多々方路傍石 語録ーNo.8

                         阿耨多羅三藐三菩
   自分を変え、世界を変える純粋仏教
           目覚め 乗り越え 解き放て
 
「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。」SP
一切の、輪廻し.連鎖し流れゆく、生きとし(生存への意志=心的エネルギー=心)をもち、生きるものたちは、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
   「 お互い様とお陰様 」
一切万象.自業自得.一切万法.因果応報

諸行無常なこの世界.人間いつも初体験
顕貴く如き感動.歓び.興奮.愉悦な出合い

死する宿業   生業(なりわい)にするは
業深く  激しき輪廻を  流れ逝くgogogo~! 
 
 路傍の如来.讃歌
道に迷い立ち尽した時.
苦しみに打ち拉がれた時
私は路傍の如来の御元に額ずく
人知を超えた如来の力で私は目覚め、乗り越える事ができる
人知を超えた如来の力で幾多の難渡海も進んでゆける
如来の微笑みの力で.今の自分を高めてゆける

如来の力で頂上に立てる
如来が支えてくれる時、私は強く居られる
如来の力で冬の荒海も渡ってゆける
如来の微笑みの力で.私は福徳に包まれる

生命を愉しむものに福楽は訪れ、
生命を愉しめぬものに不運は訪れ、
生命を惜しむものに災厄は訪れる。

      妄 迷
世の中はそれと気付く事なく妄迷に埋め尽くされている
無明に手探りで生きてる人間ならば、世の中は疑問と不思議で一杯の筈、しかし皆一様に理解していると錯覚しながら何も知らない。
巷に溢れる当てにならない知識や情報を鵜呑みにし、半端で偏り誤ったような先入観や通説に染脳(洗脳)され、思い込み.迷信.錯覚を信じ込み、虚妄に誑かされ、疑問を抱くこともなく、先に進む事が出来ない、何故ならば先へ進む為には疑問を無くす必要があるのだ。
過ぎ去った昨日や.未だ来ぬ明日に捉われ想いを巡らせてゴチャゴチャと妄想しながら生きている。今を生きると宣いながら今というこの一瞬の実存に踏み留まる事を知らない。
五感管(五根)の刺激で生じる現象に過ぎない感覚.感情に捉われ執着する価値もない無常な喜びや快感を漁り続ける事が幸福だと勘違いして沢山のドゥッカ(苦.迷い.悩み.心痛.怒り.不満.不安定.無常…)と.僅かなスカ(快楽.喜び.安定)の波間を漂い流れ.やがてはたと気付く時、悔いを残して次の何かへと流れ続ける。

独立自存して生は在らず、また独立自存して死もなく、生も死も万物の留まる事のない流転の一こまを切り取って固定化して捉えた錯覚に過ぎず、現象を存在と錯覚しているだけ物質エネルギー体が流転してゆき他の何かを形造ってゆく因果律(縁起)を観るは容易かれど、心的エネルギー(意思.性質.運動性)か流転してゆき他の何れかの生命を形造る因果律(縁起)を観るは見難し。生という実相もなく.死という実相もなく.変化生滅しながら流転してゆく途方もないエネルギーの流動こそ、この大宇宙の実相なのだから。
 
苦楽は、外界からもたらされたものの多寡には関係なく、自身の心の満足度.如何である。
心が貧しい者は.欲深く満たされる事なし。
心が豊かな者は.例え得られるものが少なかろうと.足るを知る

如来は嘆かれた。「宗教と信仰」という真逆な性質のものを分別できず、「所有と存在」との其々の次元的価値を自覚できず、「幸福や歓び」を宣いながら幸福や歓びを定義できず「妄想と現実」とを分別できず、剰え主観と客観とを識別できない、知識人という知識は在れども智慧のない者達に感化される大衆を。

      哲学と哲理
哲学とは何なのかと問うならば「その人が追求して得た独自の深い考え」と言う事であって決して哲理(真理.摂理)を語っているとは言い難い代物に過ぎない事後評価的なものであり諸行無常.諸法無我なこの世界に於いては単なる主観への拘り.捉われであり、唯心論にしても唯物論にしても妄想的な形而上学的観念に他ならない。
愚かな人達は.思議し得ない不思議に時めき.虚妄を渇望し.神秘主義に魅入られて.得体の知れない神や仏を持ち出して天地自然の法則を破戒する力を介在させ哲理(真理.摂理)を語っていると錯覚させ.人々を盲目的にさせ不毛なる思想の荒野へと誘う。
     
     言語の表現力
全体性とは因果律(縁起)に遵った全ての物事の相対的な相互依存関係性の連鎖の中に見い出せるものであって文言で正確に敷延してゆく事などできず、唯一、冷徹なる知性による深淵なる集中の中に顕現する叡智により透察し得るもの。
言語とは各論的な伝達手段であり、それは同時に全体性を分断化.断片化.破戒する性質のもので伝達能力に於いても限界があり誤認.誤解.未達を生じさせる、全体性を破戒.犠牲にした各論に於いての論理的帰結能力に惑わされ.それがまるで真理(真実.事実.現実.実相)を言い現わし語っていると錯覚させるが、全体性に立ち戻れば.単なるヴィカルパ(妄想的)なプラパンチャ(戯れ言.浅薄.能書き.形而上学的観念)に過ぎない事に気付かされる。洞察力が劣る無思考な者達は、この言語により高尚に表現された単なる推測や空理空論に誑かされている。

