情報と知識

人間にとって情報や知識とは無明(無知)な心に智慧の光を当ててくれる必要不可欠なものです。
しかし同時に、色のついた光・歪んだ光・一面しか照さない光により無明(無知)な人間は間違った情報や歪んだ見解や偏った観念を真実(真理)だと錯誤させてしまうものでもあるのです。
世間にはありとあらゆる情報が溢れ返っていますが、知識(智識)とすべき真実は実は僅かである事に気付かずに、鵜呑みにしてしまい受け入れ迷妄と無明を蓄積し自惚れて慢心した主観的な自我(エゴ)と妄想を深めてゆく人々が今の情報社会に於いて却って無明の闇を深めているのではないでしょうか。
人間は恒星的(太陽)にも惑星的にも又その周りを廻る衛星的にも成れる、惑星的とは自らの輝きはないが恒星(太陽)からの光により自らが輝いていると錯覚させる人を言い、実際の自分は存在の価値の輝き、智慧の光明の輝きで自らが光っていない事に気付く事もなく、ましてその光が真実(真理)の輝きではなく色や明暗や歪んだ光で照らし出している事もあり、恒星(太陽)のように真の自分の存在の価値や叡智の輝きで光らせる為のものでなければ、情報や知識も決して無明(無知)な心に光明を灯してくれはしないのです。
●スッタニパータ(集経)に説かれる
見解や伝承の学問や戒律や誓いや思索や、これらに依存して他の説を蔑視し、自己の学説の断定に立って喜びながら反対者は愚人であると真実(真理)に達してない人であると言う
これらは権威に依拠した情報操作であり言論誘導であり反対者や異論を異なる思想を貶める事により排除し自分達の主張を正当化させようとする、最も真実(真理)に反し真実(真理)から遠ざける試みだとも言えるでしょう。
こういった無明な権威主義に踊らされず謙譲でありながら真実(真理)へと向かう克己を忘れてはならず、無明の闇に覆われたまま自惚れてしまい、過った妄見を以って満たされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、自ら心の内では自分を第一人者だと自認するに至り、真実(真理)を恐れぬ外道・邪道に陥らぬよう自分を戒めねば、到底真実(真理)に到達する事は出来ない。
情報に踊らされ、情報に惑わされ、情報に騙され、情報を餌として社会に張り巡らされた罠に引っ掛かり、大切な時間と金財を無駄に浪費してしまうのも真実(真理)への知識と認識が少ないからであり、争い、憎み、怨み、迷い、悩み、苦しむのも情報を知識と錯覚して頭の中にゴミの山を積みあげ真実(真理)を埋もれさせ真理から遠退いているからに他ならりません。
情報とは飽くまでも分析し検証し確証が得られるまでは生ものであり、食せるものか食したら腹痛を起こすものか、山の物か海のものかも解らないものであり、作為的、誘導的、扇動的、洗脳的(染脳的)、主観的な見解や主張や史観であるかも知れず、それらを安易に鵜呑みにし知識だと信じて、蓄積して行く事により真の自分である自分らしさを毀損したり見失ない、自我(エゴ)的執着を膨張させ偏った情報への貪りを、欠かす事の出来ない大切なものだと錯覚し益々情報に翻弄されて行ってしまう事になるのです。
否定的な情報にしても肯定的な情報にしても、それを無闇に信じる事とは、未だ実際には開けた事のない箱の中に何が入っているのか解らない状態であり、
開けてみれば百聞は一見に如かず、真実は明白に姿を現し最早、否定も肯定もなく事実だけが明白に存在するものであり、それは情報ではなく事実(真実)であり智識なのです。
否定・肯定、好嫌・・などと言うものは開け方が解らずに、中にはきっと良いものが入っているだろうとか、中には多分、危険なものが入っている筈だとか、自分の考えに添うとか添わないという主観的な推論を正当化しているだけに過ぎず、そんな空虚で曖昧な見解とか論説を信じるとか信じないと分別しようとする無明で愚かな事であり決して智識でも知識でもないのです。
空の思想もつまりは情報という実質のない空虚に寄って立つ認識の空しさを説くのであって、無常なる世界を空と捉えるとは、有学による情報・知識による真実(真理)追求の限界を覚り、無学による情報・知識に根差す次元から超越した空(無情報・無知識)の次元による深淵に潜む大いなる真実(真理)の発見を説くのであり、それは文字や言語では表現し難い領域でもあり、釈迦尊(ブッダ)が書籍や仏典として御教えを残そうとされなかったのも後の世に浅薄な者達や半端で未熟な者達が文字や言語による情報や知識の理解を以って釈迦尊(ブッダ)の教えを理解したと錯覚し、真実(真理)への到達の道から脱落する事を懸念なされた、正に此処にあるのです。
