人みな無明あり

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自分を高め世界を変える純粋仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

己れの愚を知る者こそが賢者であり、
己れの愚なるを知らず.小賢しい者こそ.
本当の愚者である…
[愚]とは.即ち無明(本質的無知)の闇に包まれた人を言うのです…
無明の闇を晴らし.目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれて解放されるのが仏道なのです…
■無明(無知)について「雑阿含経典」が丁寧に説き明かしています。
無明とは.過去と未来を知らず.過去と未来の関係を知らぬ事…
内なるものと外なるものを知らず.内なるものと外なるものの関係を知らぬ事…行為とその結果を知らず行為と結果の関係を知らぬ事…
仏法僧を知らず.苦悩に終止符を打つ術を知らぬ事…
苦集滅道(四諦)を知らず.苦悩を止める実践的方法を知らぬ事…
因とそれが惹き起こす一切を知らず.善か不善か.有罪か無罪か.常住か無常かを知らず、良し悪しや浄不浄の分別.縁起を知らず.何も知らない事…
眼耳鼻舌身意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬ事…
自我や苦痛.渇望.愛欲の原因などが縁起によって生ずる事を知らず見ず.或は部分的にしか理解しない事…
このような愚かさを[無明]というのです.


人は皆、縁起律(あらゆる物事の相対的な依存関係性)に遵って.誕生し.老病死(老いて病み死ぬこと).そして老病死に対する無明を条件付けられ.無明の闇の中を盲目的に生きているから、それがそのまま生きる事の苦しみ(ドゥッカ…不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔い.憂い.哀しさ.儚さ.脆さ.弱さ.怖れ.不安.迷い.空しさ.惨めさ.実質のなさ.不満.無常さ.欲望)などを生じさせているのです…

それを根拠なく自惚れながら.幸せや喜びを探し求め.何かしらを依り処(精神的支柱)としながら.辛うじて一時的に安定を保っているのです…

しかし生まれて来た時、具わり所蔵する真実(真理)は無明の闇に覆い隠されたまま.手探りで盲目的に幸せ.喜び.快楽を探し求めながら生きているのです

つまりは物事を断片化して分別するのも.偏るのも.自我(エゴ)に囚われるのも.無明の闇の中を盲目的に生きているからに他ならず.無明の闇を晴らして真実(真理)の光明により闇を照らし出し.払拭することこそ.人として生まれてきた真の目的であり.真に価値ある堅固な幸せ.歓び.平安.静逸.安定へと至る唯一の道であると、実践的に.そして体験的に発見され.真実(真理)へと到達され実証された真理を説かれたものが釈迦尊(ブッダ)の教え仏教であり、三宝印も.四聖諦も.八正道も.縁起(因果律)も.念処も.瞑想も.覚醒も超越も.その為のアイテム(必要とされる要素)であり.大悟(大いなる悟り)そのものではなく、大悟(涅槃・ニルバーナ)へ渡るための筏(いかだ)の木材の一本一本であると言え.智慧羅針盤に.意志と信念と努力を櫂として、安楽なる彼の岸へ到達する為に努め励むのです…

誰でもが皆.具する真実(真理)の光明により、無明の闇を照らし出す為に必須なものが叡智(智慧)であり、それは集中力と努力と信念により顕現させる事が出来るのですが、多くの人達は知識の集積により到達できると誤解し.情報(経蔵類)の蓄積に励み.浅薄な見解や偏ったアビダルマ(論蔵)や間違った観念に染脳(洗脳)されて真理(真実)に到達出来ないのは、情報の蓄積である有学の道とは基本的な方向性を学ぶものであって、言語や文字というものは全体性を分断して物事に部分的フォーカスを当てることにより成り立つ性質のものだという事を理解しなければならず、真理への到達はプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.観念.単なる知識.情報など)の蓄積や所蔵ではなく、実践的な無学の道の上に.無明(本質的無知)の闇や自縛.蓋いを打ち払い.解き放たれたる時、全ては無常であり.苦であり.空であると.明らかに目前に横たわる真実(真理)は.もはや情報の域を超えた理解.納得であり在るがままに在り、叡智と真実(真理)の光明によって無明の闇は照らし出され涅槃(ニルヴァーナ)に梵住すのです…