   「朝が来ない夜はない」
諸行無常なこの世界は、沈んだ日も朝にはまた昇ってくる[空あれば楽あり]な世界だが、[朝の来ない夜はない]とは真意は異なるのであり今生に言えば災害や災難など被らなければ夜.眠りに就いて朝に目覚める事なく.朝が来ない事を[死]と呼ぶ。朝が来ない夜が有る事を自覚して今という限られた瞬間を有意義に生きるべきであり.無明な者は策謀ある者に染められて刹那的.享楽的.楽観的.盲目的に生を費やし悔いを残して旅立つ事となる。
それでも[朝が来ない夜はない]のであり、その朝が因果律(縁起)に遵った輪廻の継続性(連鎖性)により快晴か雨天か曇天か、はたまた地獄か極楽か、微生物か人間か、此岸か彼岸に目覚めるのかは、一因に縁らず一法に立せず.然れども明々暦々.一因一法を晦まさず.転生すべき処に朝を迎えるのである。
理法(プロビデンス)は冷徹厳峻なり。
大宇宙から眺むれば微生物の如き身で霊能者.超越者.神仏の使徒を騙る者達や宗教家などが凡そ極悪人より下位の地獄に赴き微生物からやり直すのは業(カルマ)深き由縁かな。
その境涯を透視しては涙する。
如来憐れみ.辻に立つ
「朝に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなし。
 朝に生きたれば 夕べに死すとも悔いなし。」
 
       新興宗教
煩悩の欲望に添うものを.愚か者は求めて止まず、ドゥッカ(苦悩.心痛.不安定さ.迷い…)にやられ.理性(知性)を信じ切れない者は得体の知れないものや怪しげな力でも縋り付く。
愚かな者は思い通りに成らない世界で.欲望に焼き尽くされ傷ついた心の.意に添う甘く香しい妄想世界を渇愛し.無明な心を晴らし進化する道を外れて.人を盲目的にさせる不毛な道を
選択して酔生夢死してゆく者は.輪廻の激流に翻弄されてゆくドゥッカ(生存苦.無常.空性…)の連鎖を知らず
如来は憐れみ辻に立つ
       慚 愧
「悪口を言い.また悪意を起こして聖者を毀る者は、膨大な年数の間.地獄に赴く事となる」「聖者の流れに入りもはや畜生として生まれる事がない.苦しみの再生の因縁(迷いの生存)は終滅する」と経典に説かれる。
生涯がたった1分程度の生き物がいれば、500年くらい生きる動物がいて人間は精々が120年位らしい、細胞の分裂限界だとか心拍数だとか言われるが、生物とは一つの器(色.物質.身体)に生じる電気的.化学的な働きに心的次元が形成されたものであり、一つの器に形成された生体次元の生体振動数は一定なのである。微生物から人類に至るまでは平均で一億回の流転を繰り返すものだが、心貧しく.心賤しいものが再び人類に辿り着くは果てしなく永く険しい。

       知 足 
「テレビやネットに煽られて 欲深く.足るを知らない愚か者 恨み辛みを携えて」
「真の満足を齎すものは足るを知る心だけ」
足るを知るものは.所有の次元の事物への執着を乗り越え離れ.自ずと無一物へと向かう。
智慧の悟りは.悦楽の中に顕現する。
「我慢は身の毒、足るを知れ」
忍耐は自分を磨くが.我慢は不満を溜め込ませ何処かで反跳(リバウンド)を招くもの.真の満足.喜び.悦楽.幸せをもたらすものは[足るを知る]心だけ。

     自燈明と法燈明
仏教を行してると思い込んでいる人は多いが仏教が理解出来る人はすくない。
信仰.信心.盲信を持つ人は多いが、自ら確かめる人は少ない。
釈迦尊(ブッダ)の権威を崇める人は多いが、教えをリスペクト(尊敬)する人は少ない。
無記の最上経典.自燈明経典.法燈明経典を知る人は多いが、理解する人は少ない。
無記の最上経典.自燈明経典.法燈明経典を軽んじる人は多いが、冷徹厳峻なる理法に准じる人は少ない。
仏教経典は多いが、真実を語る経典は少ない
自らに具された知性.感知.識別.理解力に依り自ら眺め.観察し.分析し思考し.検証し.確証が得られたものを信じる事が自燈明であり、確証が得られた真理(ダンマ-真実.事実.現実.実相)を語る法(法則.経典)を依り処(燈明)とし安定を得る道を説くのか仏教であり、偏ったり間違った法(法則.経典)や得体の知れない神仏や怪しげな力を依り処(燈明)とした不安定で無明な盲目的な生き方から.目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、真の自由による甘露を味わう教えであり、それは同時に条件(縁起)により変化生滅する不安定な依り処からの解放なのである。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
誰であれ自分を啓発し.克己し.妄迷な物事に捉われる事なく真理(真実.現実.事実.実相)を実現してゆく事が覚醒.超越.捨離.解放.自由への道である「現代人 頭の中はゴミ屋敷 要らぬ知識を詰め込んで 生きる知識が埋もれて」
「君子 基地外に近寄らず」

        予言者
最近 地震予知情報が飛び交い 尻馬に乗って如何わしい預言者なる輩がかまびかしいが、地震列島日本 いつ来ても可笑しくない
来るぞ!来るぞ!と言ってれば何時かは当たるに決まってる 的中率100%の預言者の不的中率はなんと10000%なのだから
誰にでも何かしら当て嵌まる曖昧な暗示と、無責任で恥を知らない性悪な予言者などに振り廻されてはいけません。
備えあれば憂いなしでは有るけれど。
インチキ霊能者や予言者の見分け方→全員がインチキです。笑

