仏教の最高峰 頂乗仏教学舎  路傍の如来 多々方路傍石

如来品正師 多々方路傍石のブログ

安心と不安(無明)

無知(無明)とは何か。            
 仏陀は「人みな無明あり、一切の苦悩は無明より生ずる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのである」と仰った。雑阿含経が丁寧に解き明かしている。   「無明とは何か?過去と未来を知らず、過去と未来との関係を知らぬこと。      内なる物と外なる物を知らず内なる物と外なる物の関係を知らぬ事。        
行為とその結果を知らず、行為と結果の関係を知らぬこと。             仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬ事。                苦集滅道を知らず。苦悩を止める実践的方法を知らぬこと。            
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か.有罪か無罪か.常住か無常かを知らず、良し悪し.浄不浄の分別.縁起を知らず、何も知らない事である。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず、見ず、或いは部分的にしか理解しないこと。このような愚かさを無明というのである。」                        無知(無明)とは「所有の次元」において人が頼り縋り依存し執着するものの事であり、生きるとは暗い夜道を手探りで不安と恐怖を懐きながら行く(暗夜行路)のようなものであり、そんな人生を歩いてゆくには灯明を燈して暗夜行路を照らさなければ歩いてゆくことが危うく不安定なので、「所有の次元」の事物である金財物、地位、名誉、称号、仲間、家族、権力、勢力、名声、知識、見解、承認、評価・・・・などに頼り依存し執着する事により一時的には心を照らす灯明としているのだが、消え去った時には不安・怖れ・弱さ・不満・苦悩・空しさ・渇き・不安定という本質に戻りつき、また何かしらの灯明を継ぎ足し継ぎ足し燈しながら辛うじて歩いている事を「無明」というのです。仏教では、そんな「所有の次元」における一時的にしか過ぎない付随物による灯明などではなく「存在の次元」に於ける叡智と真理によりもたらされる煌々と灯り決して消えることのない灯明を、自灯明(自らが具する真理)と法灯明(自然法則や真理)により発見する道をといているのです。                本能は煩悩というの姿で存在し、決して滅却することが出来ない(生存の素因)であり、仏教が恰も煩悩の滅尽を説いていると誤解されているが、仏教では煩悩の否定も滅尽も説いてはいない。釈迦尊(ブッダ)が説く煩悩とは、「生活の中で実践的に自覚して修習してゆけば誤った認識を正しい観念へと改め煩悩の苦しみを、とこしえの歓びと平安に変えてゆくことが出来る。」これが「煩悩即菩提」なのであり、これを(煩悩が即座に菩提(悟り)へと変わる)などと宣う本覚思想による宗派のように誤って解してはならない。これは(煩悩が即ち菩提と成り得る。)と解さねばならない。不安定な本能が生ずる煩悩は、防御本能が不安や恐怖の衝動を生じ、攻撃本能が渇愛の衝動を生じ、不安定な本能(煩悩)から生じるこれらの「不安」「恐怖」「渇き」の衝動が表面の意識へと伝達され、意識は五官(眼耳鼻舌身)を駆使して外界に向かって、この「不安」「恐怖」「渇き」を癒す物事を探し求め何かしらを感受するとき、「安定」を与えてくれそうな物事に対して(貪り)、安定を阻害するものに対して(怒り)、本能の衝動に翻弄され痴愚な「所有の次元」に於いて一時的な安定を得るがこれは所詮は一時的安定に過ぎず「一切皆苦」という本質が故にこの循環から逃れることが出来ずにこの循環の中を流れてゆくことを「無明」というのである。        潜在識の安定を得て、それが本能域(煩悩)を安定化させてゆく時、気付きと智慧によりもたらされた真理の具足により煩悩は安定化し「安心」と「平安」と「大楽」の感覚を生ずる。