では内蔵する真実(真理)とは何なのかと言えば、それは今.生きているという事実そのものであると言え、言語では表現し得ない.答え(境地)は自得した.その中に見い出してゆくだけなのですから…

これが[自燈明]であり、大宇宙.大自然.世界.自分が存在してる事実・現実の中に真理(自然法則・摂理)は内蔵されている真理(天地自然の法則.摂理)に気付くか気付く事が出来ずに無明の闇の中を盲目的に手探りで翻弄されて行くかの二択でもあるとも言え、その方向を指し示し.導き.見い出す助けとするものが[法燈明]なのです…


至高な存在でもある人間はその進化発達させた能力により無明の闇を打ち破り打破し、捨て去り(捨離)、乗り越え超越し、真実(真理)の光明により無明の闇を照らして真実(真理)を拠り処として生きることが出来るのです。
釈迦尊(ブッダ)は仰った。
「一切の苦悩(ドゥッカ)は、無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり、執着したりして苦しむのだ。」
その為には、先ず偏ったり錯覚したり洗脳(染脳)されたり間違っていながら自惚れている自分に気付いて目覚め覚醒して行かねばならない。
そして今、生きているという事実こそが、身の中に真実(真理)を具し所蔵ている証であり、無明の闇に覆われているから、何の為に、何故生きているかも解らずに盲目的に所有の次元の事物に翻弄され魅入られて居ながら、それが正しい生き方だと錯覚して生きてしいるから、どうでもいい物事、つまらない物事、下らない物事までもに、囚われ、拘り、縛られながら、少しの空しい快楽や儚い幸福と引き換えに多くのドゥッカ(苦しみ・悩み・痛み・迷い・不満・不安・悔い・哀しさ・惨めさ・儚さ・空しさ・怖れなど)の中を生きているのです。


無明とは無知の事であり、真実(真理)による光明で照らし出すことが出来ずに、明かりの無い闇の中を手探りで盲目的に生きている事を言い、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ない事」を言っていて、世の中に溢れる、論争や闘争、傷つけ合い、殺し合い、騙し合い、ドゥッカ(苦しみ・心の痛み・悩み・迷い・惑い・惨めさ・恨み・憎しみ・不満・怒り・儚さ・空しさ・哀しさ・刹那さ・怖さ・悔い・愚かさ・不完全さ・不安定さ・弱さ・脆さ・実質のなさ・無明・・)などの殆どは無明(無知)を原因として起こっているのです。

もし真実(真理)が理解できているならば、全ての物事を真実(真理)という光に照らし出して観ることが出来れば、争うことも疑うことも悩み苦しむ事もなく、真実(真理)を前にして選択も否定も肯定も存在せず、眼前に真実(真理)は輝き現われ、理解できるものであり、全ての物事は理解出来なければ先へは進めないものであり、理解出来ないから、右か左か、信じる信じない、行くか戻るかと、感覚的・感情的・記憶的に、迷いと怖れと無明と自惚れの中を彷徨いながら生きるのです。

如来の教えでは、無明を一種の病気と捉え,無明病による盲目状態を原因として、生存の素因である煩悩(生存欲)の欲望が、制御できずに暴走して行く病気であり、貪り・瞋恚・痴愚などの症状を呈し、ドゥッカを深めて重症化させて行ってしまうのです。
例えるならば、食事への欲が暴走すると過食症という病を引き起こし、食欲の減退が暴走すると拒食症という病を引き起こしてゆくように、生命を維持し存続させてゆく為の重要な機能である煩悩(生存の素因)が、無明による所有の次元の事物への欲の暴走を原因として引き起こされる病気である欲望の不安定状態を、健康状態である中道へと導き快癒させ、依り健全なる心身へと調えてゆく治療法が如来の教えで如来であり、故に如来を心身の医者とも呼ぶのです。(心身一体なりて、心が調えば身体も自ずと調ってゆく、心が乱れれば、身体も自ずと乱れてゆく。万病の真因は、心の乱れから始まる。)

