無明

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世間と言うものは.実は真理(事実.真実.現実. 実相)を素直に認める性格は持ってはいないのです。
いつの時代でも大衆とは[虚妄]に興味を惹かれ.[虚妄]を愛して.[虚妄]に魅入られてしまうものなのです。
信じるという事は.本当に物事を理解し.物事が見えているという事ではないのだが、人は盲目的でありながらも物事が見えている理解できていると自惚れ錯覚しているのです。
伝統的なこと.思い込み.権威.通説.習俗.信仰.迷信.先入観.文化的価値観.暗示:錯覚固定観念.既成概念..などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものでもあるのです。
何しろ.いつの時代でも大衆とは[虚妄]に興味を惹かれ.[虚妄]を愛して.[虚妄]に魅入られてしまうものなのです。
例えば私の処に来た相談者の中で、彼女は何処かの如何わしい瞑想教室で染脳(洗脳)され.金品もかなり搾取されたようで.心身ともに疲れ果て.路傍に立つ如来の元に助けを求めてきたのですが、染脳(洗脳)されていて.瞑想教師(偽)から超能力や念を送られ体調も乱され困っていると言うのです、そんな彼女に真実.原因.問題.回復方法を話し.処方し.それを理解させ.実行させ.その呪縛から解き放つのには苦労させられました。
その病巣が[欲]という頑固な汚れが凝り固まって生じているので、欲の汚れに染められた心の洗脳は苦労するのです。
最近では[ナポレオン.ヒル]などの[引き寄せの法則]に量子力学を絡めた[量子引き寄せ法]とか[霊言]とかの眉唾なネズミ講鋼などが的なものが蔓延って来ているようですので注意が必要です。
特に.欲望に魅入られた現代社会では「信じるものは騙される」ものなのです。
故に釈迦尊(ブッダ)は、他人の言う事や物事を鵜呑みにしたり.安易に信じる事なく.自ら冷静に観察し.分析し.思惟し.思推し.検証し.確証をえられたものだけを信じなさいと仰っているのです。
例えば[儲け話]というのがありますが、こうこうすれば必ず儲かるという話に騙される人は後を断たず、これは人の欲心を突いてくるのであり、先ず貴方に対して理解を示し.貴方の為の提案なのだと思い込ませるのですが、冷静に考えれば本当に儲かる話ならば他人に教えずに.自分が儲けるに決まってます(何しろ欲が深いのですから.他人に分け与える事など成立しないのです)
引き寄せの法則も同様で有限な金財を引き寄せるとは他人から[搾取]することに他ならず確かに胴元と会員とは[搾取する側]と[搾取される側]という関係性を現わし、やがて会員側は「騙されたー」と嘆くのが世の常であり決して善人が騙されるのてはなく、欲深く無明な盲目的さに気付かずに自惚る人は騙されるもの。(人は迷妄.虚妄の真っ只中に生きている、しかし迷妄.虚妄の中に居る故に、迷妄.虚妄の中に居ることに気付けず、迷妄.虚妄であっても自分が迷妄.虚妄の中に居るとは思わない、水中の魚の如し) <如幻如露>
お釈迦様も御自身の発見された真理(真実.現実,実相)が世の潮流に逆らうものであり、人間の持つ利己的な欲望を否定するものである事を充分に認識されて居られ「私が体現したこの真実は見難く、理解し難く、賢者にしか把握されないだろう。世の潮流に逆らい、高遠で深淵で微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ、無知(無明)の闇に包まれた者達には見えないだろうから、世間に説明しても無駄ではないか。いっそ此の侭、涅槃(ニルバーナ)に安住してしまおう」と真理を説かれるのを躊躇なされたのを.梵天と喩えられた理解者.支持者が世間を蓮の池に喩え「池の中には未だ水面下に留まっている蓮の華もあれば、丁度、水面に顔を出した蓮の華もあり、水面高く抜きん出ている蓮の華もあり、同様に世間にも色々なレベルの人達が居るのですから.中には真理を理解する人も必ず居るものです。だから.この唯一無二なる真理を人々の幸福の平安と歓喜と幸福の為に是非お説きください。」と梵天の勧請により人々を無明による苦しみから救い出すために説法を決意されたのです。
【無 明】
