洗脳と染脳

洗脳と染脳とは真逆な性質のもの

洗脳とは本来は、誤った見解・思想・観念などの邪見や無知による誤解や錯覚や心の汚れなどを洗い浄め、頭の中に積み上げごみ屋敷化した情報や知識や思い込みや既成概念や主観を廃棄、洗浄し、新たに正しい真理や有益な知識を積み重ねて行く事をいうのだが、一般社会ではマインドコントロールプロパガンダなど迷信や妄想や作為的な観念で偏った見解や知識などを植え付け、人々を盲目的追従へ陥らせ愚かな思想の支配下に誘導する事が「脳を洗う(洗脳)」として使われているが、これは洗脳ではなく明らかに「脳を染める(染脳)」なのであり、皆、子供の時分から何かしらの思想に染められていて、独裁国家では君主を神の如く崇めることを染脳教育され、社会では「所有」こそが幸せの道だと周りの世間やマスコミやコマーシャルなどで「染脳」され物欲思想や拝金思想に陥り、宗教団体(信仰集団)から「疑る事なく信じれば必ず幸せになれる」とそれと気付かせず盲目的な無思考状態へと「染脳」してゆき、中には神の名のもとに命じられる侭に大切な命さえも犠牲にしたりしている。                            それらは皆、人間が有する根深い自己防衛と自己保存という本能的な部分を刺激し人間がもつ弱さや怖れ無知や欲を翻弄し、人間の煩悩(貪欲・瞋恚・痴愚)に働きかけて植え付け刷り込んでゆくので、染まった色を正しい清い色に染め直すのが、実に至難なのであり、妄想された神や仏や力に依存することにより一時的には安楽や歓びなど安定感を得ることが出来るので染められ染脳され易く、除々に一時的な安定感を失い不信感が芽生えると尚更に信心してゆくことを染脳され深みに嵌ってゆき、それは作為ある者たちの価値観や意味により生きることであり、自らが具する真の生きる意味や価値感を喪失させ盲目的な人生を送る事に他ならない。   カルト教団や神や霊とか霊言とかに多くの真面目な人々でさえ騙され続けたり、教養ある人が俺々詐欺に騙されるのも、感情(貪瞋痴)に働きかけ、理性(客観的思考)を弱め喪失させるからに他ならない。因みに信仰とは偏った思想を植え付け染脳するものであり、宗教(むねとなる教え)である仏教とは愚かさを取り去り捨てて行くものである(アーサバー・汚れの滅)。                 心(潜在域)とは感情(貪欲・瞋恚・痴愚)による不善処には染まり易く、理性的な思考(客観的な善思考)には容易には染まっては行かないものなのである。何故ならば心(潜在域)とは感情(貪瞋痴)による思考が好きで、思考域において妄想を深め渇愛の衝動(所有欲)に主導され苦と不満(決して満たされない苦しみ)を生みだしてゆくのであり、思考域をいくら改良しようと頑張っても潜在域が貪瞋痴に染まっているならば刹那の瞬間には貪瞋痴の衝動を選択してしまうのである。  心とは、気(潜在域)の思考を、意(思考域)の思考はなぞっているのであり、又、意(思考域)の思考の反復と集中とにより、気(潜在域)の思考も変えてゆけるものなのである。                           「黒く染まった布に清き色を染めるは困難(決定邪見)、汚れた布に清き色を染めるには、先ず脱色(機魂と洗脳)を待ち,地色に戻して(解脱)行かなければ清き色には染まらない。」