心の充足(満ち足りた日々の為に)

人は、例え暮らしが貧しくとも頼る人とて持たずとも自分自身に存在の価値が見い出せ、心豊かで真に心が充ち足りているならば、他人と争う事も、他人を妬む事も、他人と競う事も、他人を攻撃する事も、多人を裏切る事も、自論や見解に拘り執着することもなく、たとえ罵られ謗られたとしても目くじらを立てることもなく、他人を許し、気使い、慈しみ、差別や区別することなく、恨むことも憎むことも苦悩することもなく、唯、今という瞬間を奥深く味わい悦楽と静逸の中を平安に生きてゆく事が出来るのだが・・・
人は無明の闇の中を明々と照らす燈明もなく手探りで生きている事に気付かず、物事が明晰に見えていると錯覚しながら自惚れて生きるからドゥッカ(不安定.苦.心痛.悩み.迷い.恐怖.悔い.惨めさ.哀しみ.空しさ.儚さなど)に行き着いてしまうのである。
人は単独では存在では存在出来ず、何かしらに依存しなければ生きてゆく事が出来ない不完全で不安定な存在であり、無明の闇を照らす明かり、依存し一時的にせよ安定させてくれる依り処を求めて彷徨っているのである。
欲望の炎に煽られてそれと気付かずに敢えて苦と不満の中を生き、それと気付かずに苦と不満の中に老いてゆく。
煩悩を制すれば所有への妄想的執着の罠から遁れ、存在への倒錯的執着の幻想を乗り越え(超越)、再誕の母胎に宿る因縁から解き放たれ(解放)、解脱する。智慧は叡智へと極まり、煩悩(存在欲)の妄想的欲求不満(永遠の命、自我)から目覚め(覚醒)、心は真理(摂理・自然法則)を映しだす。
ただ、死あるが故に今在る生を奥深く味わうだけ。
言うならば前の章「五集合要素(五蘊)」の実践編だと言え、多くの人は常に何かしらを欲していて、その欲が常に満たされていない不満な状態、欲が足りていない不足な状態で生きているのであり、何が満たされようが何が充足されようが真に満足することが出来ないで居るのである。
それは人々の顔つきや挙動や目線にもはっきりと現れるものであり自分の事ばかりに拘り、他者への気使いや思いやり礼儀などを欠き状況判断が出来るず、街を汚し、他人と争い、他人を攻撃し、物惜しみを倹約と勘違いし自己正当化している物質的(所有の次元の事物)には豊かでありながら、心の貧しい多くの人達を生み出している
のではなかろうか。
人はいつも何かしら楽しい事はないかと欲し求め探して思考し続けていて、例え下らない思考や情報、詰まらない思考や情報であってもそれを止めることが出来ない。(一に止まれない正でない思考)
それは感受機能(受蘊)が感受した刺激情報を、脳的機能である想蘊(サンニャ)が感知した刺激情報に対して生物的本能である煩悩(存在欲)は欲望を生じ、煩悩の欲望に根ざした感覚は感情を生じ、感情は主観を生じ、主観は雑念を生じ、雑念は妄想を生じさせ、妄想は欲深い執着の自我を生じさせ、不満や不足やという不安定状態を生じさせドゥッカ(苦・痛み)を増大させてゆくのである。
しかし煩悩(存在欲)とは生存の素因であり、人は煩悩のエネルギー(生存苦)によって生かされていて、生きるとは存在欲に他ならず眠くなれば苦しくなり生存が脅かされるから寝るのであり、空腹になると苦しくなり生存が脅かされるから食事をし、消化吸収後には腸が苦しくなり生存が脅かされるから排泄しているのである。全ては生存の素因である煩悩(存在欲)の欲求なのである。また煩悩の本質的欲望である永遠の生存にとって役立つと感じるものに欲し貪り執着させ、邪魔になると感じるものに怒り憎み、役立たず不都合と感じるのに愚痴や不満を生じてしまうのも全て潜在的な条件付けられた死への恐怖心から生じているのである。
つまり想蘊(サンニャ)を浄め、調え、高めるには精神性(質・格・境地・器量)を育成することにより、下劣な情報・偏った情報・間違った情報・妄想的な情報などの真の価値観に気付き捨てさり離れ五欲への執着を意図することがなくなり煩悩(存在欲)を制し条件付けられた死への恐怖を受け入れ、乗り越え、断ち切り、解き放たれてゆく事であり、想蘊(サンニャ)により心的機能である行蘊(サンカーラ)は自ずと浄まり調い高まり、それによって生じる意識(潜在概念)識蘊(ヴィンニャーナ)は自ずと浄まり調い高まるのであり、その識蘊(ヴィンニャーナ)を積み重ねた見解や観念や思想により、その人の人生は形成されてゆくのである。