■明確に理解し認識できたものとは、分別する事も、分断する事も、断片として取り出し問題定義する必要もなく、全体性(世界)の中に在るがまま存在し、真実(真理・摂理・自然法則)を真に理解する人にとって当然の事であり、当然に感受し、感覚に捉われず・記憶に縛られず、感情に拘らず・意図せず、無意識に物事をこなしているではありませんか。無意識に息をして、無意識に身に付いた所作を成し、無意識に事をなし、在るがままに在るり、成るがままに成り、成すがままに成しているのです。それがもし心に引っ掛かるとしたら、欲が生起したからに他ならず、つまらない物事に縛られず自由に無欲恬淡に生きるていれば、歓びと愉悦と静逸な甘露で堅固なる安定的な存在へと成長してゆけるのです。

しかし世の中の無明の闇の中で盲目的に生きている事に気付かず物事が本当には見えていない人達や、盲目的な者達の系譜に連なる人達は、物事を対立的な概念として捉え、信じるとか信じないとか、そう思うとかそうは思わないとか、否定したり肯定したり、良不良、善悪、好嫌、優劣、苦楽、美醜、生死、有無、寒暖、愛憎、表裏、長短、明暗、禍福、運不運、条理不条理、賢愚、神と悪魔、仏と鬼、聖俗、悟り迷いと分別し、分断し、断片化して、全体性(一体性)を破壊して取り出して、断片化させ一方に偏って何たらこんたらと能書きを加えて自己肯定化しようとするのですが、全体性を破壊して取り出した物事の断片を以って、対立的で両極的な概念を積み重ねても、無明な暗闇の中で盲目的に手探りで全体的な実体を把握しようと試みているだけでしかなく、全体性、実体性の把握や真実(真理)を理解することなど出来ないのです。

●心象(フレーム)
人は心象(フレーム)により物事を捉え、自分と他人とを映し、自分と世界とを映し分別して認識しているのです。
しかし物事や他人や世界を在るがままに眺めれば、自分という存在も全体性という調和した世界の一点(一視点)でしかないのに、自分の心象(フレーム)で、全体性の中から心に掛かる物事を切り取って主観的に認識しようとしているのであって、飛んでる鳥も自分の掌で遊び、吹く風も向きが変わる意図された心象(フレーム)に他ならず、調和し存在する在るがままの世界には、肯定も否定も、美も醜も、優劣も、善悪も・・・・なく、全ては相互依存的関係性(縁起)の法則の上に在るがままに或る、完璧で審美な存在なのです。
釈迦尊(ブッダ)が涅槃への到達により発見なされた完璧な真理(摂理・自然法則)を説く仏の教えである仏教が、何故に分裂し分派し宗派化してしまったのかと言えば、それは釈迦尊(ブッダ)が説かれた仏の教えを本当には理解できていない無明から目覚る事が出来ない盲(めくら)な先達に道を教わるという無明な者達の系譜を営々と築いてきたからに他ならず、階梯的階級(ヒエラルキー)を否定する釈迦尊(ブッダ)の教えに反する戒律を設け、その盲目的な者達の系譜の上に於いて、釈迦尊(ブッダ)は輪廻転生を否定されたとか、空の思想に包括されたとか、色々な世迷言で塗り固め、中には釈迦尊(ブッダ)の生まれ変り(再誕)を名乗る節操のないパラノイア教祖が、仏教を理解する事もできずに、ブッダの再誕を否定するものは仏教ではない!などと、めちゃくちゃな空論を一冊の本に認め出版していますが、これは少しでもまともな仏教を学べば言外な話であり、釈迦尊(ブッダ)ご自身が明確に、継続の輪(輪廻)を外れ二度とこの世で女性の胎内に宿る事などなく再誕するも事はない。と仰って居るにも関わらず、仏教思想と釈迦尊(ブッダ)の名声と権威とを利用してカルト的で倒錯的な自分たちの信仰の無明な本質を取り繕うのに懸命な余りに釈迦尊(ブッダ)を否定してしまっている愚かさにすら気付けず省みる事が出来ない集団を形成しているのです。