彼を知り己を知るは百戦危うからず
言葉は知れども意味を知らず、意味は知れども真髄を知らず、
真髄を知れども智慧を知らず、智慧を知れども用法を知らず、
用法を知れども実践を知らず、実践を知れども時を知らず、
用いる術(すべ)に用いられ、型にはまりて自由を知らず、
至宝の教えも無益な能書き.戯れ言(プラパンチャ)と化す
百戦百勝は善の善なるに非ざるなり、
戦わずして己れの愚を屈するは善の善なる者なり

世の中は思い通りにならねども、
因果律(縁起)に遵いて.成るようになるもの
意志と信念と智慧と努力を以って、前向きに生きれば道は必ず拓けるもの、折角の人生愉しく創り出そう、鶏頭となるも牛後となるなかれ
      
       安 寧
決して満たされる事のない煩悩(存在欲)の要求に捉われず.愚かな物事.下らない物事.どうでもいい物事.つまらない物事に捉われなくなって初めて安寧は訪れる。
煩悩(存在欲)に翻弄され.愚かな物事.下らない物事.どうでもいい物事.つまらないもの物事に捉われている者達には堅固な満足も安寧も得ることは出来ない

       オマケ
グリコアーモンドキャラメルは食べる為にあるのであり、食玩で遊ぶのは単なるオマケ
目は危険を避ける為にあるのであり、可愛い姉ちゃんを眺めるのは単なるオマケ
耳は危険を聞き分ける為にあるのであり、名曲を聴いて涙するのは単なるオマケ
鼻は危険を嗅ぎ分ける為にあるのであり、芳しい香りを愉しむのは単なるオマケ
舌は危険を味見する為にあるのであり、味覚を堪能するのは単なるオマケ
触覚は危険を感知する為にあるのであり、感触に打ち震えるのは単なるオマケ
意識は危険を識別する為にあるのであり、あれこれ思索を巡らせるのは単なるオマケ
肉食動物の目が前に在るのは獲物を捕らえる為であり、愛嬌があるのは単なるオマケ
草食動物の目が横にあるのは逃げる為のものであり、愛らしいのは単なるオマケ
知識は危険を避ける為にあるのであり、他人に披露してイイネ!をせがむのは単なるオマケ
 

       凋 落 
近年の日本の凋落は必然なこと、
戦後、猿真似と揶揄されながらもアメリカを真似、技術を学び手先の器用さで築いた繁栄も、自らに自惚れて慢心して硬直化している間に日本を真似、日本に学んだ周辺諸国が肩越しに追い付き追い越していっただけの事。

       👾宇宙人👽
巷に溢れるUFOや宇宙人話には懐疑的な否定派の一人であるが.この大宇宙には数千億の銀河と数兆個の恒星(太陽)と数百兆個の惑星と数千兆個の衛星があるのだから人類以外にも発達した科学を有する高等生物が存在してるだろうとは考えている。しかし人類の今の科学力で隣の恒星(約四光年)まで人を送るのに一万年位かかるらしいのだからこの大宇宙の壮大な距離をこなして地球までやって来る事は至難だろう。しかし私も宇宙人を渇望する一人であるのは.人類とは敵や大いなる脅威が出現しなければ真に団結する事など出来ない.自分の立場に固執した自我の優越.安心.快感の為に妄想的に差別し.区別し.争い続ける愚かな存在であり、人類という共通認識を育成する努力もなく能天気な偽善者が宣う全世界的な自由.平等.平和.博愛.共存など幻想に過ぎない儚い言葉に酔っている、全世界的な団結.平和.博愛.共存の達成には宇宙人の来訪は是非にも欠かせないのではなかろうか...笑、Welcome ET!

                   君よ 豊かな者であれ
仏教では金持ちだから.財産家だから.権威ある人だから.地位ある人だから.権力ある人だから.学識ある人だからと言って決して豊かな人だとは観ない、夢幻の如き無常なる便宜的な客体は何処までいっても真実は映さない所有の次元の投影に過ぎず、真の幸せ.歓び.安心.安全.静逸.満足を補完する事物とも見做さない。何が在ろうが無かろうが.心.貧しくなるなかれ.心豊かな人となれ。何を持とうが持たざるが.心.貧しくなるなかれ.心.豊かな人となれ。これぞ人が堅固なる幸せ.歓び.安心.安全.静逸.満足を得る最上の宝なり。

他人は立てるものであり.貶すものではなく
他人は上げるものであり.降ろすものはでなく
他人は認めるものであり.認めさせるものでなく
他人は慈しむものであり.憎み恨むものではない
これこそか自らの幸福の道なのだから
   
   実るほど頭を垂れる稲穂かな
稲の穂は実るほど穂先が低く下がるものだという有名な言葉ですが、人も品格.品質.器量.境地.精神性などが高まり.磨かれ.深まり.育成されるに従って謙虚さ.礼儀.状況判断.思い遣りなどが具わり、自然と丸くなってゆくもの
しかし幸せへの便宜的な付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物(金.財.物.地位.名誉.称号.権威.権力.世評.承認.認知...)が自分の存在的価値基準であり生きる目的だと錯覚する者はものは煩悩の渇望に翻弄され執着し満たされる事を知らず(上には上がある)折角の人生を費やし逝きて実りなく、この世に悔いと未練を残す。それらが条件(縁起)により生起し条件(縁起)により消滅する無常な性質のものである事を識らず、この渇望により下層からの輪廻が定められる。

