サンカーラ

サンカーラを現在では、五蘊(パンチャッカンダ・色受想行識)に充てて行蘊(サンカーラッカンダ)と認識され(形成力、何かしたいという衝動的意志)と解釈されていますが、本質的には行蘊(サンカーラ)とは業(カルマ)そのものであり、渇愛・煩悩・意思・心的意図・無明などは同一のものを指しているのであり、即ちサンカーラを指しているのである。つまりはサンカーラとは業(カルマ)そのものであり、言い換えるならば本質的性質であり精神性(質・格・徳性・境地・倫理性や了見・器量・寛容・清浄・慈悲性などのレベル)であり、感受した事物に対して、認識し業(カルマ)という本質的な性質である精神性のレベルに随って識別され蓄積された記憶の残滓(汚穢)に影響された衝動的な意図(意志)により、識蘊(ヴィッニャーナ)という意識(概念)を生起させている精神作用の反応要素をサンカーラと呼ぶのであり、サンカーラ(精神性)のレベルにより、見えるもの・意識が向かうもの・本質と一致するもの・本質を刺激するもの・本質に訴えるものなどが違ってゆく。
人とは蘊まり(あつまり)であり決して固定的実体ではなく、五集合要素(五つの要素の蘊まり)における物質的要素である色蘊(肉・骨・液体・空間・熱の蘊まりによる膨張と収縮の運動体)と、感覚器官(五感官である眼耳鼻舌身という器官)による受蘊(感受)作用と、想蘊という脳的機能(コンピューター的機能)による認識・識別・思考・記憶機能と心的要素である行蘊(サンカーラ)による想行蘊(サンニャサンカーラ)作用により意識(概念)は生じるのであり、意識(概念)とは五つ蘊まり(あつまり)による機能(メカニズム)であり、意識(概念)とは五蘊機能によって作り出されているのであり、奥に潜む主宰的物質(魂・霊魂)によって意識(概念)が生起しているという考えは間違いであり錯覚に過ぎず、相互に依存しあう五つの肉体的・心的な要素の蘊まりが五集合要素(五蘊)として結合して機能する事により、意識(潜在概念)を生じさせ、「私」という固定的で実体的な存在を概念(潜在意識)は錯覚するのである。
「結べば芝の庵にて、解くればもとの野原なりけり」
意識(概念)は色蘊(物質)、受蘊(感受)、識蘊(識別)、行蘊(意志)に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない。
煩悩(生存欲)の欲求に随って五蘊の精神作用により意識を外世界へと向かわせる時、初めて経験する物事は実に斬新で新鮮で刺激的で感動的である場合が多々である。人はその刺激を欲して再会を試みるのだが、初めての時のような刺激的な感動を得る事は適わない実に短命なものにしてしまうものがサンニャサンカーラ(想行蘊)による記憶の残滓・汚穢・既成概念・固定観念・思い込み・先入観・錯覚・常識・無知(無明)などによるのであり、煩悩(生存欲)の本質は業(カルマ・精神性)のレベルに随ってはいるが、本質的には永遠の存在への儚くも空しい欲求であり、もしアーサバー(汚穢)としての識別を加えない記憶を想蘊(サンニャッカンダ)として行蘊(サンカーラッカンダ)による衝動や意志を形成するならば、何度でもその物事に対する経験は実に新鮮で刺激的で感動さえ覚える事が出来る筈なのに、煩悩(生存欲)の要求する事物(永遠の存在へと向かわせる事物)ではない事を記憶の残滓・汚穢として想行蘊(サンニャサンカーラ)に蓄積させ、煩悩(生存欲)の永遠の存在の欲求を満たすものでない物事に対しては、サンカーラは「重力」の如く心を引き摺り誘導し偏った見解や常識や概念や先入観による意志を生じさせ盲目的になってゆき、その盲目的な意志により顕現する表象こそが苦悩や不満であり、煩悩(生存欲)に随ったサンカーラを基とした妄想により苦悩や不満は増殖してゆくのである。
