本覚思想・真如思想はカルト思想

人がどんな宗教に帰依しようがどんな信仰を信じようが信教の自由であり非難したり批判したりするつもりもないが、偏った思想や誤った思想に染脳(洗脳)され折角の人生を迷妄の中を彷徨う決定邪見に陥らないよう、真実を知って頂きたく善良な者達に対して警鐘を鳴らし真実を語ることにする。
吾は受け入れて欲しいとか解って欲しいとは思わず、無視されようが拒否されようが構わず。唯、善良な者達の真の幸せを願うだけである。
吾は何かを得ようとは欲さない。唯、善良な者達に真理を施すだけ。
世の中に溢れる大乗系の新興宗教の多くが、歪曲された本覚思想や真如思想を根底として多くの無知で善良な人達に染脳(洗脳)を施しマインドコントロールしている。唯、巧みなるプロパガンダの手法にて。
その本質は「目的のためなら手段を選ばない。」危険な思想なのであり、信者を獲得せんがためなら嘘も方便なものであり病人には信じれば病気が直るとか、長寿を願う人には信じれば長生き出来るとか、不運に塗れた人には信じれば幸運になれるなどと欲得を餌にしたプロパガンダにより罠に嵌めるカルト思想に他ならないのである。
まず本覚思想とは大乗が編み出した釈迦尊の悟りを否定するかの如き大衆迎合的な根底を内包する。「煩悩即菩提」の意味に於いてもあくまでも「煩悩と菩提は紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じ、菩提があるからこそ煩悩を見つめることも出来、煩悩による愚かな行いを改めてゆく事により菩提へと至れる」というのが煩悩即菩提の正しい語意であるのだが、安易な感情欲求により「頓悟」を求めるがあまり得体の知れない迷信めいた怪しい呪文や題目といったものを用いる事により煩悩に塗れたままでも覚りへと至ることが出来るとする本来的には「災い転じて福となす」には「智慧」を必要とするのであるが「智慧」の顕現を妨げる観念でもある外部からもたらされる迷信的な力に依存する祈りや呪文とか題目などにより顕現できるという釈迦尊の説かれる「智慧」の発生による「真理」の顕現へと向かわせるのとは反対方向である「真理」に拠らず勢力や権力の追求に拠り「とにかく信じなさい」「これが真理だ」とプロパガンダ(誘導宣伝)と染脳(洗脳)法により植え付けて自分で考えることを阻害して一定の決められたパターンで考えるように誘導し染脳(洗脳)を施してゆく、強い意志と信念を持たない者はこのプロパガンダ(誘導宣伝)や染脳(洗脳)に簡単に陥ってしまい熱狂しさえする上にこの決定邪見ともいわれる呪縛からは中々抜け出すのが困難なのである。平時には平和を声高に叫んでいた者が戦時にはプロパガンダ(誘導宣伝)と染脳(洗脳)により戦争を美化したり戦争支持者に転向したり、インコ真理教の残党が未だに松本某を信仰しているのも強い意思と信念を持たない者がプロパガンダで染脳(洗脳)され迷信の中から抜け出せないからであろう。新興宗教では「煩悩=菩提、煩悩がそのまま悟りである」とか「変毒異薬」毒がそのまま薬となるなどというトンデモナイ解釈を施している確かに人間の本性には仏と成りえる能力を具している其れを理性(客観的思考・理解能力)とよぶのであり、同時に人は地獄の悪魔へと堕ちる能力も具していて其れが感情(貪瞋痴)による妄想思考なのであり仏と成るも餓鬼畜生となるも紙一重な状態にあり染脳(洗脳)され間違った見解を植え付けられ開く華は所詮は婀娜華でしかなく人を狂気と狂信へと堕とし込むのである。元となるものが龍樹が記したといわれる「大智度論」の「毒を変じて薬と為す」という言葉なのだが重要な「分量」と「正しく使う事により」という重要な部分を「呪文を唱える事により」とか「信じて疑わないことにより」とかカルト宗教化させたものが本覚思想であり、毒は毒なのであるが「薬」というものも実は毒なのであり、人体に悪い影響を与えず体内に対抗力を生じさせる分量(匙加減)により毒をもって薬となすことができる事の例えであり、毒はやはり毒であり猛毒の蛇毒(神経毒)も極微量を用いれば神経痛の薬となるが致死量を超えれば幾ら呪文や題目を唱えようが人を殺す毒でしかなく騙されてそのまま飲めば毒にやられてしまうのである。