拠り処(精神的支柱)

人は自らが.自らの主人であり.それより高い処から人の運命を差配したり審判するような神.仏などの絶対的な存在や力などなく…人は自らが自らの拠り処となり、他のものを拠り処とするなかれ…法(真理.法則.仏法)を自らの拠り処とし、他のものを拠り処とするなかれ…
人は自らの努力と知性によって、汎ゆる束縛や無明やドゥッカ(苦)から自分を解放することが出来るのであり、自己解放は人が自ら真理を実現することにより得られるものであり、神や仏や外的な力から、その従順な信心.信仰.崇拝に対する報いとして与えられるものではないのですから…
例えば、教師や反面教師から何かしらを学ぶとき.自分の主人は自分であるが、神や仏やその代理人だと主張する教祖とか教師という輩の言葉や教えを学ぶとき、その得体の知れない神や仏やその代理人を主張する教祖とか教師とかいう輩が自分の主人に就り、自分はその従者に貶めらてしまうのです、その束縛の中で得られる何かに包まれる.束の間の安心感や喜びなどが自閉症的なものに過ぎないと気付くことが出来ずに酔生夢死してしまうのは憐れなことであり、人は自らの主人なのですから、従者(感覚.感情.主観などの精神作用)を上手く差配.コントロールして.決して乗っ取られることがないよう自覚が必要なのです…
信仰.信心とは物事が本当には見えていない無明の闇の中を彷徨っている場合に生じるものであり、物事が明確に見えた瞬間には消え去り.霧散する性質のものなのです…
心の不純さ.不浄さの消滅は物事を知り.物事が見えている人にとってのみ可能なことであり.物事を知らず.物事が見えていない人には不可能なのです…それは欲望が優先しているのですから…
生命はドゥッカ(苦)のエネルギーによって生かされているのですから、不安定で不完全で弱く.脆く.儚い.恐怖の中を生きる人間は依り処(精神的支柱)を必要として渇望するのです…
人間には自己防衛と自己保存という根深い本能的な心理があります…
自己防衛心理について言えば、愚かで不完全な人間は.子供が親に頼るように、自らの保護安全.安心の拠り処として神や仏を造ったのであり、自己保存心理については永遠に生きる自分の本質的存在として不死の魂.霊魂.霊体を造ったのであり、無明の闇の中を盲目的に手探りで、暗夜行路を行くが如く生きる人間はその無知.恐怖.不安.迷い.弱さ.欲望などの苦しみ(ドゥッカ)から自らを慰める為に、これら二つの心理を拠り処(精神的支柱)として熱烈にしがみつこうとするのです…
科学は進歩しましたが、まだ混沌とした現代社会に於いて得体の知れない神仏や力という妄想から目覚めない人達もまだ多く、また得体の知れない神仏や魂.霊魂などへの依存からは目覚めても、無明なまま.不安定で無常な本質の所有の次元の事物(金財.物欲.地位.権力.権威…)への欲望と執着へ、拠り処(精神的支柱)先を変更しただけに過ぎず、それは却って無明の闇を深めさせる事となり.ドゥッカ(苦しみ.迷い.悩み…)を晴らすことが出来ずに彷徨っているのではないでしょうか…

また、魂.霊魂という永遠の存在という妄想的な考えは該当しない実体として捉えさせた自分.自己.自我という意識を造り出し.変化してゆく現実の中で戸惑ったり.意に沿わぬ現実の中で苦しんだり、利己主義的な欲望や煩悩的な執着.憎しみ.怒り.迷い. 悪意.自惚れ.傲慢.エゴ.不純さ…その他さまざまな弊害をもたらす.それは個人的ないざこざや争いから国家間の戦争に至るまで、世界中の汎ゆる問題の大基でもあり、突き詰めれば諸悪の根源はこの誤った考えに基づいているのですから…
人間とは他から独立して自分一人では一時も存在し得ない存在であり、依存関係性の中で存在(現象的)しているに過ぎないのですが…

世の中に溢れ返っている偏った知識.情報に煽られ欲望をつのらせ、その不安定な本質(ドゥッカ)を何とか安定化させる支えとなる拠り処を外界に探し求め、下らない物事.どうでもあい物事.つまらない物事に気を取られたり.捉われたり.執着したりしながら、ゴチャゴチャと雑念や妄想に陥ったり、勘違いしたりしながら、却って安定性を失ってゆく事もとなり、その欲望という隙を見つけ、取り込み.漬け込もうと悪しき者達は耳障りの良い言葉を囁きながら近づいて来るのですから…

堅固で安定的な拠り処は、自らの努力と知性による.無明(本質的無知)からの覚醒.超越.解放でしか得られないのですから…


世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、心の依り処(依存の対象)という因縁から発生する…

彼が正に[在るがままに]知ることなく、心の依り処を作るなら、彼は愚か者であり、繰り返し、自ら苦しみへと近づき行く…
それ故に[在るがままに]覚知している者となり、
苦しみの出生の起源を随観する者となり、無常な心の依り処を作らないように在れ…


自分自身を依り処とし.自分自身を避難所とし.

