放てば手に満てり

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自分を高め 世界を変える頂乗仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

放てば手に満てり・・・
その握り締め.しがみつく心が毒華(ドゥッカ・苦しみ.不安定さ.不完全さ.心痛.悩み.迷い.悔い.哀しさ.愚かさ.脆さ.弱さ.怖れ.儚さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無明.欲.無常)を生じさせ.深めさせるのである。
その握り締め.しがみつく.執着心を解き放ち.自在な一滴となった時、真理(真実の価値観)は自ずと顕現し、人を依り高い精神性(境地)へと高め導き.真の幸福へ到達する。
これを出離(ネッカンマ)とも(デタッチメント)とも言い、八正道.輪廻.因果律(縁起)を象徴する法輪(宝輪)と共に、仏の教え仏教に於いて象徴(シンボライズ)として用いられる蓮の華もこの出離(ネッカンマ.デタッチメント)を現わすのであり智嶷に連なる系譜が説く観念的な真我(魂)である阿摩羅識の法力により欲望が叶えられるという思想とは真逆とも言える、欲望に塗れた世俗の泥沼の中にあっても汚されす侵されず出離(アッカンマ・デタッチメント)して清らかな白い大輪を咲かす白蓮を現しているのである。
一つの捉わり拘り執着から心を切り離し、放棄し解き放たれ(解放)、平安や自由は得られるのである。
その為には現実や状況や変化に、抵抗し.目を背け.捉われ.拘り.執着し.握り締め.しがみつく心を解き放ち離れ、受容(アクセプト・受け入れる)して行くことにより平安.自由.歓び.幸せは現れるのである。
♡四聖諦に観て三法印に言う一切皆苦全ての生きるという事の本質はドゥッカ(苦.心痛)であると言う真理を受容(アクセプタンス・受け入れる)することにより、人は救われて行くのだから。
■毒華(ドゥッカ・苦しみ.心痛.不安定さ.不完全さ.悩み.悔み.哀しさ.恨み.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実体のなさ.無明.欲)とは、在るがまま成るがままの現実(変化生滅してゆく現象世界)に毒華(ドゥッカ・苦.心痛)が在るのではなく現実を受け入れられない心が造り出しているものだから。
因みに一切皆苦とは、人(生きとし生けるもの)は煩悩(存在欲)を生存の素因として、苦に依って生かされている事を言う。
例えば人は空腹で苦しいから飲食し、満腹で苦しいから排泄し、苦しいから空気を吸い、苦しいから空気を吐いているのであり、苦しいから眠り、苦しいから起きている、苦を条件(因縁)として煩悩(存在欲)の意欲により生かされているのであり、本質的な苦をドゥッカ(毒華)とするのは心の負担量だと言え、苦楽は一如なものであるのに苦と楽を分断化して偏って認識しようとするのは無明な心なのである。

■祈り

今更どう仕様もない物事を
受け入れる心の平穏が現れますように

まだ変える事が出来る物事を
変えてゆく勇気が現れますように

そして変えられる物事と出来ない物事を見分ける賢さが現れますように

■拠り処(精神的支柱)
人の本質とはドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・痛み・迷い・悩み・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・無明・欲)な存在であり、根深い自己防衛と自己保全への渇望から赤児が親にすがりつき保護と安心と安全と恩恵を求めるように何かしら握り締め、しがみつき依存(拠り処・精神的支柱)するものを必要とする。
■ドゥッカとは煩悩(存在欲)が脅威と感じる恐怖心である。
人間の生存の素因である煩悩(存在欲)は永遠に存在したいと渇望する
煩悩(存在欲)の永遠への存在欲にとってプラスだと感じるものに貪欲(貪り)を生じている
煩悩(存在欲)の永遠への存在欲にとってマイナスだと感じるものに瞋恚(激しい怒り)を生じている
煩悩(存在欲)の永遠への存在欲にとって満たされない感覚に痴愚(不満)を生じている
■煩悩(存在欲)は、死という対極があるからこそ生に存在価値が見い出せる事が理解出来ない。
■煩悩(存在欲)の要求に幾ら応じても決して満たされる事などなく更なる要求をしてくるだけ、却って煩悩(存在欲)に翻弄されながら大切な時間を浪費してゆく事となる。
■生存の素因である煩悩(存在欲)を滅却する事は出来ない。
煩悩(存在欲)を制御(コントロール)して有益に用いれば生きる意欲となる。

■人生は横木を依存する支え(拠り処)として梯子を昇りたるか如し、両の手を離したれば支えなく奈落へと落ち行くは必定なれど、墜ちるを怖れ両の手で握り締め、しがみついて居ては低き処に甘んじ上へ昇っては行けない・・・如何に梯子を昇りたる
片手でしっかりと横木を握り締め体を支えもう片手で上の横木に手を伸ばしながら一段一段、上へ上へと昇るもの