      監視社会
世の中は監視社会という窮屈な社会に成りつつあるが此れも必然とぞ感じる
今や無宗教時代とも言え、神仏への願い事は多々するが神仏から監視されてる意識など喪失し、軛が外れ自分勝手な欲望や犯罪は露見しなければ勝ちであるが如く考える愚か者が
主流をなしている。神仏は妄想なれど人には善処良心は宿る筈、しかし監視の目が届かなければ仏心も悪魔に魅入られ易い.脆く儚い存在.それが自分に甘える人間の弱さなのだから

     弁 え(わきまえ)
[顕現]とは、自覚が現れる事
自覚と不覚
自己認識.自己反省.自己意識(反自我意識)
⚫自分の置かれている位置.状態.価値.能力などに明確に気付く。
⭕所有の次元に於ける位置.状態.価値.能力
⭕存在の次元に於ける位置.状態.価値.能力
⚫自分を知り.弁える事とその弁まえ。
身の丈.身の分.身の程を知り、弁まえる。
付随物(手段)に過ぎない存在の次元の事物への執着が、諸悪と苦しみ(ドゥッカ)の根源
三覚(三つの覚醒)三菩提
①対象を明確に感知する、心処
②妄想を断じ妄念を離れている状態
③涅槃(ニルヴァーナ)の理を覚った上での智慧と叡智 
[弁え]とは、物事の真偽.善悪.主従.浄不浄.正誤.道理.礼儀.立場.場所柄.状況の判断とその対処。
所有の次元の輝きは付随なる着飾りし所有物の短命な輝きを自らの輝きと錯覚させる。
存在の次元の輝きは脱ぎ去り.捨て離れた素地なる自らの輝き。
凡俗は真の輝きは見難く、見易い所有の次元の儚い輝きに目を眩ませている。
○真に必要なものは.知識でも情報でも声望でも権威でもなく実現である。
仏道は彼岸に渡る筏であり、着飾りし大きな船に乗っても実践(出航)せねば彼岸は遠し
 
      ■祈 り
今更どう仕様もない物事を
受け入れる心の平穏が現れますように
 
まだ変える事が出来る物事を
変えてゆく勇気が現れますように
 
そして変えられる物事と出来ない物事を見分ける賢さが現れますように
        
        退 廃
我が日本は決して仏教国ではないが、日本を始め仏教国といわれるタイ.ミャンマー.スリランカの仏教の退廃ぶりには目を背けるほどである。
タイの守銭奴集金仏教は今に始まった事でもないがミャンマーロヒンギャ問題やスリランカの仏教過激派なるものが存在する事など他宗も敬う事を説く釈迦尊(ブッダ)の教えを蔑ろにするものに他ならず仏教が国教ならばこそ他宗を敬い.他宗を労り.他宗を保護してゆくべきであり、それが如来の教えであり。暗愚なものが上にふんぞり教団経営に忙しく教えや教義を矮小に捉え他宗への攻撃を先導し他宗への暴力を看過し他宗への保護を放棄するならば、最早それは仏教ではなく.僧(比丘.沙門.バラモン)とも呼べない、僧業者に過ぎないのである

人生万事 ひとくふう(一功夫)
人生万事 ひとひねり(一捻り)
今や無くてはならぬスマートフォン.何の発明も改良もなく.相違と功夫で既存部品を組み立てただけの大発明。
別に奇をてらう事が良いわけではないが、他人と同じように考え、他人と同じように行ない、他人と同じように生きていては革新.斬新.進歩を生みだせる筈もなく、大衆に埋もれてしまうだけ。
人の行く 裏の道ゆき 花の山...と言うではないか。
自己解放
汚れ、不浄とは執着.愛着なり...
執着.愛着から自己解放される事こそが浄化である。
自己解放は、人が自ら真理(真実)を実現する事によって得られるものであり、神や仏あるいは外的な力から従順な善い行ないや信仰心に対する報いとして与えられるものではない。
汚れと無明(無知)の消滅は物事を知り、物事が見える人にとってのみ可能なことであり、物事を知らず、物事が見えない人には不可能なのである。大切なのは信じる事ではなく、知る事、見る事であり、明確に理解し定理.定義する事である。如来は道を示すだけ。

      顕貴(ときめき)
一瞬一瞬.新しい身体、新しい心、新しい世界で在るがままの真理の顕貴(ときめく)中道(情緒と論理)を奥深く味わう
       
       不易流行
芸術ならいざ知らず、この世界の真理について説く仏教も時代に合わせて変わるべきだなどと捉える浅薄な者には泣かされる。
この世界の開闢から終滅まで唯一変わらぬ無為なるものが天地自然の法則(真理)であり無明な者が新たに真理を発見するとは邪見を捨てて釈迦尊(ブッダ)が説かれた仏教を理解する事と同義であると言え、ころころ変わるものは始めから真理などは語って居らず、真理と宣い騙っているだけである。

     聖者は孤独なもの
精舎を寄進され、教団化した集団の中に居られ多くの人と居られても釈迦尊(ブッダ)も孤独で在られただろう。善き釈迦尊(ブッダ)の奥深さと教えの一番の理解者でも在られた舎利子(シャリプトラ)が存命の時はまだしも、舎利仏(シャリプトラ)が早世された後に一番弟子を自認した摩訶迦葉(マハカッサバ)を始め教団の繁栄や経営に忙しい弟子達には釈迦尊(ブッダ)を本当に理解できたかは疑問であり、釈迦尊(ブッダ)から眺めて見ても弟子以上にも以下にも見えなかっただろう。故に釈迦尊(ブッダ)は教団を眺めては[聖者は孤独なもの]と考え孤独を愉しんで居られた事だろう。
自我の妄想の中に住む多くの人々は妄想世界では自分が王様.絶対神であり、その王様.絶対神は上からの物言いに聞こえる話や、自分が否定されるような話を素直に受け入れる事が出来ないものなのだから、話や説法も自分に合わせようとせず他人に合わせ、他人を否定せず受け入れる自分は当然に孤独になるもの、そんな孤独を楽しむのが聖者なのだろう。