煩悩はやはり煩悩でしかないが、煩悩があるから菩提もあるが如く、苦を前提条件として楽が在るが如く、正しく負担量(分量)を量ってゆくことを説いているのであり呪文を唱えて毒を薬に変質できるものでもなく信じて騙されて飲めば毒は毒なのである。煩悩を滅尽することは出来ないのである何故ならば煩悩こそが生存の素因なのだから、しかし煩悩に塗れて深めていった先には決して悟りも幸福も有りはしないのです。煩悩にまみれた者が呪文を唱えても真言を唱えてもお題目を唱えても煩悩に主導されて欲深くなり人間性を殺したり貶めたりするだけであり、仏性や般若へ至る能力を具していようが煩悩から解脱することも覚りに至ることもないばかりか妄想に従ってより一層に自己中心的で身勝手な行いにより可能性を狭め修復困難な決定邪見な者を生みだしてゆくだけなのである。そして真如とは本来「在りのままに観る。」 「在りのままに存在する。」ことなのだが、煩悩による欲得や執着を深めてゆくこと(自己中心的)により菩提や般若(智慧)を得て悟りへと至ることが出来るという新興宗教としては実に都合のよい代物なのであるが、果たして世の中はそんなに安易で都合よくは成り立ってはいないのだが、新興宗教の中心的目的は信者集めと金財集めによる勢力と権力の所有と拡大であり救済は隠れ蓑にすぎず大衆うけする感情(貪瞋痴)を刺激する安直で浅薄でありながら重厚そうな教義を掲げ、愚かで無知な者達が求めてやまない悟りへも「これを唱えれば大丈夫ですよ簡単に悟れますよ。」とか「信じれば願望も幸せもお望り通り叶いますよ。」などと欲得に執着する感情(貪瞋痴)に付け込み染脳(洗脳)を施しマインドコントロール下へと誘導して毒を飲み続け汚染されて行っている事に気付かせず悟りに向かっているかの如く妄想させてゆくが(真実は業を深め一層欲深くなっていく)カルト宗教の歪曲された根拠と無責任な染脳(洗脳)と呪文や題目を唱えることにより救われるなどという非常識を信じ込まされた病んだ被害者(染脳されている本人は気付かない)を蔓延ってゆく社会にとって実は危険な存在である新興宗教が用いる本覚思想や真如思想というカルト思想について警鐘を鳴らすものである。
そして多くの人々が錯誤してしまうのが、感情による一時的安定なのか理性(客観的理解判断能力)による絶対的安定であるのかの判定が出来ないことなのではあるまいか。
社会において新興宗教などに嵌まり込んでしまう人達は、身体的、精神的
、物質的、環境的の何れかに対して苦悩や不満を抱え込んでいる人達なのであるが、それらを解決することが出来るという感情的で誘惑的なプロパガンダに乗せられて嵌まり込んでゆくのだが、これを仏教的に表現するならば、本能がその不安定を安定化させんがために発する(生存欲、承認欲、所有欲)などの衝動が、身体的、精神的、物質的、環境的な状態に対する認識として苦しみや悩みや不満を生じさせているのだが、人はそれらを安定化させんがために感情とそれにより造りだされた自我の赴くままに空しく一時的な安定を求め続けているのである。
確かに宗教儀式など何かを唱えたり唄ったりすると一時的には本能は安定を得て快楽さえも生じたりするが、それは運動でも歌謡でも同様なことでしかなく又、読経などにより一時的な集中により心は一時的に静まり安堵感をえるのだが、それらはあくまでも一時的安定に過ぎず本質的な苦悩の解決法とはならず不安定状態へと戻りつく性質のものなのである。
そんな時に宗教主催者は一貫して「信心が足りないから」だと詭弁を弄するのであるが、真実としては元来が一時的安定でしかない同様な「所有」金財欲、物欲、名誉欲、地位欲、健康欲、権力欲、勢力欲、家族欲・・などの「所有の次元」を彷徨っているだけであり不安定な感情を安定化させようと藻掻いているのであって、そんな次元に於ける解決も安定も平安も単なる幻想であり絵空事でしかなく、真の解決も安定も平安も得ることなど不可能なのである。真の解決も安定も平安も悟りさえも「存在の次元」(真理により成立する次元)に在るのだから。
「世界は危険に満ちている。それは悪事を働く者がいるからではなく、悪事を見ても見ぬふりをする人達がいるからである。」
如来品大師の言葉
「欲得で物事を計るものは、欲得の罠に嵌りこみ真に大事なものを見失ない、真実からも離れてゆく。」