そして法悦と軽安の感覚に捉われず拘らず只、味わいし後に、その法悦と軽安の感覚さえも捨離することにより、解脱して涅槃へ至り「平安なる寂静」を得るのである。 世間では「我れ思うゆえに我れあり」などと考えられ合点されても居ますが、そこには現れては成長し変化し消えてゆく想念(現象)とやはり現れては成長し変化し消えてゆく感覚(現象)で在り、そしてそれらを唯、眺めている理性(客観的理解認識能力・知性)とが居るが、それら理性を含めてのすべてが現象世界におけるエネルギーの流れにすぎず、現れては成長し変化し消えていってる現象の連続体であり「我れ思うゆえに我れあり」と言える実体など実は何処にもない。
平安とは,物事に捉われず偏らず中道を以って初めて訪れるもの。    
それは、つまらない物事、どうでもいい物事、下らない物事を考えず、捉われず、拘らず、感覚などもほっぽっておく事が「平安」なのである。              では何故、つまらない物事、どうでもいい物事、下らない物事を考え、捉われ、拘り、執着してしまったりするのかと言えば「未熟で愚かで無知(無明)」だからに他ならず、平安とは自ら造りだすものであり、外的に人間より高い位置に存在するものからもたらされるものではなく、外から幾ら平安を提供されようとも心が騒ぐならば平安を得る事などなく、歓びとは自ら感じるものであり、外から与えられるものでなし、外から幾ら歓びを注がれようとも、心、憂うならば歓びは得られず。                  涅槃とは自ら味わうものであり、外からもたらされるものでなし、外から幾ら涅槃について学ぼうとも、心、愚かなれば涅槃は得られない。               
人はよく「何の為に生きるのか?」「何故生きてゆくのか?」「どう生きればいいのか?」などと思索したがるが、これも本能の衝動(人は本能により考えさせられている。)なのであり、存在欲が発する存在の安定化と存在の肯定化の為の衝動なのだが、答えは既に皆、具足しているのだが気付かずに思い悩み外に探し求めるのだが、これを若気の至り、無知(無明)による衝動、青い鳥症候群(まるでチルチルミチルが青い鳥を探し回り世界中を旅する)現代的に言えば自分探しの旅?なのだが、青い鳥の寓話の如く外の世界には発見できず身の内、自分の手の届く処に存在を発見するものなのであるが、外に自分の生きる意味や価値を探し求め見出そうとする人達は世の中に張り巡らされた罠に騙される事が多い事に注意しなければならない、世の中には善良な人や純粋な人や感情の不安定な人を騙し誑かそうと多くの罠(如何わしい宗教を標榜する信仰団体やらカルト哲学・思想・理論・倒錯的妄想・迷信)が張り巡らされていて、空論に基ずくプロパガンダを駆使して染脳(洗脳)してやろうと待ち構えていて無知(無明)で未熟で不安定な自分を抱える善良な人達が容易に餌食となっている。 生きる意味とは、自分が「どう生きたいか」だけなのであり親兄弟、恩師、他人、社会、国家が決めるものではなく、公序良俗と人倫や道徳(道理)に反さない限りは「生きたいように生き、生きることを楽しむ」これこそが折角頂戴した命の使い方であり、存在とは唯.現象であるという実相を捉える事である。我らは、楽しく生きよう。        恨みを抱く人々の間にあっても、
恨む事なく、我らは楽しく生きよう。   悩める人々の間にあっても、悩みなく、
我らは楽しく生きよう。         貪って渇く人々の間にっても、貪らず渇くことなく、我らは楽しく生きよう。    
煩悩も欲望もないから我らは楽しい。   この世は欲望だらけだが泥沼に咲く蓮の華のように、我らは欲を離れて生きている、
だから我らは煩悩もなく楽しく生きている。我らは楽しく生きよう。         不満だらけの浮き世のなかで、
不満を持たず、我らは楽しく生きよう。  病んだ社会の中で、病むことなく、
我らは楽しく生きよう。         貪欲なる世界で、無欲恬淡に、