世の人が信じて疑わない思い込みに一句
「解脱まで修行を積むのが仏僧なれど
   悟りしと錯覚.妄想 甚だし
     山を下りれば ただの豚
      似非の坊主は 寺に居る」
      如来品正師 多々方路傍石
      
     出る杭は打たれる
出る杭は打たれる、平安に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 安楽に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 静逸に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 幸福に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 程々に生きてる今がいい
 
      仏道とは
仏道を習うとは.自己を習う事なりて、
自己を習うとは.自分を脱落忘れる事なり。
仏道を習うとは知識や見識を深めるに非ずして
知識見識という色眼鏡を捨て去り離れる事なり仏道を修めるとは妄想を断じ真理に遵う事なり
真理に遵うとは現象.現実.事実.実相を受け入れ理解すら事なりて、能書き.世迷言.戯れ事(プラパンチャ)を慎む事である。
条件(縁起)により生滅する物事の無常を識りて
条件(縁起)に生滅する物事への執着から解き放たれ(解放).捨て去りて離れ(捨離)自由なる叡智により真理を依り処とする平安.安楽.静逸.歓喜堅固なるこよなき幸せへ到達する道である
全てが因果律(縁起)に遵った悠久なる流れなるを大悟すべし

自我への執着(我執)はドゥッカ(苦悩)を流れる
自我意識とは妄想に過ぎす、五つの要素が結合(五蘊)して意識を生じる時、自分という意識を妄想.錯覚させる、自分とは現象に過ぎず何処にも固定的.自存的.実相的.永続的な自分など存在しないにも関わらず、自我意識の思惑.意図.目論見.目算.見込み.期待などに執着して、そうそう物事は思い通りには運ばない諸行無常(常ならざる)の世の中では苦(ドゥッカ)や不満や怒りの中を流れてゆく事となるは必定であり、自我の執着を捨て去りて離れて自我を脱落させた無我(無私)な心で、全てを受け入れ物事を分別.分断化せずに在るがまま成るがままに流れゆく時、世界は審美を現わし.躍動を現わし.不思議を現わし.真理を現わす。世界は心の投影である。

    記憶なんて頼りないもの
分断化された記憶なんかに頼っていては、いざという時には役立てる事が出来ないもので、整理統合して、身に具え智慧にして初めて心は理解するもの。
記憶なんて実に頼りないもので耳で聴いてせいぜい10%位、眼で読んでせいぜい20%位、口ずさんでせいぜい30%位、繰り返し見て聴いて口ずさんで必死に暗記して漸く記録出来るもの。
若い時ならいざ知らず、そんな記録も時間に伴ない失われてゆくもの。断片的な記憶を繋ぎ合わせて歪な記憶を捏造してゆく

        横綱は幕下の土俵には上がらない
下らない者や物事、つまらない者や物事、どうでもいい者や物事、愚かな者や物事などに、馴染まず.捉われず.拘らず.執着せず.心乱される事なく.振り回されず.相手にもせず.歯牙にも掛けず.考えもせず.低レベルの土俵にも上がらず。
 
       四苦八苦
生存苦.老いの苦.病いの苦.死の苦.求不得苦(求めても得られない苦).愛別離苦(愛する者と別離の苦).怨憎会苦(嫌な人と出会ってしまう苦).五蘊盛苦(心身が思い通りにならない苦.五蘊作用により造りだされる妄想苦)
✍常ならざる無常な世界である事を真に理解し受け入れ、全ては両極より成り立つを覚り覚醒し、片極を分断して捉えたり拘ったり執着する愚かさを乗り越え超越し、自我の妄想から生じる苦(ドゥッカ)から解き放たれ解放され、自由で平安で静逸で歓喜と悦楽な堅固で安定的なこよなき幸せへ到達する。

       気 紛 れ
凡俗の生きるとは、唯、気を紛らわそうと彼是
外界を彷徨い歩いている
気を紛らわすとは、今、不安定だから安定したいと、今が不満だから満足を得たいと、不満と不安的の中を幸せと喜びの感覚を求めている事に他ならず、現象に過ぎない感覚は気紛れだから、直ぐに飽きてまたぞろ気を紛らわそうと五感官を駆使して外界を暴れ馬のように彷徨う。
心が満ち足り、安定した心は気を紛らわそう五感官を外界へ向ける事なし

    刹那に生きず杞憂に生きず
世の中、心配性の人と言うのは案外多いもので社会不安が喧伝されたりすると居ても立っても居られないらしい。
金の心配をし、家族を心配し、事故災害を心配し、人からどう観られてるか心配し、着る物を心配し、心配事が思い浮かばない事を心配し、汎ゆる物事を杞憂し、凡そ心配の中を生きている
人事を尽くして天命を待つとは、凡そ自分の出来る手立てなど高が知れて居るを知り、分を超えて備えようと欲すし杞憂に奔る愚かさを諌める言葉でもあり、人間の能力とは元来、不安定で不完全で未熟な存在でしかなく物事が自分の思い通りに何時も運ぶとは限らないものを自分に拘り執着して物事を自己中心的に自分勝手に捉えれば世の中は不満だらけの中を生きる事となるように、今が良ければそれでいいと刹那的に生きたり、かと言って心配ばかりが先に立って今を疎かにするのも愚かしく、身の分.身の丈.身の程を知って出来る事を成し、結果を真摯に受け入れてゆくだけであり、刹那にニ境ありて刹那享楽に生きるとは明日まだ在ると思い感覚的に生きるさま、刹那冷徹峻厳に生きるなれば当ら無駄には生きられぬ、刹那享楽に生きず杞憂に生きず、在るがままに在るがままの生を受け入れて甘露に味わいゆく。