無明とは本質的無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ないこと」をいうのであり、縁起という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は業(カルマ)を生起させ、業(カルマ)により欲求を生起させ、欲求により五感官を生起させ、五感官の感受により、渇愛を生起させ、渇愛を条件として五集合要素(五蘊)は煩悩(生存欲)を生起させ煩悩(生存欲)に執着した五集合要素(五蘊)は感情を生起させ、感情に執着した五集合要素(五蘊)は自我(自意識)を生起させ、自我に執着した五集合要素(五蘊)は妄想を生起させ、妄想により捏造された意識や記憶と現実とのギャップにより、苦や悩み・不満や憎しみ・恨みや辛みなどを生成し深めてさえもいるのである。理想であると錯覚している妄想と現実とのギャップを受け入れる事が出来ないのは、煩悩(生存欲)が捏造した自我(自意識・エゴ)なのであり、無知(無明)なるが故であり、無知(無明)を真理に置きかえれば、全ては消滅する性質のものであり、ただ因果律の条件性に則って生起しているだけである事に気付き、盲目的な妄想の闇から脱して、真理や事実を発見してゆく事こそが妄想の呪縛から解放されて真の幸せや歓びや平安を体現してゆく道なのである。
仏陀曰く「愚か者は、幸福を願い求めながら無明なるが故に、いつも幸福を取り逃がす」
人は苦と不満は容易に感じることが出来る。それは人間の本質が苦と不満から成り立っている存在だからである。しかし人は幸せの感じ方が本当は解っていないのである(無明)
所有欲(物欲・金財欲・権力欲・地位欲・家庭欲・名誉欲・・・・・)あらゆる欲に執着させてゆくものは存在の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)による五蘊(眼耳鼻舌身と色声香味触との出会いによる色受想行識)の精神作用により生じる概念が造り出す感覚と感情である貪瞋痴(不善処)による苦と不満(渇き・不安定)とがそうさせるのである。それら所有欲を満たすと一時的に快楽を得ることが出来、不安定な心が一時的に安定するからである。しかし所有欲によって得た快楽はいつまでも続かず再び苦と不満へと戻ってしまうから又、新たに欲するという苦と不満の中を流れ彷徨ってゆくのである。(死して彼岸の淵を彷徨う者は、この世でも流れ彷徨う。)
あらゆる所有欲に魅入られ執着しないためには欲が満たされば良いのだが「所有欲に満たされること無し」なのであり、真に満足を得る法は「足るを知る心」だけなのである。
盲目的に所有の次元に翻弄され苦と不満の中に人生を送り.生への執着により悔やんだり.恐怖したりして死ぬ事になる人を[無明]というのである。
無明とは「明かり(灯り)がない状態」つまりは不安定状態なのである。その不安定を安定化させようと物欲(購買欲・家族欲・所有欲・愛欲・金財欲・・・・)に魅入られ、小さく短命な灯りを都度々々に燈し続けて、本質的な苦や不満・不安・心配・恐怖を一時的に逃れながら生きてゆくのである。それ故に死が迫る来たるとき、それらの空しい灯りが一つ一つと消えてゆき、段々と暗くなってゆく心の中で後悔や恐怖や錯乱に陥り、人によっては神や仏に縋ろうともするのである。
死の直前には自分の一生に対する評価を下すと言われる。それは後悔を伴い、どれだけ出世したかや金儲けできたかではなく、「自分にはもっと大切で崇高な生き方という道があったのではなかろうか。」「一生のうち自分がどれだけ愛やぬくもりを他人と共有できたか」になるという。
仏陀は仰った「一切の苦悩は無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのだ」
無明について「雑阿含経典」が説き明かしている。
「無明とは、過去と未来を知らず、過去と未来の関係を知らぬこと。内なるものと外なるものを知らず、内なるものと外なるものの関係を知らぬこと、行為とその結果を知らず行為と結果の関係を知らぬこと
仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬこと
苦集滅道(四諦)を知らず、苦悩を止める実践的方法を知らぬこと
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か、有罪か無罪か、常住か無常かを知らず、良し悪しや浄不浄の分別、縁起を知らず、何も知らないこと
眼耳鼻舌身意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず見ず、或は部分的にしか理解しないこと。このような愚かさを[無明]というのである」