【 定 義 】
●所有の次元の事物
(金・財・物欲・地位・名誉・称号・権力・勢力・知識・教育・承認・世評・主義・主張・見解・観念・健康・寿命・欲望)
所有の次元の事物や検証も実証も出来ない空理空論は堅固で安定的なものとは言えず、条件(因縁)により生滅する不安定な本質の支え(拠り処・精神的支柱)でしかない。
●変化生滅によりドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・痛み・迷い・悩み・悔み.哀しさ.淋しさ.儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・無明・無常.不満.など)は現れる。
●無 明
先入観.思い込み.見当違い.固定観念.既成概念.誤解.錯覚.常識.当たり前.偏り誤った情報や知識.社会通念.権威.世評.価値観.迷信.学説.風評.世評.染脳.頑迷.無思考.捏造.作為.誘導.無明.頑迷.色眼鏡.偏り.盲目
「色のついた色眼鏡.レンズの歪んだいびつな眼鏡を取り外し、在るがまま成るがまま現実世界を見通す力こそ、如来の教えであり,苦(ドゥッカ)からの解放である。」 
●見解.観念.哲理.思想.信仰
検証出来ない単なる見解.観念.哲理.思想.信仰など、時代・時間、環境・空間などで変化してゆく条件(因縁)により変化生滅してゆく不安定な本質の支え(拠り処・精神的支柱)でしかなく、変化生滅によりドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・痛み・迷い・悩み・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・無明・欲・心痛など)は現れる

■真理(真実) 天地自然の法則(摂理)
無常な常ならざる現象世界で唯一の安定的なもの
八正道 
苦に偏り楽に偏る苦楽の両極を理解し中道で安定を得る事こそドゥッカの消滅への道であり八正道である。
両極の一方へ極端に偏らず中道(支点)に於いて安定するヤジロベエの如く、感覚的な快楽を通じて幸福を求める低俗で通俗的で無益な享楽的な道に偏らず、又一方の禁欲的な行為で自らを苦しめる事により幸福を求める苦痛を伴い無価値で無益な自虐的(ストイック)な道に偏らず、自らこの両極を経験しそれらが共に無益な本質のものだと理解し、その何方へも偏る事のない中道(支点)に於いて軽安と悦楽を得る。
慈しみという愛.慈善.親切.利他.寛容という情緒的な気高い気質と、叡智という真実を見透す深い理解力による知的な至高な資質その中道こそ涅槃(ニルバーナ)である。

■握り締め.しがみつく無明な心に気付き
目覚め.乗り越え.解き放ち.自由自在な心
こそ叡智により到達する寂静である

一、吝嗇(りんしょく)
本質的には付随物(手段)に過ぎない金財を依り処(精神的支柱)とし、倹約の「倹」とは本来は金財欲を薄める事をいい美徳だが、節約を誤解して詰まらないもの、無くても困らないもの、どうでもいい下らないものに無駄使いしながらも、自分のものだと金財を握り締め物惜しみするのは餓鬼の心(貪欲・執着)であり、福受け尽くせば縁必ず弧なりと言われるように金の切れ目が縁の切れ目となる却って金財で苦しむ事となるものであり、福とは循環してこそ福となるものであり困っている人を助ける為や他者に分け与える事で大きく育って返って来たり生きる深い意味や価値を生むのである。 情けは人の為ならず(他人に情けを掛けるのは他人の為と言うより自分自身の為になる行為なのである)
ニ、得体の知れないもの
得体の知れない絶対神・創造神・仏像とか超越的な力や能力、霊感
霊力など眉唾なものとは握り締めた掌の中に絶対神・創造神・像仏とか超越的な力や能力、霊感や霊力が在るとか居るとか無責任に主張する事に他ならず、在る居るという疑問は掌を開いた瞬間に解けてなくなる性質のものでしかなく、決して開く事が出来ない握り締めた掌の中を妄想しているだけに過ぎず、検証も確証も得られない心的欲求の投射による得体の知れない妄想なのである。
三、自我
心とは五集合要素(五蘊)による精神作用であり、この五つの精神作用の内にドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・痛み・迷い・悩み・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・無明・欲・心痛など)智慧も叡智も涅槃も地獄も極楽も平安も悦楽も福楽も静逸も歓喜も満足も不満も無明もあるのであり、色受想行識という五つの要素が集まって働く時、自分という意識を生じさせるのであり
本質的・主宰的・実存的な魂・霊魂・霊体という妄想を抱かせるのである。
身体的にも細胞から神経・肉・熱・空間・骨・臓器・筋肉・表皮・爪・毛髪に至る全ての物質的要素は新陳代謝により常に入れ替わっていて、凡そ自分と呼べる固定的・実体的・実相的・永遠的なものなど何処にも見付ける事が出来ない。
そんな流れゆく無我(アナッタ)な存在が、妄想に過ぎない自我に拘り捉われ自我意識を握り締め、自己中心的に自分の都合で物事を観て物事を判断し物事を行ない物事を語れば、物事は自分の思い通り都合通りに成らないものであり不満・怒り・ドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・痛み・迷い・悩み・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質のなさ・無明・欲・心痛など)に翻弄されながら生きるアーサバー(汚穢・知識.情報.刺激)を外世界から染み込ませながら、
アーサバー(汚穢・感覚.衝動.記憶)を内世界から染み出しながら、
精神性(六道)を堕としてゆく事となる。

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