我らは楽しく生きよう。         物事に心、乱されず、精神の悦楽を活力として、我らは楽しく生きよう。      
光音天の神々のように、我らは楽しく生きよう。」                
享楽主義(ヘド二ズム)も禁欲主義(ストイック)も偏った考え方でしかありません。故に仏教は中道を説くのです。「平安は中道にあり」享楽主義は禁欲主義を前提として成り立ち、禁欲主義は享楽主義を前提として成り立ち、そうでない時には「所有の次元」に在り、一時的な安心と大きな不安を生させ、一時的な快楽と多くの苦と不満を生じさせるものなのですから。           
過去に自分は存在せず、過去にあるのはただ過去の記憶に過ぎず、         
未来に自分は存在せず、未来にあるのはただ想像に過ぎず、            
自分は常に、この一息の内にのみ在り。一息を軽んずるものは一生を軽んずる事となり一息を苦しむものは一生を苦しみ続けることとなるのです。            
一日何千回と吸っては吐いてる呼吸(一息)に気をとめる事もなく普段生きているのが、一般人なのですが、その時に一体何を考えているでしょうか。大体がつまらない雑念や下らない妄想や、どうでもいい物事を踏み止まることなく先に先にと考え続けているのではないでしょうか。それらは決して自分が自分の意志でしているのではなく、煩悩の衝動により「させられている」ことに気付く処から心の育成が始まるのです。         それらの煩悩が発する衝動(感覚から感情)により、人は主観的になり自我意識を生じさせ雑念や妄想へと陥ってゆくのです。    そして煩悩の衝動(要求)により、外界に所有欲を充たそうと何かしらを探し求め彷徨い煩悩(生存欲)が気に入った物事に対して貪り執着しているだけなのですが、それは一つの要求を充たしたとしても更なる要求をしてくるだけであり、決して充たされる事のない儚い煩悩の衝動に一生を翻弄され続けることに他ならないのであり、逆にそれら煩悩の衝動(要求)に気付き抑制してゆけば、心は自ずと澄み渡りこの世の実相も見えてくるものなのです。                 その一つとして呼吸(一息)に集中して雑念や妄想が発生する隙を与えず、今、存在している(生きている)限りない数々(宇宙の星々の数程)の恩恵や関係性に気付いてゆくことは真理の発見であり検証であり理解であり確証を得てゆくことでもあり、感謝と歓びと悦楽と安堵と平安を、一息一息に乗せて呼吸してゆくことであり、真理に基づいた幸せな人生を送ってゆくことでも在るのです。     ●星の数ほどもある歓びの一例として幾つかを記すならば、             ♪今日も朝を元気に起きられた♪美味しくご飯を食べられた♪足腰無事に動き周れた♪朝から杞憂に悩まされなかった♪いきなり人に襲われ殺されなかった♪歯が痛くならなかった♪腹が痛くならなかった♪石に躓かなかった♪電車に乗れて歩かず済んだ♪多くの人々のお陰さまで米の飯が食べれた♪多くの人のお陰さまで大好きな店が存続している♪多くの人のお陰さまで携帯電話でお話できた♪二本の足で立っている♪今日も生きて居られて有難い♪お日様が今日も昇ってくれた♪今日も平和で有難い♪有難い仏法を聞けた♪当たり前のような事でさえ、多くの関係性と恩恵の上にもたらされているのであり、既に数えだしたら切りがないほど多くの幸運の上に今があり、今日の出会いがあるのですから。

⚫無明とは無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ないこと」をいうのであり、縁起という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は業(カルマ)を生起させ、業(カルマ)により欲求を生起させ、欲求により五感官を生起させ、五感官の感受により、渇愛を生起させ、渇愛を条件として五集合要素(五蘊)は煩悩(生存欲)を生起させ煩悩(生存欲)に執着した五集合要素(五蘊)は感情を生起させ、感情に執着した五集合要素(五蘊)は自我(自意識)を生起させ、自我に執着した五集合要素(五蘊)は妄想を生起させ、妄想により捏造された意識や記憶と現実とのギャップにより、苦や悩み・不満や憎しみ・恨みや辛みなどを生成し深めてさえもいるのである。