感覚的享楽

感覚的享楽
⭕魅惑し.魅力し.享楽を生じさせるもの事
⭕悪い結果.状況の変化.飽き.別離によるドゥッカ(苦.悩み.心痛.不安定さ.儚さ.不満……)
⭕自由あるいは解放
悲観的でも楽観的でも刹那的にでもなく、人生の享楽を.その痛みと悲しみと空しさ、そしてそれらからの解放を含めて、完全に.冷徹に.客観的に理解する事により、初めて真の自由は得られる。
⭕修行者あるいはバラモンが[感覚的喜び]による享楽を[享楽]として、自らの心が[感覚的喜び]によって真に満たされない事を、真に満たされない事として.そうした[感覚的喜び]による欲望や執着からの解放を[解放]として.客観的に理解しなければ、自身が[感覚的喜び]による欲望や執着から真に解放され、他の人を教え[感覚的喜び]による欲望や執着を完全に理解させる事は不可能である。
修行者あるいはバラモンが、[感覚的喜びによる享楽を[享楽]として.自らの心が真に満たされない事を、[心が真に満たされない事]として、そうした事からの解放を[解放]として.客観的に完全に理解したならば、その時に初めて自身が[感覚的喜び]による欲望を明確に理解し、他の人を教え[感覚的喜び]による欲望や執着の無常さや空しさを.完全に理解させる事ができる。
⭕煩悩(生存の素因.存在欲)の要求(渇愛)である[感覚的喜び]やその享楽により心が真に満たされる事などなく、更なる欲望を生じさせ更なる要求をしてくるだけ、逆に煩悩の要求を抑制し制御コントロールしてゆくと、波打つ湖面(心)は次第に.鏡面の如く澄み渡り、月光(真理)をその湖面(心)に明晰に映し出す。
⭕感覚的喜び
お釈迦さまは仰っている「愚かなる者達は.日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく.雑草を美味しい.美味しいと食べている牧畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」大念処経
○身体(六根)は身体(六根)過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
○感覚は感覚に過ぎず、
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
○感情(心の状態)は.感情(心の状態)に過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
五蘊(心的作用)は五蘊(心的作用)に過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない…
つまりは.私と呼べるような実体的な存在など何処にもなく五つの要素(身受想行識)が集まる時.私という存在があると思い込んでしまうのです…