正 見

人、ひとたび正見を得て覚醒すれば草木山河.目に映るもの全ては清らかにある…
心が清らかにあれば.その赴く処.自ずと何処も清らかなり…
世界はひとえに人の心の在り方次第…
穢れて醜いものだと感じる人は.穢れて醜い処ばかりに目が向き…素晴らしいと感ずるならば素晴らしさを見い出すもの…
◆サティとサンパジャーナ(正念正知)
正見とは何であろうか…それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知、これを正見と言う…
正念(サティ)と正知(サンパジャーナ)が組み合わさった正念正知は[覚照力]とも呼ばれる…
経典によれば正念正知は[殊勝な救済力のある功徳]であると描写されているが.それは正見の成就と八正道の体現.証悟に対し用いられる表現であり、これら三法は[明覚]とも[三心]とも言われる…

 

正しく見る[正見]とは、皆さんが無明(本質的無知)であるという前提の言葉なのです…

それは有名大学を卒業してようが.識者としての権威者であろうが.ノーベル賞を貰おうが.皆から揃って天才だと讃えられようが、真実を照らしだす光明を持たずに.一寸先は闇の中を怯えながら手探りで辛うじて歩いている存在に過ぎないからなのです…
◆正見するとは…
正見するとは、ただ因果律(縁起)に従った[現象]の生起や変化や消滅として物事を見る(捉える)ことであり、因縁に従った縁起の上での変化生滅という出来事に過ぎず…もっと言えば感知し.そして認知した瞬間には変化生滅してしまっていて、前の感知し.認知したものは既に無い(存在しない)にも関わらず.それを固定的.継続的に捉えようとする無明な認知能力による錯覚に過ぎない事に気付き.物事をそのように捉えてゆくのが[正見]であり、まして一日の内の大半を締めている[どうでもいい事柄][下らない事柄][つまらない事柄][大した事もない事柄]に何時までも捉われたり、拘ったり、ゴチャゴチャと執着してしまうのも無明だからなのです…

[正見すれば愚かな物事への厭離の心が生じ.自ずと解脱する]

◆眼耳鼻舌身意 (六竟)         視覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      聴覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      嗅覚は無常で(ドゥッカ)なり…       味覚は無常で(ドゥッカ)なり…       触覚は無常で(ドゥッカ)なり…       意識は無常で(ドゥッカ)なり…       六竟.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり              ◆五蘊                 身体は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感覚は無常で苦(ドゥッカ)なり…      感情は無常で苦(ドゥッカ)なり…      主観は無常で苦(ドゥッカ)なり…      五蘊.何れも無常で苦(ドゥッカ)なり…         これらを信じて世界を見れば、自ずと三毒(貪瞋痴)を生じ、三毒(貪瞋痴)に基づいて思考する事となる…              ◆四念処 (私という本質は無し)     [色念処]  身体は身体に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…[受念処] 感覚は感覚に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [心念処] 感情は感情に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…                  [法念処] 五蘊(精神作用)は五蘊に過ぎず.私のものではなく.私でもなく.自分でもない.現象に過ぎない…

◆慈悲                 そして、こうした事実を明確にはっきりと見極めたときに「嗚呼、生存苦(生きる上で付いて周る苦しみ)というのは、ただ.ただ無明(本質的無知)によって生じてくるものだったんだ…」と目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれる(解放)ことが出来、そうだったんだ.「他人のせいでも世の中のせいでもなく、皆んな懸命に生きているのだけれど.無明(本質的無明)なままだから因縁の連鎖から出て行く方法を知らず、あるいは正見の理法(八正道)の実践をする機会もなくて、煩悩(貪瞋痴)に駆られたり.翻弄されたり.苦しみ悩んだりして、迷いながら苦しみ(ドゥッカ)の連鎖の輪の中を.ずっと廻り続けているんだね」ということもわかり、それによって、「人間って悲しい存在だね…無明って本当に辛いよね」と苦しみ(ドゥッカ)に苛まれる一切衆生への共感的な慈悲の心が生じてくるのです。      

●自我の妄想              色受想行識(五蘊)という五つの要素が結合して働くとき、そこに[自分.私]という概念を生じさせ実存的.実体的.実相的な存在という錯覚が自我意識(エゴ)を造り出し、本体的な魂.霊魂.霊体の存在という妄想へと繋がっていくのですが、正見を阻むのがこの[魂.霊魂.霊体]という得体の知れないものの存在への錯覚と自己暗示でもあり、それが因果律(縁起)に従った無常な現象に過ぎない感覚.感情.想念.概念.主観などを.本体的な存在(魂)の意志によるものだと錯覚させ.捉わらせ.拘らせ.執着させ.縛り付けて、[正見]を歪めてバイアスが掛かった偏ったり.誤認.誤智した物事の見方をさせてしまうのです.ですから自分は考える故に、自分という実存的な存在があるという錯覚こそ、自分を縛り付け.自分を苦しめる.自我意識(エゴ)の犯人でもあるのです…[思考はあっても、その思考の背後に本体的.主導的な思考者など居ないのです…]