〇心を清める事なく、果てしなく物欲を
追うのは愚かで、いけない事である。
精神の向上、心身の調和をはかる事なく唯、欲望のままに名利や金財を追い求め享受していては内なる健全さと真の満足は永遠に得る事は出来ない。
幻に過ぎない所有の次元の事物を追うのは無常であり空であり愚かな事である。
心身の調和や精神の開発によって齎される愉悦が如何に甘美で堅固であるか、自らの内面に向き合う集中力によって齎される平安、静逸、叡智が如何に安定した堅固な世界であるか知らないまま過ごし煩悩や渇愛に焼き尽くされる人々は憐れむべき人々である。
【仏教的 煩悩の制御抑制法】
●人は何かを考えずには居られない(煩悩に考えさせられている)
⇒集中力を高め、雑念や妄想に気付いて止める。
●人は何かしないではいられない(煩悩にさせられている)
⇒集中力を高め、無駄な動きに気付いて止める。
●人は自分に拘らずにはいられない(煩悩が自我意識を形成する)
⇒集中力を高め、自我意識を脱落させてゆく。
●人は五感官を駆使し外界から刺激情報を得なければ居られない。
(煩悩は永遠に存在する為の情報を外界に求めてやまないのである)
⇒集中力を高め、無駄な感覚的な刺激を追い求めない。
●人は意を駆使して内界から刺激情報を得なければ居られない。
(煩悩は永遠に存在する為の情報を内界に求めて止まない)
●煩悩の要求に無駄に随うことなく制御抑制し、内観により集中力を高めて自分の状態を認識し理解することが重要である。
●人は何かを所有しないではいられない。           (煩悩は裸でしかも何も持たない状態に不安を感じ恐怖する)
⇒集中力を高め、在るがままの存在としての価値と意味を理解する
●苦行の中に真理を捜し求める行為は愚かであるが、苦を前提条件
として楽(快楽・安楽・悦楽・至福)があり価値があることに気付く為の経験として、又、負担が増してゆき苦と感じる限界点を明確に理解する為の経験としては必要である。
●断食・無知(無明)による煩悩(存在欲)により潜在意識は食事を抜く事に生存を脅かす死への恐怖を生じる。断食行により苦の負担量と生存維持の限界を煩悩に理解させることは有要である。
仏陀は仰った。
俗世の利益を目指すのも、一つの道。
彼岸を目指すのも、一つの道。
だが如来を師とする仏弟子たちよ。
汝らは俗世の利得を貪らず、貪欲の道から遠ざかれ。
寿命が長かろうと短かろうと、我々は今この時を生きるしかない。
世界が如何に広大であろうと、今立っている此の場所に立つしかない。
世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない。
過去・現在・未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つ事も出来ないのだから。
ならば我々はたった一つしかない身体でどうして二つの道を歩めようか。
ましてこの二つの道が向かう先は正反対なのだから。
思考や自我を持つ人間に生まれれ「私」の快楽を求めるのは自然な事でもある。
しかし自分にとって本当に大切なこと、とこしえの快楽とは何なのか、それが解らないうちは私利を貪り、刺激を求め自我の欲望を充たす事ばかり考えている。
「外なる快楽の追求こそが苦悩の原因である。」
たとえ快楽を手に入れても満足は得られない。更なる欲望が芽生え際限なく負い続けるだけ。
「永遠に色褪せる事のない真の快楽(大楽)は心の充足からしか得られない。」
俗世の利得を追うも、一つの道。
内なる永久えの悦楽を追うも一つの道。此の岸で俗世の利得を追う凡夫。
心の充足を求め彼の岸へ向かう菩薩。
彼岸に渡り完全に心の解脱を果たしたらそれが「仏」であり「成仏」である。
「よく調いし、その身こそ仏なり」
凡夫は彼岸の淵を彷徨う亡者となり、継続の輪(輪廻)の激しい進化の流れの中を捕食の関係性の中に幾万幾億の生死を繰り返す。