他の誰をも.避難所とすることなかれ…

法(真理)を依り処とし.法(真理)を避難所とし.

他の何ものをも.避難所とすることなかれ…

 


人間は本質的には無明(盲目的.無知)な状態でに生まれついているのです…

生存の素因でもある煩悩(存在欲)は、盲目的に、生きていたい.存在し続けたいと、無常なものにも三毒(貪嗔痴)を伴って依り処(精神的支柱)として依存したいと渇望するのですから…

成長するにつれ、色々な知識や情報を積み上げて行きますが本質的で根深い無明の闇を晴らすことは出来ないのです…
ですから無明という一寸先は闇の中を.盲目的に手探りで.無常の業火に煽られながら必死に生きているのです…

本質的な無明により、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.憂い.迷い.不安.悔い.恐怖.不満.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.無常さ.実質のなさ.惨めさ.欲望……)は生じ、付いて廻り.ある意味.ドゥッカに生かされているとさえ言え、無明の闇を抱えたまま.ドゥッカから逃れることが出来ないのです…
人間とは本来そんな存在ですから、自身の保護.安全.安心.恩恵を欲し渇望し.自己保存と自己防衛の為に.何かしら心の慰めとして依存する依り処(精神的支柱)を必要とし.人それぞれ何かしらを依り処として儚い安定を保ちながら辛うじて生きているのです...

しかし妄迷な人は、自分には何も依り処(精神的支柱)など必要とせずに生きていると錯覚しながら、却って取り留めもなく欲深く何かしらにに依存していたりしています…

先ず言えるのが、人間という存在は自分ひとり他から独立して単独には一瞬たりとも生きる事ができない存在であり、汎ゆる因果律に従った相補的関係性のお陰さまで生かされている存在なのですから…

例えば.先に進むためには疑いを晴らして行かなければ先へは進めません…

それはハシゴを昇るようなもので、横木を片手で支えとして昇り、次の横木をもう片方の手で支えとしながら昇ってゆくものですが…もし次の横木が信頼出来ず、躊躇っていては上へは行けません…

[生きる][昇る][先へ進む]は同義語でもあり、何かしらを信じ信頼して依存する依り処なしには生きて行けないのですから…


現代人の一番.愚かな所は、無明なまま[宗教観を喪失]してしまった事であり、現実的な部分で得体の知れない神仏や怪しげで眉唾な霊力を否定しながらも.心の中に覚悟たる宗ねとなる教えも生き方も.依り処(精神的支柱)もない[糸の切れた凧状態]のまま、風に吹かれて.煩悩と欲望の赴くままに無節操に取り留めもなく欲深く.何かしらに依存しながら生きている自分に気付いていない事なのです…

煩悩に征服され、感覚や主観に翻弄され、欲望の炎に煽られて、苦と不満の中を生きるより、自らを律し、敬虔に生きる人のほうが自分を高めて幸せに生きられるのですから…

確固たる依り処(精神的支柱)の喪失から、便宜的で付随的で無常な所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.勢力.若さ.健康.寿命.外見.家族.伴侶…)を依り処(精神的支柱)とし、それが為にドゥッカの中を翻弄されながら彷徨うこととなるのです…

例えば現代人ともなれば、得体の知れない神様や仏様とかお化け.霊魂.超魔術など眉唾なものに過ぎないと頭では理解できてるのですが、煩悩(存在欲)は不安.保護.安全.安心.恩恵の為の自己保全と自己防御への根深い欲望の前に.理解できずに…存在していて欲しいのです...不思議や第三の目とかファンタジーやSFスペクタクルは、煩悩の要求に全く適っているから、人気が衰えることがないのですから…

 


妄迷と迷信に被われた世界に出現した革新的な真理の教えが仏教であり、得体の知れないものへ依存し依り処(精神的支柱)として盲目を深める人々に、真の救いである真理(真実.現実.事実.実相)の光明を依り処(精神的支柱)とした堅固で開明的な安らぎの世界がある事を説いたのが智慧(叡智)を前提とする如来の教え仏教であり、如来が指し示す真理(真実.事実.摂理.実相)こそが神性であり仏性であり、この世界で唯一の無為(変化する仮相ではない実相)なる理法.物理法則.自然法則.量子法則.絶対法則への依存こそ堅固な安定.安心.実相的な悦楽.歓びをもたらす依り処(精神的支柱)なのですから…