子供時代は基本的に天真爛漫に「今日は何して楽しもう。何処へ行って楽しもう。」とワクワクしながら生きていた筈である。しかし何時の頃からか捻た大人と成り果て、唯、単純に出会う物事に滅多に感動できなくなり、短命な刺激であっても刺激の魅惑的な感覚を求めて次から次へと所有の次元を彷徨う存在としてあるのもサンカーラ(汚穢)により悦びに対する感性の感度が劣化してゆくからなのであり、現代用語でコンプレックスと言われる劣等感・優越観・愛着などの概念の蓄積が依存症的傾向となるのもサンカーラ(心の汚穢)によるのである。仏教の目指す方向とは、人の五蘊(色受想行識)という精神作用を客観的に観察し理解し制御してゆき調え浄化して、本質的な歓びを味わう道(方法)を指し示しているのであり、サンカーラ(汚穢)を浄化してゆく道こそが八正道であり戒定慧(戒めを持ち、禅定に努み、智慧を育む)であり、四念処による妄想への気付きから始まる内観に集中する事による客観的な観察や検証による理解や確証なのであり、まず自分という存在と心とを内観により実感してゆくと、自分という心身は固定的実体ではなく常に変化してゆく無常なる流れである事に気付くのである。
故に、諸行無常(サッベー・サンカーラ・アニッチャ)とは全ての記憶認識する存在に対する意志や衝動は無常なものである。と捉えるべきなのであり、依存する移ろいゆく事象を固定的に捉えようとしてしまい、それにより苦や不満を生じさせているのであり、五蘊(精神作用)による概念とは因縁(時空・環境・状態)などと蓄積させたサンカーラにより都度々々に偶々に顕現した常ならざる無常なものであり、この無常なる変化生滅こそが現象世界の理法であると理解してサンカーラ(汚穢)を浄化してゆくならば、在るがままに変化を変化と認識してゆくならば苦や不満が発生する事もなく智慧の顕現により、在るがままに最上の幸せを味わうのである。  何故なら存在欲の衝動(感覚)による感情を主体とした主観的なサンカーラ(汚穢を蓄積してゆく人生とは、盲目的な意志により顕現する表象に他ならず、言うならば、主観による妄想的認識による概念を、客観的な理解・認識による概念へと入れ替え、置き換えて行けなければ主観的自我(色メガネ)により世の中を歪んで捉え、身から出た錆さえも外から齎された不運であるかのように不満と苦と他と比較した恨み辛みの中を生きる事さえ在りえて得体の知れない外的な力に頼り、呪文や造物に頼り、迷信的な無明に苦や不満を深めてさえ行く事となる。
念とは自分の内に念ずるものであり、自ら気付いて、自らを変えて行く為のものであり、社会で言われ教えられ信じられ自分もそう思い込んでいる事さえも、果たして本当にそうなのだろうか?と疑ってみて、自ら調べ理解して初めて受け入れる位の意志がなければサンカーラ(汚穢)を蓄積してゆくだけであり、存在の本質的真理に気付き、サンカーラを真理へと置き換え(色メガネを外す)、在るがままに全ての存在を見るならば、在るがままに幸せで、楽しく、快適で、有難く存在している事にも気付け、生死・苦楽の軛を乗り越えられるだろう。
「我らは、楽しく生きよう。(一瞬々々を楽しもう。味わおう。)
 苦悩や不満だらけの世の中で、苦悩も不満も持たず、
 病んだ社会の中で、病む事なく、
 貪欲なる世界で、無欲恬淡に、我らは楽しく生きよう。
 物事に心を乱されず、
 精神の悦楽を活力として、
 光音天の神々のように、我らは楽しく生きよう。」
「我らは、サンカーラ(業・カルマ)を造らず、精神性を高め磨き深めているから,物事へ必要以上に執着することがなく、すべてが楽しく、満足で、平安で、清浄である。」
楽しく、満足して、生きるのに、如何わしい外的な特別な力など当てにせず自分自身のサンカーラ(汚穢)に気付いて浄めてゆく事こそが、釈迦尊が説かれた精神科学としての仏法なのです。
サンカーラ】記憶の残滓、汚穢(おえ)、形成力(行蘊として) 
五蘊という精神作用がサンカーラにより無常に識別されている事が明確に理解出来たら、仏教の大半が理解できた事でもある。 
捏造した認識や錯覚した認識や記憶により蓄積された心の汚れ穢れの事。先入観・固定概念・固定観念・思い込み・常識という偏見や、経験や記憶による見解・トラウマなど。