仏教は超.現実主義

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真の仏教を理解する上で、先ず必要であるのが.お釈迦さまは現実主義者で在られたという事ではないでしょうか…
現代でも多く見受けられますが、お釈迦さま在世.当時は無明と迷信が溢れ返り、中でもバラモン教という得体の知れない神仏への信仰が.権威と歴史を以って人々に服従を強いていた時代であり、そんな無明な闇の中を盲目的に.不安定に生きる民衆とバラモンと支配階級に、慈悲と憐れみの心を以って、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事により誰でもが到達できる歓喜と平安と静逸な安定的で堅固な超現実的な世界の存在と其処に至る道を唯一説かれた偉大な教えなのです…
そんな基本的な事さえ理解する事も受け入れる事も出来ないような妄想的.神秘主義や虚妄な不思議世界を愛する大衆に.真理を理解する事が出来ず.真理を施す事もなく.あまつさえ.諂らい.迎合していった者達の手により.真理(真実.現実.事実.実相)を説く純粋で頂乗な仏教は歪められて来たのが現実である。
先ず、ヨガ(瞑想法)の指導者であったアーラーラ・カーラーマやウッダカ.ラーマプッタの元で瞑想の修行をなされていた.お釈迦様が何故.彼らの元を離れて単独での修行に入られたのかについて[彼らの指導する瞑想法では.自らが追求する真理(苦の滅却)を得る事は出来ない]ことを覚られたからだと説かれていますが、では[彼らの瞑想で得られる物とは何?][お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]という重要な処が今ひとつ曖昧模糊なのです
○基本的にはヨガ.瞑想.禅那禅.禅定.座禅.立禅.止観.観照.内観.内々観などの方向性は全て一緒であり、方法.作法などに依って分類されている(※中には第三の目.超能力などの獲得を目指すカルト的なものもある)

[彼らの瞑想で得られる物とは何?]
お釈迦様が到達された叡智による真理の顕現→涅槃(ニルヴァーナ→自在な光の一滴→一源のエネルギー→安定世界・彼岸)には到達しない.瞑想による.軽安.多幸感.開放感.恍惚感をもたらす禅那(ジャーナ)や高度な精神的次元による鎮静や不思議体験(臨死体験.死者.精霊.悪魔などとの遭遇)も、瞑想の価値や意義は高く称賛.奨励されながらも現実主義であられるお釈迦様は、それらが潜在欲に発する五蘊作用(絶えず移ろい変化する肉体的.心的エネルギーの結合に過ぎない自分を形成している五集合要素)に過ぎず、それらへの執着こそ、ドゥッカ(苦.不安定さ.空しさ…)であると喝破され、独覚の道を歩まれた。
※条件(縁起)により生起するものは.条件により消滅する性質のものであり、ドゥッカである。 ※五集合要素はドゥッカである。

[お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]
ドゥッカ(不安定性…)を本性とし、変化生滅しているこの世界では反極的に現れるスカ(快感.喜び.幸せ感.安心感など…)の現象的感覚に.拘り.捉われ.執着し、それが永遠的な生への捉われ.拘り.執着を形成し、この世界へ繋ぎ留めている。
それらの欲望を抑制し、この世に繋ぎ留めようとするエネルギーの生成を阻めば、在るがままに在る平安な故郷へと戻る事が出来る事を高度で深淵な直感知により発見された(法)

そして[苦行の無益.害悪とは何?]
私なども修行中に「大変ですね」などと.お声を掛けられる事があり、仏道修行=苦行だと勘違いされている向きは否めないが、「仏道修行とは、悦楽の中に智慧の悟りを顕現させてゆく」ものである。しかし誤解され[易きに流れてもいい]という事でもなく、苦(ドゥッカ)の本質を見定める為の.体験としての苦行が存在する事は否めないが、苦行の中には悟りも.真理も.涅槃もないことに気付かねばならないのだが、無明な人から見ると.厳しく.辛く.苦しい.苦行の中に高度な境地が在るだろうと錯覚し、苦行者を讃える向きさえあるが、それは自戒.忍辱.忍耐などを穿き違えて解釈しているに過ぎないのです。
苦行者には.心の安らぎを得ることは出来ないからであり、それは苦行者は.心の根本的な反応である[貪(欲望)]と[瞋(怒り)]と[痴(不満・無知)]という三毒に依存して成り立つものであり、貪瞋痴という三毒が無くてはならない欠かす事が出来ないものとして、苦行者は生きているものなのです。ですから、苦行という修行は無駄で無益で害悪な行為なのです。
●仏教とは量子力学的思考
有るに偏らず、また無いにも偏らず、
苦に偏らず、また楽にも偏る事なく、
断見に偏らず、また常見にも偏る事なく、
両極の[重ね合わせ]の中道に平安は訪れる
両極の[重ね合わせ]の中道に深淵なる真理は顕現する
中道とは超越であり、両極を以って一を知る
両極ありて、安定もあり。
多々方 路傍石
初転法輪
甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け
比丘等よ、世に二邊あり、出家者は親近すべからず。何をか二邊と為すや。
一に諸欲に愛欲貧著を事とするは下劣、卑賤にして凡夫の所業なり、賢聖に非ず、無義相應なり。
二に自ら煩苦を事とするは苦にして賢聖に非ず、無義相應なり。
比丘等よ、如来は此二邊を捨てゝ中道を現等覺せり、此、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覺、涅槃に資するなり。
(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。出家者はそれに近づいてはならない。何が二つの極端なのか。
一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。
二つめは、自分に苦難を味合わせることは、苦痛であり、無意味で無益である。
比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのである。
それこそが、観る眼を生じ.叡智を得.證智をもち、定(サマーディ)涅槃に至る道である。