子のある者は、子について憂い、
また牛のある者は、牛について憂う。
人間の憂いは執着する拠り処により起る、実に執着する拠り処のない人は憂うる事がない
自己の拠り処は自己のみなり
他に如何なる拠り処が有ろうか
自己のよく調御せられたる時、
人は得難き拠り処を得る。
物質文明の真っ只中に生きる現代人は、ストレス.知識.情報.妄迷.欲望.無明.暗愚により安定的な依り処(精神的支柱)を見失い、便宜的な手段.付随的要素に過ぎない所有の次元の事物(金.財.所有物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.承認.健康.寿命…)を安定的で堅実な依り処(精神的支柱)と錯覚し.存在の次元がある事に気付く事もなく.却ってドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.迷い.哀しさ.怖さ.不安定さ.不完全さ.儚さ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明.欲望)を深めている。
それは言わば真の芸術とは自己完結しているものであり、他人の評価や価値観に依存するものではなく、どんなに権威.名声.信頼があろうが評価.価値判断とは単にその人の主観.感覚.概念と一致しただけであり.決して真理を語ってはいないように、世間でいう好感度という類の.凡そ真実を形容しないひとつの感覚的なものに過ぎないものだと言えよう。
人間の本能とは自己防衛性と自己保存性と客観的理解認識能力(理性.知性)という三要素(純質・激質・暗質)により成り立ち[誕生]による無明(本質的無知)を条件として生起する
無知(無明)による本質的なドゥッカ(生存苦.不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.悔い.心痛.弱さ.渇き.怖さ.哀しさ.儚さ.空しさ.惨めさ.無常さ.実質のなさ等)による根深い自己防衛欲により自分の保護.安全.安心.恩恵のために神や仏を妄想して精神的支柱(拠り処)とし、また根深い自己保存欲により永遠的な実体としての魂.霊魂.霊体などを妄想して精神的支柱(拠り処)として、本質的な不安定性を辛うじて安定化させているのであり、己の理性.知性(客観的理解認識能力)や現実が幾ら疑問を呈してもそれらを自分という存在にとって必須な無くてはならない精神的支柱(拠り処)だと錯覚して、それらにしがみ付き乗り越える事が出来ない。それらを否定される事は自分の存在の否定だと捉え怒り恐れ狼狽るのだか、しかし単に信じると言う事は[虚妄]を依り処(精神的支柱)として依存する事であり.それは無明な人を更に盲目的にさせる事であり不安定な本質を更に不安定化させる事に他ならず.自分という存在の真の意義や価値観を放棄し他人の意義や価値感で生きる事を意味するのである。神や仏の価値観を否定している訳ではなく、各人が何を信じ.何を選択し.何を精神的支柱(拠り処)として生きようが悪事に向かわせるものでない限りに於いては自由であり、精神・肉体両面における本質的な不安定状態を一時的にせよ安定状態へ向かわせるものであるならば一定の価値観は見い出せるのだが、真に人を無明の闇の中から目覚め覚醒させ.乗り越え超越させ.解き放たれ解放される道とは真逆な道でもある。それでも何れの道であろうと安定を維持させてゆくことが幸せに生きてゆく為の絶対条件であり、真に堅固で安定的な依り処(精神的支柱)とは真理(真実.現実.事実.実相)をおいて他にはないのである。しかし現代社会においては得体の知れない信仰と、本来的な宗教(宗となる教え・人が人として生きて行く為の精神的支柱.(拠り処)とすべき教訓・倫理・道理・徳目・死生観)を混同し同じものの様に捉え、現代人の中には得体の知れない信仰を捨て去る時に同時に真の宗教観(精神的支柱)さえも放棄してしまい、肉体的.精神的な本質的不安定を安定化させるための精神的支柱(拠り処)を所有の次元の事物(金銭.財産.物欲.地位.名誉.称号.身分.権威.権力.勢力.家族.承認.評価.見栄.健康.長寿…)に盲目的に求めた結果として、それらに魅入られ誑かされ執着し、却って苦や悩みや不満や恨みや争いを造り出して不安定な人生に翻弄されているのではなかろうか。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
※自らが正しく眺め理解した真理(法・真実.摂理.自然法則)を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とはするな。
⚫では何を精神的支柱(拠り処)として生きてゆくべきなのかと言えば、真理(真実.事実.現実.実相)であり、諸行無常(常ならず変化生滅している)のこの世の中においては、凡そ全ての物事はその関係性・相対性における縁起(条件によって生起し、条件によって消滅する)とい因果律(物理法則・摂理)に支配されているから、所有の次元の事物は皆、いつか必ず去っていったり.壊れたり.失なったり.盗まれたり.飽きたりと価値が変わったりと条件性を前提とする事物なのだから必ず苦や悩みや不満や恨みや争い空虚や不安定(ドゥッカ)へと還り付く性質のものなのであり、この世界の中で真に精神的支柱(拠り処)とすべきものは条件によって変化したり消えたり逃げたりしない唯一、絶対的(無為)な真理(真実)という堅固なものを精神的支柱(拠り処)とすべきだと、お釈迦様は説かれたのであり真に安定的な幸せの為には.真理の発見とその修養の道を[自燈明]自らの内にある真理を認識し理解する能力による(叡智)を精神的支柱(拠り処)とし、[法燈明]法則(真理)という安定的な実体(条件により生起し条件により消滅しない唯一のもの)を精神的支柱(拠り処)とし、他の一切を精神的支柱(拠り処)にしてはならないとお釈迦様は説かれているのです。
「頭ではなく心(サンニャサンカーラ・想行蘊)が無常なる流転の法を理解できたら、全てのドゥッカ(苦・悩み・空……)から解放される。」