    凡骨砕身(ポンコツさいしん)
凡骨(ポンコツ)が、凡骨(ポンコツ)なるを覚るは賢者なりて 凡骨(ポンコツ)なるを識らぬ小賢しい凡骨(ポンコツ)こそ暗愚なり
凡骨(ポンコツ)は、下らない物事.どうでも良い物事.詰まらない物事に拘り.捉われ.執着してるこれを粉骨砕身ならぬ凡骨砕身(ポンコツさいしん)とぞ言わん
木魚応えて鳴らん ポン!ポン!ポン!ポン! コツ!コツ!コツ!コツ!
      
      因果律(縁起)
修行僧は 因果律(縁起)を見極める
釈迦尊(ブッダ)が托鉢を欠かさざるも故にあり
条件(縁起)により生起するものは条件(縁起)により消滅する性質のものに過ぎず、条件(縁起)により生じている幸せ.歓び.満足.悦楽.平安.静逸.安定は有為無常なり、苦(ドゥッカ)の一時の仮体に過ぎす執着し.見誤り.錯覚し.妄想すれば苦(ドゥッカ)は何れその姿を現わす。 
条件(縁起)により生起する類いを捨て去り離れ無一物にて顕現するものこそ偽りなき真価なり真の姿を見定めて条件(縁起)による生起.変化.消滅のない堅固なる幸せ.歓び.満足.悦楽.平安.静逸.安定を得ん。
暗愚.観念.錯覚.浅薄な闇を晴らして、戯れ事(プラパンチャ).綺麗事.能書き垂れて酔生夢死する無明な者とは成らんが為なり

人間皆んな路傍石 磨けば輝く珠なれど 珠.磨かざれば輝りなし
磨く事を怠りて 色付け着飾り装飾で輝いてると錯覚する石ばかり
水に漬かり、塵に塗れ、装飾古び、石ころのままの己れに気付く

幸せは 己れ自身の心掛け
自分が自分がの我で生きず、お陰お影のげで生きろ

    考える事と知る事とは別物
知及せるもの.またくあらず(道元禅師)
百聞は一見に如かず
戯れ事(プラパンチャ).能書き.綺麗事.世迷言を宣い実行の伴わない者とは、本当は真実を全く知らぬ者なり、観念が実践を包摂できぬが如し

       意 欲
人の心は喜び.快感.快楽を求めて彷徨う。
何事に依らず喜び.快感.快楽を見い出せない物事は苦痛となり、負担量が少ない内は気付かないが、やがて負担量が増し負担と感じた瞬間から苦痛から逃れようと藻掻きながらドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.心痛.哀しみ.迷い.悔み.儚さ.脆さ.弱さ.空虚さ.惨めさ.実質のなさ.無常.不満.無明.欲)を深めて行く
自らが自らの主であり、人は自らを制御し.克己し.励まし.努力する必要がある。
意欲も欲なり。

     捨離は涅槃に通ずる
条件により生起する性質のものは、条件により消滅する性質のもの(現象)
堅固な無為な生起であるのか現象的なものに過ぎないのかを見定める辻立ちでもある
釈迦尊(ブッダ)が説かれた核心は縁起と空であり、あたりまえな事だと宣う厚顔無恥な輩こそ釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解できない者であり、三法印も四聖諦も縁起(因果律)も苦の教えも無明な感覚主義から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、捨て離れ捨離し、解き放ち、自解放し、自由で平安で静逸な安楽な幸福を得る為の方便(手段.アイテム.方法.材料.道標.知識)に過ぎず、釈迦尊(ブッダ)の教えの核心.目的は堅固なこよなき幸せへの道であり、不満や渇望に冒されながら、また条件により生起しているだけに過ぎない満足や幸せを以て、観念論を積み上げ.能書き戯れ言(プラパンチャ)や綺麗事を垂れ.縋りつく対象として得体の知れない神仏や力を持ち出しても、真に人を救う事など出来ない事を痛感され、探求し実践し検証し発見され到達された真の堅固なこよなき幸せを得る道を説く教えこそ真正な仏教である。

         苦を知らぬ者
もし苦(ドゥッカ)というものを知らぬ者が居たとしたら、彼こそが一番の実不幸な人である
苦は楽の種であり楽は苦の種であり、苦を前提に楽があり、楽を前提に苦があるのだから。
苦を知らぬ者には楽もなく、苦楽があってこその生命なのである。
          
         空と言う神への信仰
釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教により得体の知れない神仏や霊力を否定された、バラモン教を核としチベット仏教に機縁する大乗という信仰宗教が妄想した新たな神仏こそ無常の理法.空性から阿弥陀した「空」という諸仏を隠れ蓑にした此の世界を差配する空という得体の知れない神仏への信仰こそ.その本質であり、故に言語の虚妄性(プラパンチャ)を説きながら観念的な言葉の戯れ言(各論.道程.パーツ.アイテムに過ぎないもの)に終始し捉われ拘り目的地(涅槃.ニルバーナ)へ到達する事が出来ないのである。
  SP-318
今未だに事柄を理解せず嫉妬心のある下らない者(愚者)に親しみ司えるならば真理(理法)を弁え知ることなく疑いを超えずに死に至る。
それ故に実に聡明にして学識の深い立派した人に親しめ、物事を識って実践しつつ真理を理解した人は安楽を得るだろう。
       SP-208
既に生じた煩悩の芽を断ち切って新たに植える事なく、現に生ずる煩悩を長じめる事が無いならば、この独り歩む者を聖者(如来)と名付ける。muni
かの大聖者が絶対なる平安の境地を見た如く
  SP-327
真理を楽しみ.真理を歓び.真理に安住し.真理の定めを知り.真理を害なう言葉を口にせず.真理に基づいて話せ、物事と真理と自制と清らかな行ないとを心に憶い、且つ実行せよ
  