理想であると錯覚している妄想と現実とのギャップを受け入れる事が出来ないのは、煩悩(生存欲)が捏造した自我(自意識・エゴ)なのであり、無知(無明)なるが故であり、無知(無明)を真理に置きかえれば、全ては消滅する性質のものであり、ただ因果律の条件性に則って生起しているだけである事に気付き、盲目的な妄想の闇から脱して、真理や事実を発見してゆく事こそが妄想の呪縛から解放されて真の幸せや歓びや平安を体現してゆく道なのである。
仏陀曰く、「愚か者は、幸福を願い求めながら、無明なるが故に、いつも幸福を取り逃がす。」
人は苦と不満は容易に感じることが出来る。それは人間の本質が苦と不満から成り立っている存在だからである。しかし人は幸せの感じ方が本当は解っていないのである。(無明)
所有欲(物欲・金財欲・権力欲・地位欲・家庭欲・名誉欲・・・・・)あらゆる欲に執着させてゆくものは存在の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)による五蘊(眼耳鼻舌身と色声香味触との出会いによる色受想行識)の精神作用により生じる概念が造り出す感覚と感情である貪瞋痴(不善処)による苦と不満(渇き・不安定)とがそうさせるのである。それら所有欲を満たすと一時的に快楽を得ることが出来、不安定な心が一時的に安定するからである。しかし所有欲によって得た快楽はいつまでも続かず再び苦と不満へと戻ってしまうから又、新たに欲するという苦と不満の中を流れ彷徨ってゆくのである。(死して彼岸の淵を彷徨う者は、この世でも流れ彷徨う。)
あらゆる所有欲に魅入られ執着しないためには欲が満たされば良いのだが「所有欲に満たされること無し」なのであり、真に満足を得る法は「足るを知る心」だけなのである。
盲目的に所有の次元に翻弄され苦と不満の中に人生を送り、悔やんで恐怖して死ぬ人を無明というのである。
無明とは「明かり(灯り)がない状態」つまりは不安定状態なのである。その不安定を安定化させようと物欲(購買欲・家族欲・所有欲・愛欲・金財欲・・・・)に魅入られ、小さく短命な灯りを都度々々に燈し続けて、本質的な苦や不満・不安・心配・恐怖を一時的に逃れながら生きてゆくのである。それ故に死が迫る来たるとき、それらの空しい灯りが一つ一つと消えてゆき、段々と暗くなってゆく心の中で後悔や恐怖や錯乱に陥り、人によっては神や仏に縋ろうともするのである。
死の直前には自分の一生に対する評価を下すと言われる。それは後悔を伴い、どれだけ出世したかや金儲けできたかではなく、「自分にはもっと大切で崇高な生き方という道があったのではなかろうか。」「一生のうち自分がどれだけ愛やぬくもりを他人と共有できたか」になるという。
仏陀は仰った「一切の苦悩は無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのだ」
無明について「雑阿含経典」が説き明かしている。
「無明とは、過去と未来を知らず、過去と未来の関係を知らぬこと。内なるものと外なるものを知らず、内なるものと外なるものの関係を知らぬこと、行為とその結果を知らず行為と結果の関係を知らぬこと。
仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬこと。苦集滅道(四諦)を知らず、苦悩を止める実践的方法を知らぬこと。
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か、有罪か無罪か、常住か無常かを知らず、良し悪しや浄不浄の分別、縁起を知らず、何も知らないこと。
眼耳鼻舌身意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず見ず、或は部分的にしか理解しないこと。このような愚かさを「無明」というのである。」