一信懸命

それが例え.愚かな先達が興した偏った信仰であったとしても盲信することなく、信念を以って懸命に一信するならば心の平安を得ることが出来る…
それが.無明の闇を晴らし、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、真理を依り処(精神的支柱)とする頂乗仏教であったとしたら尚更、堅固である…
懸命とは命懸けの意味でありますが、一生を命懸けで生きるのは些か骨が折れそうであり、一処で懸命に生きるのも狭っ苦しそうでもあり、人間、自由に.自分の意志と信念と智慧に殉じて懸命に生きてこそ報われるのではないでしょうか…
人間は.無明(本質的無知)に生まれ付いているのです…それに気付かず自惚れて.煩悩(存在欲)が創り出した自我意識(エゴ)に翻弄され確証もない仮説や知識.情報.空論.観念.戯れ言.能書き(プラパンチャ)に惑わされ[自分は正しく.従って他は間違っている]という邪見に蓋われ.閉じこもり、無明の闇の中を盲目的に彷徨い生きる事となるのです…
人間とは無明ゆえ一寸先の闇に不安定.不安.恐怖.心配.欲望.渇き…(ドゥッカ)を抱えながら手探りで生きているのです…
だから人間は何かしら精神的な支えを必要として.得体の知れない信仰であっても.自己防衛.自己保存の為に安定.安心.安全.守護を得ようとしがみつき.一時はもたらされる儚い安らぎに.無くてはならないものだと錯覚してしまうのです…
しかし霞の如く.幻の如き変化生滅するものへ永く.堅固に安定.安心して寄り掛かることは難儀であり余程の信念が要求されるでしょう…
では堅固で安定的で変化生滅してゆく事のない依り処(精神的支柱)など在るのでしょうか?
それこそがお釈迦様が発見された絶対真理(ダルマ・真実.事実.現実.実相)という.この世界で唯一無二の無為(変化生滅してゆかないもの)を確信とした自分を依り処(精神的支柱)とする教えなのです…
⬛至高な存在から崇高な存在へ
人間存在こそが至高であり、人間は自らの主である…人間より高い位置から人間の運命を審判できる得体の知れない神や仏など存在し得ない変化生滅してゆく諸行無常な世界である…
[自らが自らの依り処であり、自らの知性と努力によって真理を見い出すことによって、汎ゆる束縛から自らを自由にすることが出来るのだから…自らの信念を啓発して自らを解放できるのだから…]
自己解放は人が自ら真理を実現することによって得られるものであり、神仏あるいは外的な霊力などによって.その信心に対する報いとして与えられるものではないのです…
物事を鵜呑みにして信じる事は愚の骨頂であり、疑わず信じるとは物事を本当は見えていないまま盲目的に追随してゆく事に他ならず先に進むためには疑問をなくして理解してゆく必要がある…
愚かさと不純さの消滅には物事を真に理解し物事が見える人にとってのみ可能な事であり、物事が本当は見えず.識らず.ただ盲目的に妄信し.追随する人には不可能なのである…
重要なのは知識あるいは叡智を以って.知ること.見ることにより生じる信念であり、信心とか信じる事ではないのです…
自らの伝統と権威を唯一の真実だと信じ込み不毛で盲目的な系譜を紡ぐ者達とそれを取り巻く者達が.自らの見解に固執し.真摯に仏道を励む修行者を見下し.誹謗すること...如来はそれを捉われと呼ぶ…
仏教とは人を.安全.平安.こよなき幸せ.静逸.涅槃へと導く為のものであり、無明の闇の中を神仏の助けを借りて盲目的に暗夜行路を歩かせる為のものではないのです…