   如来品正師 多々方路傍石.語録
 
もし輪廻など方便だよと軽んじて享楽的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて観念的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて刹那的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて欲望利得に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて自我に拘り生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて煩悩次第で生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて酔生夢死に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて恥を知らずに生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて感覚的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて情知らずに生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて主観的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて成仏の免罪符を贖う者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと節操もなく能書き垂れて生きる者こそ輪廻する
輪廻の因果は冷徹峻厳、ブツはブツでも微生物からやり直し
もし輪廻が無いならば心の浄化も解脱も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良いもし輪廻が無いならばカルマも汚穢も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば心の陰善も陰徳も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば心を高め磨く事も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば悟りも解脱も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば利他も慈悲も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
この輪廻してゆく究極の生存苦からの解放こそが仏の指し示す道、もし輪廻が無いならば仏の教えも人生相談.処世術.はたまた無明な信仰に如かず
天国.極楽価格付け成仏の免罪符、自我に塗れて自利の暮らしを追い求め、輪廻の激流思い知る 
成仏 DP(法句経.ダンマパタ)
葬儀によっては何ら死者の救いは得られない。
葬儀により成仏するのではなく、その人の徳性によって天上に赴くのである。(葬儀は世俗の儀式)
例え山野で朽ち果てようが災害に見舞われようが身を慎み他を慈しみ功徳を積み清めるものに天上の門は開かれる
全ての生きとし生きるものたちは平安であれ.幸せであれ.安楽であれ.
 
悟り(大悟)は悦楽から生まれる
悟りの前には悦楽が在り、悦楽の前には自分を探し自分を発見する必要があり、自分の愚かさ弱さに気付き受け入れる強さを必要とする。
最高の悟り(大悟)は先ず自分という存在、そして自分と時空との関係を識る処から始まる。
有為なるこの世界の本質、無為なるこの世界の天地自然の摂理(マクロの力学.ミクロの量子力学.物理法則)を洞察し悟りの智慧(叡智)へ到る道程こそ修行である
知性はあるが智慧のない「私」などという存在に理解出来る筈のない有難き生命の無限な働き(輪廻転生を含む)に感謝して「朝(あした)に道を聞かば
夕べに死すとも悔いなく、朝(あした)に生きたれば 夕べに死すとも悔いなく生きる」
 
●辻立ち 即 説法
 辻立ち.即.慈悲
 辻立ち.即.利他
 辻立ち.即.菩提
 辻立ち.即.涅槃
輝ける磨かれし珠なれど、識って語らず、路傍の石の如く、辻に立つ
一切万象自業自得 一切万法因果応報
心.無明な者達を、心.貧しき者達を、
心.卑しき者達を、心.渇きし者達を、
如来 憐れみ 辻に立つ
如来は道を示すだけ
自らを真に救うのは自分自身の心掛け
自己の依り処は自己のみなり他に如何なる依り処があろうか
自己を善く調御せられたる時、人は実に得難き依り処を得る dp-160
下劣の法に従うべからず
放逸に住すべからず
邪見に従うべからず
能書きに惑わされるべからず
世俗の徒となるべからず dp-167
無常なる世界で、無情なる人々の中で
無条件なる歓びに包まれて、
無上なる正等覚を得ん
阿耨多羅三藐三菩

如来品正師.多々方路傍石.語録
適時に用いられない記憶を情報と言い適時に用いられる記憶を知識と言い、適処に用いられた記憶を智慧と言う也
情報あれど知識なく知識はあれど智慧がなし者はドゥッカを生ず
我らは悦楽に生きよう
不満だらけの世の中で不満を持たず
自我に病んだ社会で病むことなく
貪欲なる世界で離欲恬淡に
我らは悦楽に生きよう
物事に心を乱されず
精神の悦楽を活力として
光音天の神々の如く
我らは平らかに静逸に生きよう

動物愛護法という法律 NIMBYネスな現代社
動物の愛護及び管理に関する法律」というこの崇高な理念に基づいた法律は法治国家.先進国家としての我が国の誇りとするものでもあり、少しずつだが啓蒙も進み、世の中に浸透して来ているようで東京都でも愛護動物の殺処分ゼロへと向かっているようで非常に喜ばしい事だが反面、一部の人間の驕りや思い違い.間違った解釈.浅薄な理解.手前勝手な都合などにより動物愛護の精神が蔑ろにされている事は否めない事実である。
何故に動物愛護法が制定されたのかを考えて見るならば愛玩動物(ペット)の飼い方や動物飼育関係者や関連業者の在り方への指針を示す為ばかりではなく社会が整備されてゆくに従って自然環境やそこで暮らす愛護すべき動物達に対する配慮を欠き共生している同じ生き物を排除してゆくような情操と精神性を喪失させた社会としないよう伴に共生する自然環境と愛護すべき動物達の保護と愛護を謳うのであり、人間は自分たちの都合ばかりを優先して共生している動物達への配慮.理解.尊重を忘れがちになるのを戒めるものであり、同じ生き物として排除や虐待や殺傷する事のないようにするのみでなく人間と動物が共に共生していける社会を目指し、適正な関係性を定めた法律であり、そこには保護としてTNRの精神(※注1)に基づき第2条に於いて社会で適切なる保護.愛護(給餌.給水を含む)しなければならず、第44条に於いて虐待の防止とともに社会に於ける適切な保護活動を妨害したり非難したりする虐待と言う犯罪行為を助長したり強制する事を禁じTNRの精神に基づき適切に保護.愛護してゆく事こそが社会的コンセンサスであるにも関わらず自分の事しか考えない手前勝手な論理で「餌やり」は犯罪だと主観的に錯覚し生命尊重.共生.友愛.平和.情操の涵養(かんよう)の精神が踏みにじられ喪失する事により自分の幸せの為に他の共生する生き物に対する排除の論理へ陥る事への反省と戒めの為の法律でもあるのです
※注1 
TNR trap      捕獲
    neuter  避妊.去勢
    return   元の場所に戻す
 