また作意的な者達は釈迦尊(ブッダ)は色々な未熟な経典を説いた最後に正しい仏教である我が派の三部経典を説いたなどと荒唐無稽な事を公然と宣い、顧みる事がありません。釈迦尊(ブッダ)が到達し発見された真実(真理)は完璧な真実(真理)であり死後200年を経て生臭の夢枕に立たれて邪教を説く事など在り得ない話なのであり、釈迦尊(ブッダ)を毀損する反仏教とも言えるのではないかと思います。

仏の教えはこれらの無知(無明)に気付き、自惚れ・錯覚・偏り・洗脳(染脳)を捨て去り離れ捨離し、妄迷を乗り越え超越し、真実(真理・摂理・自然法則)に目覚め覚醒し、愚かな束縛から解き放たれ解放され、物事を冷静にそして客観的に偏りなく眺め、考え、分析し、検証し、物事を正しく理解し定義し真実(真理・本質)を見出すことが必要なのであって、決して信じる事ではないのです。
それは五蘊機能による偏った感覚、偏った記憶、偏った感情、偏った意識、偏った主観、偏った自我により全体性を両極の片端に寄った認識を試みて、それを単独で存在しているかの如く固定的に実存的に捉えようとする、相互依存関係が理解できない事に他ならないのです。

例えば、生死と言う一体なものを生に焦点を当て、死を遠ざければ生に存在の価値など見い出せないのです。何故なら死を条件として生が有るという縁起に遵った存在であり、死があるから、生に価値があるのであり、単独的に存在する生というものが有ったとしたら、それは苦(ドゥッカ)そのものに他ならないのです
から。例えば神様が居るとか居ないとか、信じるとか信じない、こっちの水は甘いぞ、あっちの水は苦いぞと無益な争いや憎しみや恨みが絶えないではありませんか。世の中を見渡せば皆んな自分の立場にしがみ付き明確な真実(真理)による根拠も無く、主観的で自我的(エゴ)な妄想や倒錯によりドゥッカを深めているのです。

それらは全て、真実(真理)の光明で照らし出し明確に物事が見えた瞬間には消滅してしまう本質の妄迷なものなのですから。
付け加えるならば神や仏とは人間の持つ本質的なドゥッカ(弱さ・怖れ・不安定・不完全・・・・・・・・)による自己保存欲や自己防衛欲が、保護・安全・安心・恩恵など渇望の心理投射として人間自身が創造したものであり,それらを投影した象徴的(シンボリック)なものであり自分に保護・安全・安心・恩恵と生存をもたらしてくれる万物への感謝・崇め・敬い・怖れなどに寄って立つ信仰なのでが、それを世の中で頻繁に行われる「摺り替え」という高等テクニックを用いて作意ある人達の手のより人間の持つ心情・情緒・情動に訴えかける洗脳(染脳)的に摺り替られた得体の知れない神や仏や超越的な能力への信心が人々を益々と無明に、そして盲目的にさせて行くのです。

蛇足として次いでに言えば仏教的には、神とは仏教に対して好意的な人々を指し悪魔とは仏教に対して悪意を示す敵対的な人々を指しますが両極が存在することにより切磋琢磨して成長して行ける有り難い悪魔さん達だと言えるのです。
そしてこの無明を乗り越え超越し、目覚め覚醒し、解き放たれ解放される為には叡智そして絶対叡智が必要なのです。
この叡智そして絶対叡智については中部経典「ダートゥヴァンガ・スッタ」及び「絶対叡智」の章に明確に説かれていますので参考にして下さい。
■縁起の法則という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は渇愛は生起させ、渇愛を条件とした五集合要素(五蘊)は煩悩(生存欲)を生起させ煩悩(生存欲)に執着した五集合要素(五蘊)は感情を生起させ、感情に執着した五集合要素(五蘊)は自我(自意識)を生起させ、自我に執着した五集合要素(五蘊)は妄想を生起させ、妄想により捏造された意識や記憶と現実とのギャップにより、苦や悩み・不満や憎しみ・恨みや辛みなどを生成し深めてさえもいるのである。理想であると錯覚している妄想と現実とのギャップを受け入れる事が出来ないのは、煩悩(生存欲)が捏造した自我(自意識・エゴ)なのであり、無知(無明)なるが故であり、無知(無明)を真理に置きかえれば、全ては消滅する性質のものであり、ただ因果律の条件性に則って生起しているだけである事に気付き、盲目的な妄想の闇から脱して、真理や事実を発見してゆく事こそが妄想の呪縛から解放されて真の幸せや歓びや平安を体現してゆく道なのです。