●人生に勝つ              何を目指すにしろ.人生に勝つには[意志と信念と智慧]が必要です…そしてその為には[自制心と集中力]が欠かせず、[好事、魔の如し]と言われるように何をするにしろ[意志と信念と智慧]を以って物事に向かっていけば.何かしら形が出来ていくものなのですが、順分満帆なときに魔は忍び込み.自制心と集中力を削ごうと煩悩を刺激するのです…そんな煩悩に打ち勝って自制心と集中力を欠かさなければ、余程の運気に恵まれない因縁さえなければ(浄化)、殆どの理性に基づく願望は叶うものなのですから…もしそんな事はないと思う人が居るとすれば、それは自分の可能性を信じなかったか.努力を怠ったか…何れにしても自分に負けたのであり.決して 社会や他人に負けたわけではないのですから…

因果律(縁起.因縁)に従って生まれてきた自分とは現象に過ぎず、現象は成長し変化し消えてゆく性質のもの…           苦(ドゥッカ)のエネルギーによって生かされる身では在るけれど、それらが理解できる人の身に.折角生まれることが出来たのだから、ただ儚い[存在]を感謝し奥深く味わい、この時空.そして苦楽に翻弄されない処までの到達を目指すか、また.この時空に繋ぎ留められるとしても良い処へと再生してゆく為にも、目的意識を失わず[意志と信念と智慧]を以って[自制心と集中力]を育成して、功徳を積んで.心の汚れ[吝嗇(貧しい心.尊大.横柄).邪心.悪心.無知.貪欲.怒り.不満.迷いなど]を浄化してゆくことが、善い来世へと繋がってゆくのです…(三世の因縁により.たとえ此の世で成功し良い思いをしたとしても.心を汚したり.他の生命を蔑ろにしたり.無明の闇を晴らさないままなら、来世は真逆な境遇の処へと再生することになり、また此の世では余り恵まれなかったとしても、心の浄化に努め.他の生命を慈しみ.無明の闇を晴らしてゆき決して酔生夢死しなければ、必ず来世は再び人の身として善い処へと再生する事が出来ます(因果の理法) ●悟 り (大悟)            悟りとは真理(真実.事実.現実.実相)の究明であり、その向かう方向は物理学者と同じ方向でもあり…ただその方法が、外世界の観察と数学に依って到達するか、心の中に具する宇宙に人知を超えた智見に依って到達するかの違いだとも言え、物理学も約2500余年を経て.随分と仏教真理に近づいて来たとは言え、残念ながら今だ道半ばに過ぎず.人工的な電子.光学機器と数理での探求法により真理への到達を目指すには限界がある一方.一源の根源エネルギー自体の運動性(波動)により形成される心的エネルギーの情報の究明による到達(大悟)は真実の如来の教えに.その実相は語られる…

その為には悟り(大悟)への確信と智慧と勇気と努力か必要となるのです…       先ず、自分は何を求めて何処へ向かおうとしているのか明確に自覚しなければなりません. 修行者とか行者という名称により.悟りが啓けるわけではなく、明確な目的意識と確信と智慧と勇気と努力が無ければ到底.辿り着くことが出来ない涅槃なのですから…   魔の誘惑を退けつつそれらを正しく明らめ啓くには、冷徹厳峻に自分自身を見つめる正見が必要であり、それには勇気も必要なのです…しかしその道は決して難行苦行の道などではなく、その道は.他人様には禁欲的(ストイック)に映るようですが.安らぎと悦楽の中を春の麗らかな日差しに照らされながら歩くような中道と言われる道なのです…         ●多くの人達が誤解されている.瞑想.禅定.内観.観照などによって得られるサマーディ(三昧)は真理への入口ではありますが.決して悟り(大悟)の境地ではないのです…お釈迦さまも仰るように、それは変化生滅してゆく性質のものであり苦(ドゥッカ)に他ならず、しかしこのサマーディ(三昧)を得る処から仏の教える絶対真理の世界へと歩を進めてもゆくのです…ここで惑った人達はサマーディ(三昧)に沈殿し.立ち止まり世捨て人となってゆくのですが、サマーディ(三昧)もひとつの感覚でしかなく、主体.客体の分別からは離れても.やはり変化生滅しながら麻痺し.飽き.苦しみ(ドゥッカ)へと行き着いてしまう性質のものなのですから…                サマーディにあってもその変化生滅してゆく[無常]を直視する事を怠り、心地よい状態を保つことを求め続け目的化している限り.智慧(叡智)は顕現して来ないのですから…    [悟りしと 山を下りれば ただの豚]

無明な人達が喜びや幸せだと勘違いしているものは、藁束を煮て焼いて美味しい.美味しいと食べているようなものであり、心を浄めることもなく果てしなく便宜的な付随物に過ぎない所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権力…)を追い求めるのは愚かな事だし.わざわざ苦しみ(ドゥッカ)を造り出すだけなのです…
精神の向上、心身の調和を図ることなく唯、欲望のままに名利や財貨を追い求め享受していては内なる健全さと心の安定は永遠に得られないだろう…
人は自ら進んで内面に向き合い[心の充実]と[精神の向上]を図るべきなのです…
それは心の調和と安定や精神性を開発.向上することによって.もたらされる愉悦が如何に甘美で堅固な美味を奥深くあじわうものです.