如来降臨

楽と不楽を共に捨て
いと涼やかに依着(いちゃく)なし
全ての世界に勝てる雄者(おさ)
それを如来と我れは説く…


快と不快を共に捨て
人間界の縛を捨て 天界の縛をも乗り越えて
全ての縛から解き放たれし
それを如来と.我れは説く


■勝利への道
真の勝利への道を如来は説く…
如来とは、如実の道に乗じて、正覚を来成するが故に、如来という。 
(如来者乗如実道来成正覚故曰如来
真の勝利とは此れ即ちドゥッカ(苦)からの解脱であり、ドゥッカである輪廻転生からの解脱をも指し示す。
[幾百人の敵に勝つよりも、己自身に勝つ者こそ、真の勝利者である]
■束縛からの解放
思考と想念で造り上げている[自分]という幻想と、汎ゆる物事に対する判断.善悪.好嫌.優等劣などの価値基準.固定観念.既成概念など、自らを縛っている全ての束縛からの解放
■四種の束縛
①感覚による束縛(五欲)
五欲 眼耳鼻舌身が色声香味触に触れる刺激(感覚)への欲望に束縛される(意欲による)

五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)と意(心)が.六種の対象物[色(物質).声(聴覚).香(臭覚).味(味覚).触(触覚)]と[法(心処)]に対する欲望に束縛される
※生きるとは何かに依存する事と言え、依存しなければ生存は成立し得ないのであり…生きるとは.即ち束縛である…
他から独立して単独には存在できない.関係性の上に存在しているに過ぎない…
しかし五感覚器官(眼耳鼻舌身)に刺激を与え.その程良い刺激を意(心)に捉えさせる事が喜び.快感.幸せだと錯覚して.感覚器官に刺激を与える事に余念がなく、束縛され感覚器官の奴隷となっている…
②存在欲による束縛
生命には[生きていたい.生きてゆきたい]という根深い存在欲があります…
生きてゆく為には何かに依存しなければならないのですが、それは生きる為の便宜的な付随物(手段)に過ぎず、決して存在の目的ではないのですが、根深い存在欲は、無常な生きる為の依存に激しく執着させる依存症への束縛
※所有の次元の事物への執着(束縛)
(生きる為の便宜的な手段として存在する付随物としての価値を有すが目的物ではない)
金財.所有物.社会的地位.名誉.称号.身分.伴侶.家庭.権威.権利.承認.理解.権力.勢力.威力.健康.寿命.若さ.知識.情報…など
③見解.概念による束縛
生きてゆく為には見解や概念が必要です…
物事の良し悪しから安全危険.必要不必要.向き不向き…と、全ては見解や概念により判断して、それに従って生きています…更には人生観.世界観.社会観から.得体の知れない神仏や魂や怪しげな力(フォース)から.宇宙人の在不在まで、それぞれの持つ見解.概念.主観.嗜好により、皆んなが皆んな.自分は正しいと自分の見解や概念に強烈に束縛されているのです…
真理(真実.事実.現実.実相)は、なかなか表には現れて来ないものであり、現代社会では尚更だとも言え…真理を如実に見て知るのには物事の本質を私見を交えず、冷徹に集中してよく眺め観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.確証を得て理解出来る多少.厄介でもあるものなので、多くの人は社会に出回るプロパガンダや染脳的(洗脳的)な知識.情報や、偏ったり.誤ったりした仮説や憶測に過ぎないものを鵜呑みにし盲信したり束縛されたりするのです.
④無明(本質的無知)による束縛

一切の現象は無常であり、苦であり、無我であると、理解出来ず、理解しようともせず、生命は無明に支配されている…
(一切は瞬間.瞬間に現れては変化成長し消滅してゆく現象に他ならず、固定的実体は存在しない…)
無明…それは煩悩が造り出す欲望に束縛され奴隷状態で生きている事に他ならない…
※煩悩の欲望とは、永遠に存在していたい.永遠に生きていたいという存在欲が造り出す幻影に従った、永遠に存在する為に.プラスになると感じた物事へは、自分の元へと引き寄せたいと貪り、永遠に存在する為に.マイナスになると感じた物事へは、自分の元から遠ざけたいと怒り、永遠に存在する為に.プラスマイナス0ないし判別出来ないものへは不満や痴愚を生じさせる、貪瞋痴の三毒を栄養とする次元に依存し束縛されている事に他ならない…
★執着に束縛されない…とは…
放っておくこと…なり…ポクポク…
■参考   四念処
【サティパッターナ.スッタ大念処経】 