釈迦尊(ブッダ)は仰っています。
「例え、私が言った言葉でさえ安易にそのまま鵜呑みにして信じてははならない自ら確かめる事もなく信じる事を盲信と言う、自ら検証し確証が得られて初めて信じる事を正信と言う。」
世間では安易に信じる事を美徳のように捉えて勝ちですが、それこそ作為的な者達による心理誘導であり、真実は「安易に信じる者は騙される。」ものなのです。
如来の教え、仏教の本質は「疑い」であり、物事を疑いの目で以って自ら冷徹に集中して客観的に、観察し分析し思惟し検証し確証を得て真実(真理)を理解する事であり、世界を疑い、他人を疑い、自分を疑うのです。
人が真に進歩し成長するには疑う事が欠かせないのです、物事すべからく疑問を疑問のまま放置しては先へは進めないのです。
進歩し成長してゆく為には、疑問を一つ一つ解明してゆく事がやがて大きな疑問を解明するのです。
その道程において常識だ智識だと錯覚して自ら検証することを怠って、思い込み・先入観・固定観念・既成概念・世評・迷信・伝聞・通説・学説・習俗・伝統・文化・歴史・格調・勢力・錯覚・妄想・情緒・倒錯・誤解など偏った見解や観念に惑わされ迷わされ誑かされていては到底,真実(真理)へは辿り着けないのです。

如来品正師語録から抜粋
  情報と知識
現代人は世の中に溢れ返る情報に翻弄され呑み込まれ溺れ、それにより迷い偏り無明を深めているのではあるまいか。
テレビから溢れ出る音声情報と映像情報、本屋に並ぶ書籍情報、インターネット情報、不確かな伝聞情報、伝統・文化・権威の前に錯覚してしまう情報、迷信的な情報、倒錯的な情報・・・例え多くの人達の支持を得ている情報であったとしても社会に溢れる情報とは単なる他人の見解に過ぎず、そのまま信じて知識だと思ってはいけない、それらは真実や覚醒を謳いながら主観的であったり偏っていたり間違っていたり迷信的で倒錯的なものが殆どで中には洗脳(染脳)や誘導を目的とする罠も張り巡らされているのである。まして情報とは他人の牛をただ数えてるだけであって、他人の牛を幾ら数えても自分の牛にはならない、他人の牛は他人の牛なのである。
溢れ返る情報の蓄積により、本当は何も解って居らす、単に情報として知っている、記憶しているだけに過ぎす識っているとは言い難いにも関わらず、知ったつもりになり、自惚れながら頭の中に屑とも言える情報によりゴミ屋敷を築いて行き、無知(無明)な本質の上に築いたゴミの山によりエントロピー(乱雑さ・混沌)を高め、解答に至る確度を一割と見積もるならば残りの九割は混沌に到る確率なのであり、ドゥッカ(苦・痛み・悩み・迷い・悔い・不満・惨めさ・儚さ・哀しさ・虚しさなど)に行き着く事となり、まして自我(エゴ)の選択による妄想的な観念を増長させ人間を欲深くさせてゆくのである。
だから世の中には空理空論な情報や形而上的な情報を知識だと勘違いして非現実的な倒錯的な世界へと陥ったり、情報を知識だと錯覚して高尚な能書きを垂れながら真実は浅はかな人格の持ち主が多いのではないだろうか。
情報とは決して知識ではなく、本質を理解した訳でも確実な根拠や認識を有する訳でもなく無知なまま知ったつもりにさせる錯覚であり、知識とは智識とも言い、物事の本質や実相を定義し理解し認識できたものが智識であり、智慧が伴い実践の中で真に自分を向上させ、成長させ、高め、幸せへと導くものを言うのではないだろうか。
       如来品正師 多々方 等正覚
●真正な仏教
真正な仏教が説く道は物事を客観的に冷静に眺め、分析し、理解する道であり、人々に誤った楽園や極楽浄土を約束したり、得体の知れない神や仏や超能力などを妄想させ不安や怖れや罪を掻き立てたり誘導したりしない、寧ろ信仰や信心などに誘導され洗脳され翻弄され、大切な時間と金財と人としての生命と情熱を浪費させ、無明を深めてゆく犠牲者とも言える多くの人々を盲目的な闇の中から真実の光明のもとへと導くための教えである。
真正な仏教は人と世界の在るがままを正確に客観的に説き、人々に完全な自由、平安、静逸、幸福への道を指し示すものである。
如来品正師 多々方等正覚