如来、来たるが如し

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四聖諦.三法印.因果律(縁起)を真に理解し.煩悩(存在欲)に打ち勝ち、真理を依り処とし、目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれ.涅槃(ニルヴァーナ)に到達した.神通力を収めた清浄な人を如来と尊称する。  

一切皆苦(四聖諦)を真の理解する  初 諦(本質の悟り)
諸法無我(諸法非我)を真に理解する 世俗諦(智慧の悟り)
諸行無常(無常法則)を真に理解する 勝義諦(真理の悟り・大悟)
涅槃寂静(絶対真理への帰依)

一切皆苦 (初 諦)
●八正道(戒定慧)の実践的生活により、四聖諦を真に理解してゆく事が出来るとドゥッカ(苦・痛み)を乗り越えてゆく事が出来る(超越)
☆苦の本質・苦の生起・苦の消滅・苦の消滅法           ☆この世界は全てが苦(不安定)の安定化への運動である。      
地球が太陽の周りを廻るのも、地球が自転しているのも不安定状態の安定化であり、宇宙が膨張するのも、星が爆発するのも変化するのも不完全(不安定状態)の完全化への本質的意志による。      
☆五結合要素(五蘊)はドゥッカである。五結合要素とは即ち人間を含む生物であり精神作用であり、それにより生きる事である。 
諸法無我 (世俗諦)
●八正道(戒定慧)の実践的生活により苦を乗り越え、自分という存在を真に理解すると実体的な自分と呼べる存在が存在し得ない事が理解出来る。そして捉われ拘る自我の妄想を乗り越えてゆく事が出来る(超越) 
☆自分とは五結合要素(五蘊・物質的エネルギーと心的エネルギーとの一時的な結合)であり、本質的実体である魂・霊魂・霊体などを意識するのは永遠の存在を渇望する煩悩による妄想でしかない。
「心身は因縁を以って一瞬一瞬に生滅を繰り返しながら継続してゆく運動則である。河の流れは継続すれども元の水ではなく、炎は炎々と燃え続けても元の火ではないように、前の消滅が次の生起を条件付けながら継続しているだけであって、心身に自我を主宰する魂も霊魂も霊体などは存在し得ないのである。
☆意識が主体的に存在していると誤解している人も本質的のは霊魂などを肯定しているのであり、意識とは五結合要素(五蘊)による精神作用によって生じている識蘊(意識)でしかなく一つの機能でしかないのである。依って意識の継続とは五集合要素(五蘊)の因縁による生起に他ならず、前の意識の消滅が次の意識の生起を条件付けているだけなのである。
諸行無常 (勝義諦・大悟)
●八正道(戒定慧)の実践的生活により、ドゥッカの軛を乗り越え(超越)、自我の縛り(自縛)から解き放たれ(解放)、絶対真理(無常法)を真に理解すると解脱し、涅槃(ニルバーナ)を体現する事が出来る。
☆この大宇宙(現象世界)という時空に存在する有形無形の一切は、途方もないエネルギーの縁起による止まることのない生起・変化・成長・消滅を繰り返して行く(輪廻)流れである。 
涅槃寂静(絶対真理への帰依)
☆揺ぐことのない絶対真理(無常法)を精神的支柱(拠り処)とし他の何物も精神的支柱(拠り処)とするなかれ、自らに具わる真理を理解する能力を信じて、その信念を精神的支柱(拠り処)とし他の何物も精神的支柱(拠り処)とするなかれ。
☆観察も検証も確証も得る事が出来ない(得体の知れない)神や仏や超越的な力を主張したり媒体とするものを精神的支柱(拠り処)とする事は真理(摂理)に逆らい自らの存在の価値観や意義を信じずに、得体の知れない価値感や意義により生きる事であり、無知(無明)なまま虚無(空)な如幻如露の中を彷徨って行く事に他ならない。
☆涅槃(ニルバーナ)は実存である。この常ならざる世界において唯一の実存である摂理(絶対真理・無常法)を依り処とするのである。 ☆無常法の理解とは、常ならざる変化生滅とともに、常ならざる世界における全ての物事の関係性(縁起の法・因果律)と常ならざる世界における全ての物事の運動性・継続性・連鎖性(輪廻の法)を理解をする。
☆輪廻を意識の継続と解している人は五結合要素(五蘊)が理解出来てない事になり、継続してゆく「業」とは意識ではなく精神(本質的意志)の不安定による継続運動なのである。
