世の潮流

貴方の幸せとは何ですか?
何に喜びを感じているのですか?
人生を.煩悩(存在欲)の欲望が引き起こす衝動に従って、貪瞋痴(三毒・貪欲.瞋恚.痴愚)の炎に焙られながら、無明という暗黒の闇の中を手探りで盲目的に恐怖と迷いと儚さに抗いながら、所有により感じる.一時的で短命で無常な喜びや幸せを救いとして、膨大な苦と不満の中を生きてゆく事が、果たして本当に価値ある生き方なのでしょうか?…本当に幸せな人生なのでしょうか?…皆もそんな潮流の中を生きているのだから、しかたのない事なのでしょうか?
その方向には本当の喜びや幸せなど無いのではないか?と、思いませんか?
所有する事により得られる一時的で短命で無常な喜びや快感や幸せとは、本当は苦(悪魔・ドゥッカ)であり、苦(悪魔・ドゥッカ)が一時的に快楽.喜び.幸せに擬態して現われているだけに過ぎないものであり、だから短命で.一時的で.無常な本質へと帰り着くのだとは思いませんか?
どうして真理を照らし出す光明(真の幸せを理解する叡智)を求めずに、得体の知れない神仏や眉唾な霊力に安らぎを求め、依存しようとするのですか?
●論理の墓場
無い事を証明することは出来ないのです…だから無い事の証明を[悪魔の証明]いうのです…
それは仮に世界中を隅から隅まで.お空の彼方まで.そして地中を人類の可能な限界まで掘り返して探し廻ったとしても悪魔が居ない事を証明することは出来ない…それは探し廻った.もっと先には居るかもしれないという論理の墓場が待ち構えて居るのですから…
この諸行無常な世の中とは、良い事があれば.悪い事もあって、それで当たり前の世界なのですが、新興宗教をはじめ得体の知れない神様や仏様や霊能者を信仰.信心して.題目を唱えれば救われるという論理は、裏を返せば信仰.信心しなければ、災いに遭うという威嚇し(おどかし).脅し込みに他ならず、神や仏や霊能者から見て.悪人だから罹災し、信仰.信心が足りないから不幸な目にあうのだと無責任に宣って.信者という無明な犠牲者を造り出しているのですから…
●世の潮流とは
仏教の教えとは、世の潮流に逆らうもの…
それは人間の利己主義的な欲望、自我意識による利己的な欲望の追求が世の潮流であるが仏教の教えとは、それらこそが諸悪の根源であると観るものなのですから…
地位や名誉、金銭財産を山のように蓄えて、豪華絢爛な建物に住み、華麗な衣を身にまとい、贅沢なご馳走を堪能して、才色兼備なものに傅かれて暮らすのが幸せだと、それら無常な物事を既に所有するものを恰も人生の勝利者でもある如く垂涎し.崇拝しながら、持たざる者達は自分もそう成りたいと脇目も振らずに追い求めて.大切な日々を費やしているが、そんな世の潮流を造っている[所有の次元の事物]の所有者が.果たしてそれで満足できるのだろうか…却って心配.恐怖.苦しみ.空しさ.悔い.憂い.不満.欲望を積み上げているのではなかろうか…

しかし、無明な人々は、それを理解することが出来ず.それを[やっかみ]としか捉えられない…真理(真実.事実.現実.実相)とは、実に捉え難いものなのです…
●仏教の目的とは

水は高き処から、低き処へ向かって流れるもの…
低き処に淀む水も、昇華できるならば天から地上に遍く降り注ぐことも出来るのに、低き処の水が.そのままに高き処へと逆流できると唱えるのが、信仰宗教であるとも言えるのです…
仏教はそんな世の潮流を形成している妄迷.迷信.無明に覆われながらつむいでいる盲目的な系譜から、目覚め覚醒し…乗り越え超越し…解き放たれ.解放され…捨て去り離れ.捨離してゆく事を目的としているのです…
それは無明(本質的無知)からの覚醒.超越.解放.捨離であり、人が存在に対する無明(本質的無知)の暗闇により.ドゥッカ(不安定さ.不安.不完全さ.苦しみ.不満.悩み.心痛.恐怖.悔い.憂い.嘆き.哀しみ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無常さ.欲望)の中を生きているのは、暗闇を照らしだす真理(真実)という灯明がないからであり.無明(無知)の闇の中を盲目的に手探りで暗夜行路してゆき者.物.事に翻弄されながら必ずドゥッカへと行き当たる方向へと歩いているからなのですから…