仏陀曰く、「愚か者は、幸福を願い求めながら、無明なるが故に、いつも幸福を取り逃がす。」
人は苦と不満は容易に感じることが出来る。それは人間の本質が苦と不満から成り立っている存在だからである。しかし人は幸せの感じ方が本当は解っていないのです。(無明)

所有欲(物欲・金財欲・権力欲・地位欲・家庭欲・名誉欲・・・・・)あらゆる欲に執着させてゆくものは存在の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)による五蘊(眼耳鼻舌身と色声香味触との出会いによる色受想行識)の精神作用により生じる概念が造り出す感覚と感情である貪瞋痴(不善処)による苦と不満(渇き・不安定)とがそうさせるのである。それら所有欲を満たすと一時的に快楽を得ることが出来、不安定な心が一時的に安定するからである。しかし所有欲によって得た快楽はいつまでも続かず再び苦と不満へと戻ってしまうから又、新たに欲するという苦と不満の中を流れ彷徨ってゆくのです。(死して彼岸の淵を彷徨う者は、この世でも流れ彷徨う。)

■あらゆる所有欲に魅入られ執着しないためには欲が満たされば良いのだが「所有欲に満たされること無し」なのであり、真に満足を得る法は「足るを知る心」だけなのである。
盲目的に所有の次元に翻弄され苦と不満の中に人生を送り、悔やんで恐怖して死ぬ人を無明というのである。
無明とは「明かり(灯り)がない状態」つまりは不安定状態なのである。その不安定を安定化させようと物欲(購買欲・家族欲・所有欲・愛欲・金財欲・・・・)に魅入られ、小さく短命な灯りを都度々々に燈し続けて、本質的な苦や不満・不安・心配・恐怖を一時的に逃れながら生きてゆくのである。それ故に死が迫る来たるとき、それらの空しい灯りが一つ一つと消えてゆき、段々と暗くなってゆく心の中で後悔や恐怖や錯乱に陥り、人によっては神や仏に縋ろうともするのです。

死の直前には自分の一生に対する評価を下すと言われる。それは後悔を伴い、どれだけ出世したかや金儲けできたかではなく、「自分にはもっと大切で崇高な生き方という道があったのではなかろうか。」「一生のうち自分がどれだけ愛やぬくもりを他人と共有できたか」になると言います。

仏陀は仰った「一切の苦悩は無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのだ」
◆十二縁起(因縁)
●誕生により条件付けられた老死
      ↓↓
●老死により条件付けられた無明
      ↓↓
●無明により条件付けられた不安定さ
      ↓↓
●不安定さにより条件付けられた煩悩(存在欲)
      ↓↓
●煩悩により条件付けられた渇望
      ↓↓
●渇望により条件付けられた煩悩(存在欲)の暴走
      ↓↓
●欲求  快楽を求める欲望
      ↓↓
●感受⇒感覚⇒記憶⇒達成度
      ↓↓
●感情 衝動を生じる
      ↓↓
●意識 想念・概念
      ↓↓
●表層思考域 言語化し主観を生じる(快楽の欲望に基づく)
      ↓↓
●主観⇒雑念⇒妄想⇒記憶域に蓄積してゆく
      ↓↓  *今在る現実を受け入れ味わおうとしない
●自我意識(エゴ) 快楽を目的とする妄想の現実化への渇望
      ↓↓
●無明により、不満(ドゥッカ)を記憶域に蓄積してゆく
    これが不浄への流れです