☆輪廻の法(真理法)は自然則でありチベット仏教の「死者の書」などに描かれる心的創造ではなく生命の進化の流れを辿るのである。
☆中国仏教や日本仏教(新仏教)や大乗仏教因果律までは理解する事が出来、数々の素晴らしいアビダルマ(論蔵)が遺されているが、土着信仰や迷信的な民衆信仰による先祖崇拝思想を乗り越える事が出来ず成仏や輪廻の法が真には理解する事が出来ないで居る。   ☆諸行無常とは、変化生滅しないものは存在できない世界である事を説くのであり、実存的・固定的で絶対的な得体の知れない神や仏など存在できない事を説いているのである。
☆人間存在とは五結合要素(五蘊)による仮体であり本質的には虚無(空)な存在でしかなく継続してゆくものは運動性(業)であり、心的なエネルギーとの結合により精神(本質的意志)を生じ、物質的エネルギーとの結合により意識を生じるのである。(五蘊仮和合)
☆「引き寄せて結べば柴の庵にて、解くればもとの野原なりけり」
☆この存在の虚無を空と諦観するのは刹那主義・虚無主義思想でしかなく、仏教思想は現実主義思想であり諸行は常ならざるのだからこそ誰もが今世でも来世で依り幸せにもなれる方法を説いている。
☆自我の妄想により我れを何物にも変え難い宝だという執着により煩悩(生存の素因)が不善処(三毒・貪瞋痴)を生じさせている。
☆不善処(三毒・貪瞋痴)により心は病み汚れ業を深める。地獄とは地底やお空の彼方に在るのではなく、自らの業により自らを苦しめる事(自業苦)である。
☆無知(無明)を条件として生起する盲目的な渇愛(不安定)による執着が業(カルマ)を生じさせ続け、別の何かに成り続けてゆこうとする運動性を生じさせる。(因果律による消滅が次の生起を条件付ける)
☆輪廻とは業による運動性であり、分解者(微生物)⇒生産者(植物など)⇒一次消費者(草食動物など)⇒二次消費者(肉食動物)⇒三次消費者(雑食動物・人類)を捕食の関係性の上の継続の連鎖なのである。
先祖崇拝は成立しない。隣の猫のミーちゃんがご先祖様かも知れず全ての生命は大海の中の水の一滴であり大海の中にその一滴を分別する事など出来ないのである。
●凡そ二千五百年前に釈迦尊(ブッダ)が飲まれし水が我が身体を循環した如く、釈迦尊(ブッダ)が吸われし空気が我が身体を循環した如く、釈迦尊(ブッダ)が体現された実存的な涅槃(ニルバーナ)を我が身体は体現する。
釈迦尊(ブッダ)が成されたよう成すよう努め励み、釈迦尊(ブッダ)が歩まれたよう歩むことに努め励み、釈迦尊(ブッダ)が考えられたよう考ることに努め励み、釈迦尊(ブッダ)が観察されたよう観察することに努め励み、釈迦尊(ブッダ)が分析されたよう分析することに努め励み、釈迦尊(ブッダ)が検証されたよう検証することに努め励み、釈迦尊(ブッダ)が理解されたよう理解することに努め励む。これが釈迦尊(ブッダ)の聖道跡を歩み努め励む道であり、涅槃(ニルバーナ)へ至る唯一の道である
釈迦尊(ブッダ)は何も造らなかった。ニュートン万有引力を発見し、アインシュタインが相対性原理を発見されたように、釈迦尊(ブッダ)は絶対真理を発見されただけなのであり、引力も相対性原理も絶対真理も発見しようが発見されまいが過去から存在していたものであり、決して造られたものではなくニュートンのものでもアインシュタインのものでも釈迦尊のものでもない。
釈迦尊(ブッダ)は人類に対する愛と慈しみと憐れみの心で発見された絶対真理を伝えられただけである。
☆宗教教団を造ろうとは考えられなかった。
☆サンガ(僧伽・集まり)は是認された。
☆信仰化しようとはされなかった。
バラモン教や迷信的な信仰集団を眺めて否定されていた。
☆人は皆、平等にその偉大な発見を活用して依り幸せを求めて行く自由を有している。同様に人は皆、平等にその偉大な発見を蔑ろにして夢幻と妄迷の中を空虚な世界に翻弄され迷信的・盲目的に無知(無明)なまま生きてゆく自由も有している。
☆しかし真理に逆らった人生はとても生きずらい生き方となる。
☆真理に則った生き方は、悦楽な人生を現出してゆく。
諸行無常諸法無我一切皆苦という無常の法則が、この世界に在るのではなく、無常の法則こそが此の世界そのものなのである。
そして無常の法則の絶対真理とは不安定状態の安定化運動である。
諸々の道の中で八聖道が最も優れている。
諸々の真理の中で四聖諦が最も優れている。
諸々の徳の中で離欲が最も優れている。
人々の中で眼ある人(仏)が最も優れている。