「愚か者、覚り悟りというなかれ。何千何万悟りあり、己の愚かも覚れずに何とぞ悟りへ近づかん。捨て去る煩悩を積み上げて、所有の次元を彷徨いて、自我の執着深まりて、カルトな思想に汚染され、錯誤して向かう彼方の地獄門、天を装い鬼達が早く御出でと手で招き、幻想と真理を見極める気付きの智慧を失いし、修復不能な決定邪見、しがみつく悟りなどとは滑稽な絵空事か幻か、悟りとは解き放たれしものなりて」
世に溢れる本覚思想の代表が在家集団などが創作した「法華経典」(特に鳩摩羅什が贋作した方便品第二など)と天台智儀が偽造した無量義経などであり、真如思想が大日経理趣経などの真言経典であり、明確な他力思想が「阿弥陀経」や「無量寿経」や「観音経(法華経)」などであり、そして惜しむらくは日本人が愛してやまない「般若心経」も大乗教団(当時の新興宗教)の一派である呪術的な集団が創作した仏教思想を踏み台としながらも本質的には釈迦尊の仏教を否定する反仏教思想なのであり他力(仏教は自力を説く)を説くカルトな本覚思想に他ならないのである。
この社会に溢れかえるカルトと本覚思想を宣う者達とは所詮は詐欺師が宗教を餌にして民衆を喰い物にする人格(人の質クオリティ)の低い輩でしかなく、口先では美辞麗句を並べ立て殊勝に振る舞い、愚かな民衆の感情を刺激し染脳(洗脳)してゆくのである。笑い話が如き実話を一例とするならば超有名人である池田大作大~先生の言質を披露すると「邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ教祖のために、教団の勢力の為に、それも本当に人々を救えるなら許せるけれども、全部が地獄に落ち民衆が教祖に騙され、そして教祖は立派な家ばかり造り、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが邪宗教の姿です。学会としては永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことは致しません。」と厚顔無恥にも仰っているが、これは正に創価学会の事であり自己批判の如く邪教であると認めていらっしゃる。そして幸福の非科学のパラノイア教祖と同じ次元の人格を感じさせるのが米紙フォーブスに語っていらっしゃる次の言葉である「私は日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者、最高権力者である。」
実に慙愧に耐えない発言である。老いて病得て益々、所有の次元を彷徨う餓鬼と化し信者から集めた浄財をばら撒いて色々な称号を欲し、更にはノーベル平和賞までも豊富な工作資金で授かろうと穢れた末期さえ汚す。 生きて民衆を誑かし、死に際して老醜をさらす聖人など居ないのである。
(ノーベル平和賞の選考委員たちの良識を信じるのみである。)・・・笑
  
こうして見てゆくと真言と天台と、天台から分派した法華、浄土、浄土真宗などは釈迦尊の仏教とは言い難く、達磨教である禅宗がかろうじて釈迦尊の仏教思想を伝えていると言えるのではないだろうか。
故に日本における大乗は釈迦尊の仏教として在らずして、伝統と文化と習俗により栄えて居るのであるからして、大乗僧侶が世俗化し、妄迷な儀式作法を以ってして仏教の如く振る舞い、葬式仏教化するのも至極当然な事でもあるのだと思える。
釈迦尊は仰った。
「俗世の利得を目指すのも一つの道、涅槃を目指すのも一つの道。
だが如来を師とする仏弟子たちよ、汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ。
貪欲のその道から遠去かれ。
寿命が永かろうと短かろうと我々は今、この時を生きるしかないのだ。
世界が如何に広大であろうと今、立っているこの場所に立つしかない。
世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない。
過去、現在、未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つ事も出来ないのだから、ならば我々は一つしかない身体でどうして二つの道が歩めるだろう。ましてこの二つの道が向かう先は「正反対」なのだから。」
ひとつは「所有の次元への道」、「もうひとつは「存在の次元への道」