練をしてゆくだけなのです。