心の浄化

世の中の一つの流行りに断捨離が有ったが、無明(本質的無知)なままに勢いで物事を捨てても後に残るのは後悔だけだったのだろうか何時しか影を潜めた観さえある。
しかし所有の次元の事物に捉われ拘り執着し貪る空しさ.苦しさ.哀しさ.儚さ.愚かさに多少なりとも気付く事が出来たのは真の生きる目的を見失い利得を追う事を前提条件として成立する物質文明と資本主義社会に翻弄される無常さを肌で感じたからに他ならないだろう。
仏教では心の浄化を説くがこれを浅薄に理解すれば自利に傾く心を利他へと向ける心の浄化となる善行だと捉えるが、それは金財の利得にばかり囚われる人にとっての心の浄化であり、物に囚われる人にとっての心の浄化が断捨離であり、地位や名誉に拘り囚われる人にとっての心の浄化は地位や名誉の返上であり、権力.勢力に拘り囚われる人にとっての心の浄化は整理縮小であり、愛欲に囚われる人にとっての心の浄化は清算であり、理解.承認.評価に拘り囚われる人にとっての心の浄化は自覚する事であり、戦場で百万の敵を打ち破るより己自身を制し己一人に打ち克つ事こそ最上の心の浄化であり人生の勝利者だと言え、しいては大いなる福徳をもたらすのである。
 
    お釈迦さまでも気が付くメェ~
世の中ではお釈迦さまが色々と例えに用いられて居ますが「お釈迦になる」とは「ひ」と「し」が曖昧な江戸っ子の鍛冶職人が火加減が強過ぎ使い物にならない不良品を洒落て釈迦尊(ブッダ)の灌仏会(誕生日)の四月八日(しがつよび)で使い物にならない不良品となった事を掛けたと言われます。
また「お釈迦さまでも気が付くめぇ~」とこれは切られ与三郎得体の台詞ですが得体の知れない妄想的な神仏に釈迦尊(ブッダ)を擬えてその悪事の周到さを奢ったものですが、私が想っているのは、お釈迦さまの深い洞察力でも2500有余年を過ぎた21世紀の世に於いても無明の闇に閉ざされた精神的倒錯したカルトとか絵空事で妄想的な得体の知れない神仏や怪しげな力を騙る信仰が溢れ返って居ようとは「お釈迦さまでも想うメェ~」
 
       純 粋 仏 教      
私の追求する純粋仏教とは何んぞやと言うならば、色々と派生し.色々と解釈され.色々と捏造されて来た釈迦尊(ブッダ)の御教えを釈迦尊(ブッダ)の真正な仏教へと蘇らせる事だと言え、当然に大乗(マハーヤーナ)然りであり若し私自身が無思考に気付く事も探求する事もなく宗派の教えや勤行や読経に随い一生を費やしたとしたら釈迦尊(ブッダ)の正しい教えも釈迦尊(ブッダ)の心も釈迦尊(ブッダ)の願いも理解出来ないまま折角の人生を無明なままに終える処だったと言え、一方より釈迦尊(ブッダ)の正しい御教えに近いとは言える上座部(ヒナヤーナ・テーラワーダ)にしても、三度に渡る結集とサンガ(集まり)の分裂によりそれぞれの阿羅漢の見解に基づき各派が編纂した釈迦尊(ブッダ)が真に仰った御言葉からは明らかに逸脱した多くの思想も経(スッタ・スートラ)として登用され、それらも時代を経て散逸の憂き目に在ったものを偉大なるブッダゴーサの尽力で後世に多くの部分が伝わったのは幸いであり事実だが、上座部(ヒーナ.ヤーナ・テーラワーダ)はブッダゴーサの見解と散逸を逃れた部分(御言葉)という枠(第六蓋)を超えて釈迦尊(ブッダ)の真正で純粋な教えを追求する事が出来ない部派仏教に過ぎず真の到達への道を中途で終える事になる事を直観したからに他ならず事実、浅薄な人達からは邪道だとか逸脱だとか曲解だとか揶揄されるが「釈迦尊(ブッダ)の如く眺め、釈迦尊(ブッダ)の如く思惟し、釈迦尊(ブッダ)の如く分析し、釈迦尊(ブッダ)の如く行いない、釈迦尊(ブッダ)の如く考え、釈迦尊(ブッダ)の如く語り、釈迦尊(ブッダ)の如く生き、釈迦尊(ブッダ)の如く努め、釈迦尊(ブッダ)の如く励めば、他の人々が信じようが信じまいが叡智により光明なる真理(真実.現実.事実.実相.摂理)は眼前に顕現する」そして堅固なる平らかで静かなる満ち足りた境地へと到るのです