■解脱とは、如実知見を得て.この四種の執着への束縛から解放される事なのです。

★そこで昔から愚かな人達は言うのです…[それでは、世の為にも他人の為にもならない単なる自分の悟りとか解脱とかへの拘り.捉われでしかないものであると誹謗して、世界を救うとか.人々を救うとか.片隅を照らすとか観念的で空論に過ぎない能書き.戯れ言(プラパンチャ)を宣いながら、迷信的で無明な人々を、更に迷妄で無明の闇に包まれた得体の知れない神や仏への信仰世界へと誘うのです…
しかし全く違うのです…この世界、自分という存在、この世界な本質が[無常であり、無我であり、本質的には苦であり、空である]と理解できてこそ、真の自分の存在の価値とは、自分への捉われ.拘り.執着を離れた[世の中の為、他の生命の為、他の苦悩する人々の為]に生きる事こそ自己存在の意義と価値を見い出せるなですのではないでしょうか…
六道で言えば、自我へ捉われ.世の中を汚し.自分を省みず.他人を蔑ろにし.他の生命を不必要に殺め傷つけ害する心が地獄界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、我欲に拘り理解.評価.所有などを.もっと欲しいもっと欲しいと執着し満足する事を知らない心が餓鬼界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、人間性を喪失した倒錯した心が畜生界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、世界.社会.他人.他の生命と協調し和そうとしない心が修羅界へ輪廻させるエネルギーを蓄積してゆくのであり、他人への慈しみがあり又.自分への執着もあるプラスとマイナスのエネルギーが打ち消し合いながらも人間性を保っているエネルギー状態が人間界へ輪廻させるのであり、自分への捉われ拘り執着を離れ社会.他人.他の生命な為に役立ち.奉仕する心が.天界(安楽界)で休息し.その後に善い処(良い境遇)へと輪廻させるエネルギーを蓄積させるのです…
因みにお釈迦さまが何故、集い(サンガ)を造り教え導きはしたが、教団化するのを避けられ.亡くなられる直前まで.自らの食は自らの托鉢で賄われたのかと言えば、教団化すれば教団経営を主要な行となり、集客.集金が行となり、その為には真理を歪めてまで大衆迎合的に得体の知れない神仏や怪しげな力への信仰や脅し込みやらご利益という果報を謳わなければならなくなり、それによって自らを穢す事を厭われたからに他ならず、それは現在の各宗教.各宗派.各教団の教祖や経営者の有り様を眺めれば明瞭なのではなかろうか…
■如実知見 

束縛から解放されるには、物事を在りのままに観察し.分析し.思惟し.洞察し.検証し.理解してゆくことです。
そこには思惑.妄想.私見.判断などを一切はさまず、在りのままに[生きる]という事自体と、生きるという変化生滅を理解してゆく事です。
生きるという事が理解出来てくると、物事を正しく如実に見ること知ることが出来ます。
如実に知見するならば「一切の現象は、無常であり、無我であり、苦という本質のものであり、空なるものである」という真理を発見して解脱します…
[生きる]とは因果律(縁起)に従って紡がれた一時的に現れる瞬間瞬間の現象に過ぎず、そんな瞬間瞬間の現象を実存だと錯覚し、瞬間の現象に執着し.束縛され.それを最大原因として、輪廻転生という激流を流れ続けているのですから…
如来の徳は積み上がらじ…

如来はその徳を.衆生にと振り向けん…
如来の徳は授かりし衆生の功徳とならん…
一切万象 因果応報
一切万法 自業自得
衆生 心 浄めたもう
貧しき心を 浄めたもう
卑しき心を 浄めたもう
衆生 徳を積みたもう
衆生 無明を晴らしたもう
衆生 自我を離れたもう
衆生 軛(くびき)を解きたもう
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得


■天界(梵天界)  

意識は五集合要素(五蘊)を必要とする
天界(梵天界)では非物質的な精神性の集合要素を形成する…しかし六道輪廻を輪廻する 五集合要素(五蘊)を具えた存在   
■仏界

一源のエネルギー世界
高次元の集合要素を形成
彼岸(外世界
■六道世界
彼岸の淵(宇宙の外淵に形成される天界)輪廻
此岸の淵(宇宙の内淵に形成される迷界)輪廻
空中
地上
地下