自己改革

世の中の多くの人達は、自己を改革し成長しようと意識改革に努めて、禅語やら自己啓発やら先人の名言やら中国古典から論語やら老荘思想まであらゆる類の情報を盛んに貪り、目から鱗が落ちたが如く感動して取り組むが、凡そ自分のものにした人を見た事がないばかりか意識改革や自己変革への前向きな意識が、却って知識や情報に惑わされ迷いを深めてしまっているように見受けられる。
それら知識や情報というものは全く知らない無知よりは、知っていて損はないように思うが、単なる知的好奇心により唯、知識や情報を蓄積させるだけでは、その実「実を結ばぬ華」でしかなく、他人の牛を数えているだけに過ぎず、幾ら数えても決して自分の牛とはならない、情報・記憶に過ぎず気分的に知ったつもり理解したつもりにさせて自我(エゴ)を自惚れさせているだけなのだ。
何故かと言えば知識や情報とは、そのままでは自己啓発の文言や名言を意識が単に何を言いたいのか理解しただけでしかなく知識や情報が理解できたとは言い難く、自分の人生に然程には役立っていないのではないだろうか。
しかも意識とは環境・時間・場所・心境などで変化してゆくものであり、自分を克己して意思と信念と智慧が伴わなければ短なる欲望と妄想しか生み出さないのである。
何であれ先ず知識や情報というものは意識して実践してゆき、身に具われば無意識に為されるものであり、実践の中にその言葉の有効性や価値観が理解できるものであり、鵜呑みにしたり無明に信じたり忠実に随うものは、知識や情報の本質を理解する事が出来ずに脱落してゆくか下らない物事に囚われて行くのが落ちなのである。
(この精神作用を理解する為に是非、五集合要素(五蘊)について学んでほしい。)
例えば、気弱な人でも映画館で極道映画を見た帰り道は、肩を怒らせブイブイ歩いているが、幾時か経ち妄想から覚めると気弱な人に戻っているものであり、例えば自分勝手な人でも教会や神社を訪れると心が洗われたような敬虔で寛容な気持ちになるが、社会生活に戻れば欲深く自分の事ばかり考えているではないか。
それらは意識が一時的に染脳(洗脳)され妄想しているだけに過ぎないのである。
●真に自分を改革させたいのであれば、そこには克己した意志と信念と智慧がなければ成し遂げる事など出来ないのである。
人はその行動や思考の大半は無意識に行っているのであり、身体も大半は自律神経や生存の素因(煩悩)の要求などにより無意識に行っていて無意識とは潜在意識(潜在概念)により成されている。
●人は克己した意志や信念や智慧により努力してゆけば表面意識を無意識ー潜在意識へと置き換えることができる。
例えば野球選手のイチローがヒットを打った時、そのスイングは無意識になされていて、ゴチャゴチャと考えた時は恐らく凡打に終っている事だろう。
それは克己した意志と信念と智慧に基づいた努力により、意識してスイングを磨いてきたから無意識に成されることであり、それらは腕力・体力・才能・年齢・環境などに勝る財産なのである。
今や廃れかけている礼儀や行儀というものも付け焼刃で普段しない事を意識して行なっても、そうそう上手く立ち回る事は難しく、その所作の隅々に粗が見えてしまうものである。
礼儀や作法も日頃、意識して振る舞ってゆけば何時の間にか自然と潜在意識に刷り込まれていき、無意識に礼儀や行儀に適った行動をとっているものなのである。
●思考域(表面意識)の意識も同じであり意識しながら、正しく行うよう努めて、正しく考えるよう努めて、正しく話すよう努めて、正しく生きるよう努めて、正しく判断するよう努めて、正しく理解するよう努めて、正しく努力するよう努めて、正しく気付くよう努める八正道という中道精神を養ってゆく事により、悪いカルマ(悪業)という悪い意図を形成する要素が弱まり、前向きで正しい意図の形成力が育成されてゆく。
(渇望・愛着・意図・業(カルマ)は同一のものを指している、そして自分を成長させ正しい意識や認識を生じさせる精神性も同じものを指しているのであり共に五集合要素(五蘊)に含まれる。)
精神性という,人としても質(クオリティー)、人としての格(レベル)
人としての境地(ステージ)は妄想を打ち破り、正しい意識を育成し人生を真の幸福へと導くのである。
故に、克己した意志と信念と智慧よる努力が必要なのであり、自分こそが自分の主であり、真の幸福をもたらすのは自分なのである。
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心を浄めることなく、果てしなく物欲を追うのは苦悩を招いたり陥不満や欲望を募らせるだけで愚かな事だ。
精神の向上、心身の調和を図ることなく、唯、欲望のままに名利や財貨を追い求め享受できたとしても、内なる健全さと真の満足など永遠に得ることなど出来ない。
幻影に過ぎない目的ではない手段(付随物)である名利など所有の次元の事物に翻弄され魅入られ追い続けるのは、無明の闇の中を手探りで盲目的に生きているからに他ならない。
■心身の調和や精神の開発によってもたらされる愉悦(悦楽)が如何に甘美で堅固であるか、内面への集中力によってもたらされる平安、静逸、叡智が如何に安定的で堅固であるか、何時かきっと解るだろう。
私達はすすんで自らの内面に向き合い、心の充実、精神の向上(質ークオリティ・格ーレベル・境地ーステージ・度量ーラージ)を図るべきなのだから。
正しい智慧で以って物事を正しく在りのままに見るべきなのだ。
「眼が生まれ、智識が生まれ、叡智がうまれ、知性が生まれる」
肝心なのは、智識あるいは叡智を通じて観ることであり、主観的に信じることではない。
これこそが釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教的態度であり、伝統仏教が自らの伝統、権威、歴史、文化、勢力などを以って唯一の真実であり優れたものだと信じ込み、民衆にそれに従い、受け入れることを強要することは決して正しい態度とは言えない。
「我が宗派こそ正しく優れたものであり、他のものは劣るものだ」
と根拠なく主張することは、或る一つの見解に固執し、他の見解を自我意識(エゴ)により見下すことを、如来はそれを囚われと呼ぶ。
無明の闇に蓋われた盲目的な者達の系譜に連なる者達と呼ぶ。