染脳と洗脳

洗脳と染脳とは似て真逆な性質のもの…洗脳とは、その字の如く.汚れ染まった心を洗い浄める事を言うのだが、社会では偏った知識や情報で染め上げる事を洗脳と呼んでいる…
もし清き心を.たとえ偏り.邪な色であっても一色で染め上げたならば、人それぞれ.色々あってそれでよく、それも又.風情ある趣きを醸すもの…
しかし現実には欲望に塗れ、煩悩(存在欲)の要求に応えながら、混濁した不浄な暗色に染め上がってゆく人が絶えず…
染脳された心を洗い浄めるものは.

真実により洗い浄める洗脳である…
人の心を征服するものは染脳であり.

人の心を解放するものは洗脳である.


社会ではマインドコントロールプロパガンダにより迷信的.妄想的.作為的な偏った観念.見解.知識.情報などを植え付け、人々を盲目的にそして無思考な状態へと陥らせる事を[洗脳(脳を洗う)]と呼んでいるが、これらは[染脳(脳を染める)]行為なのであり、元来、人間とは幼少の時分から既に何かしらの思想や観念に染められているのであり、独裁国家では君主を神の如く崇めることを染脳教育され、現代社会では「所有」こそが幸せの道だと世間やマスゴミやコマーシャルなどを通じて「染脳」されているのです…
その挙げ句が.中には物欲主義や拝金主義に陥ったり、新興宗教などから「疑る事なく信じれば必ず幸せになれる」と繰り返し.繰り返し聞かされて「染脳」されてしまう人も多いのです…あな恐ろしや…
それらは人間が有する本能的で根深い自己防衛と自己保存から生じている煩悩(存在欲)の本質的苦しみ(ドゥッカ・不安定さ.不完全さ.苦.悩み.怖れ.哀しさ.弱さ.脆さ.怖れ.儚さ.憂い.心痛.空しさ.迷い.無常さ.欲望…)を刺激し.働きかけ.翻弄し、盲信させ染脳するという実にテクニカルな手法によるのです…
しかし[イワシの頭も信心から]と言われるように人が何を盲信しようが、それにより悩める心に安らぎが得られるならば、それはそれで有意義なことなのですから…
しかし霞な幻想などへ寄り掛かる事が出来ないように、一時の安堵は得られても決して堅固で安定的な安らぎを得る事など出来ません…
無闇な依存は、心を弱め自覚を喪失させるだけに他ならず. 折角の人の身を酔生夢死してしまっては元も後もなく.輪廻の激流を転生してゆく事ともなるのです…
因みに信仰とは偏った思想を植え付け染脳するものであり、宗教(むねとなる教え)である仏教とは愚かさを取り去り捨てて行くものである(アーサバー・汚穢)


また潜在意識とは感覚.感情(貪欲・瞋恚・痴愚-三毒)による不善処には染まり易く、理性的な思考(客観的な善思考)には容易には染まっては行かないものなのです.何故ならば潜在意識とは具わる煩悩(存在欲)が心の主人に取って代わろうと.感覚.感情(貪瞋痴)の刺激を要求し、五蘊(五集合要素・精神作用)に作用した意識(主観)を思考域に伝達し、それを本心だと錯覚した思考は感覚的.感情的な刺激を探し求め意識を外界に彷徨わせながら、欲望的欲求不満により雑念と妄想を深め渇愛の衝動(所有欲)に主導され苦と不満(決して満たされない苦しみ)を生みだしてゆくのです…
ですから思考域をいくら改良しようと頑張っても潜在域が貪瞋痴に染まっているならば刹那の瞬間には貪瞋痴の衝動を選択してしまうのです… 
心とは、潜在意識を、思考域の思考でなぞっているのであり、又、潜在意識の反復と集中とにより、思考も変わってゆくものなのですから…
「黒く染まった布に清き色を染めるは困難(決定邪見)、汚れた布に清き色を染めるには、先ず脱色(機魂と洗脳)を待ち,地色に戻して(解脱)行かなければ清き色には染まらない。」
広い範囲でいえば染脳(洗脳)されていない人間なんて一人も居ないのです。
先ず教育という染脳(洗脳)を受けています…
例えば共産圏では共産主義的な洗脳を受けて育ち、自由主義圏では資本主義的な染脳(洗脳)を受けて成長していますから、同じ人間でも随分と違う人間となってゆきます。
此れもある意味、染脳されているのです。
その他、文化.環境.家庭や地域.主義.主張……数え上げたら切りがない染脳(洗脳)を既に受けて育って来ているのです。

その上に、権威とか評判とか思い込みや外見とか偏ったり間違った知識や情報などにより、良悪.膳不善.優劣.価値感…の判断までもが洗脳ではなく、染脳による処が意外と多いのですから…