賢明と頑迷

釈迦尊の教えは真理である。故に永い時を経過した現代においても実に有益な教えであり、発展を遂げた科学と物質文化の中にあって複雑な社会構造によるストレスに晒され現実と理想とのギャップの中に生みだされる苦悩や不満や怒りが人の心を蝕んでゆく今の時代こそ釈迦尊の真聖なる仏教が必要とされるのではなかろうか。                                          
人類の歴史を紐解けば、原始生活から抜け出し社会生活を営んできた人類は中世から近代に至るまで手工業を中心にした緩やかな発展を遂げながら西洋の先進的な文化や技術は東洋に伝えられ改良や発展が加えられ、東洋の革新的文化や技術は西洋へ伝播するという双方が学び習得して互いに発展してゆく循環の中に形成されて来たのであるが、その真の目的は慈愛でも啓蒙でもなく好戦的な民族性を宗教(信仰)の持つ柔和な外見に潜ませながら支配や権力による収奪が主目的であり産業革命以前の西洋において発達を促進させたものが主に武器や武力の類であった事からも顕著なのではなかろうか。西洋の宗教(信仰)もその謀事に加担し一翼を担ったのも異教徒を劣る者と見做し非人間扱いする野蛮な傲慢の上に成り立つが故ではなかろうか。
宗教改革により悪法が改善されたかに見えたキリスト教も、カルバンにより定義され、後にマックス・ウェーバーにより是認された予定説によるプロテスタンティズムにおける勤勉の美徳と意義が、産業革命を経て資本主義における勝ち負けの価値観が人間の存在としての価値観と看做され、神との契約における恩寵であるとされ、宗教の持つ宗(むね)とすべき教えである倫理・徳目・道理における勤勉が「所有の次元」を支配する悪魔の誘惑に従順である事が勤勉であるかの如く解されるが、真の勝利者とは「存在の次元」に対し勤勉である事でもあり,得体の知れない外他から押し付けられた価値観や意味に翻弄されず自分という存在が具する真の生きる価値観や意味を明確に発見する必要がある。「所有の次元」とは存在欲(煩悩)により魅入られる世界であり決して満たされる事のない不死(永遠の生命)への妄想に幻惑される次元に他ならず「盲目的な生命への意思と、それによって顕現する「表象の次元」でもあり、人間は必ず負け敗者となる定めの上に在るのである(死)。
故に神の名のもとに永遠の命を無責任に強調し喧伝し、疑る事を戒め盲目的な信心を課す科するのである。
文化の伝播と仏教との社会における関わりあいを観るときに、先ず印度において伏陀(バラモン教)に影響された大乗仏教は内陸アジアにおいてマズダ教に影響されガンダーラで偶物信仰化され中国に伝わり、中国において老荘思想儒教道教の影響を受け本覚思想化したものが我国に伝わり我国において土着習俗や神道の洗礼をうけ依り得体の知れない信仰へと変異して開花したのだが、仏教思想の核心はしっかりと我国に根付き日本人に先進的な風と多大なる影響を与え日本文化と伝統を育んできたのである。一方、現存する釈迦尊の真の教え(経典)を伝えるのが上座部仏教である事は疑う余地がない事実であり、大乗仏教上座部仏教原始仏教小乗仏教だと見下そうとする根拠は単なる自己正当化しようとする身贔屓な感情でしかないのである。(釈迦尊の教えを正しく学ぶのが仏教なのだから。)しかし大乗にそう罵られても仕方がない面を上座部仏教自身、充分に認識しながらも改めることが出来ない第六蓋を内包している事は否みえないのである。                          何と詭弁を弄そうが民衆の心を正しく導く釈迦尊の教えを保守的で頑迷な者達の誤まった解釈により前向きで進歩的な発想「利他こそが自利を生じる」原則の喪失が上座部仏教国を発展途上国と成し後進国と成らしめ剰え植民地と貶めたのである。好戦的な者たちに対し争いで対抗すべきではなく忍耐すべき処は忍耐すべきであるが、決して服従すべきでもなく、命を惜しむべきではなく、ただ忍従する道を釈迦尊は決して説かれてはいないのである。争い以外の存在の道を説かれ同時に智慧を説かれているのであるが、温暖な環境と素朴な民族性や穏やかな社会の影響が歪み得ないのだが、上座部仏教は民衆に智慧を施したであろうか、上座部仏教は民衆に智慧を宣撫したであろうか、他者に利益を施すことで自利を得る事が出来るという基本法則による発展や進歩が何かあったであろうか何か生み出したであろうか、実は殆どないのではなかろうか。原始的な生活から手工業に移行させた文化を、それ以上の利他的な有益な創造を育む宗教的価値を放棄して空くまで搾取する側に寄り添い支配する側に寄り添い搾取され支配される民衆を宥める役処に収まった智慧を伴わない保守的な頑迷さで唯、非戦を説き忍従を説き発展と進歩を阻害のではないのか。                他方、大乗仏教においても戒名を高額な対価を以って購わせる如き所業を改める自浄作用を持合わせない愚昧は、過ってキリスト教が贖宥状(免罪符)などという愚挙を改革した自浄作用と倫理感と比して仏教の品格を貶める行為に他ならない。幸いにも民族の勤勉さを糧として愚かな支配層の基においても進歩と発展と創造を遂げてきた我が国も、信仰の衰退とともに宗教をも喪失して生きる目的さえも錯覚して「存在の次元」に気付けず「所有の次元」に翻弄されることが「生きる目的のごとく錯覚し、客体でしかない事物を、主体の如く崇め讃え求める妄迷の中に、苦や悩みや不満を造り出してはいないだろうか。   
何事も時間の経過とともに保守的で頑迷な器量の狭い者が上に居座るものであり、賢明で真摯な探究は和を乱す元として排斥されてゆく傾向があり「驕れる者は久しからず」と言われる如く、自浄作用を失った保守的な頑迷は停滞と衰退を招くのである。
そこには「将才」に恵まれた「君才」に乏しい狭量な人間が指導者に納まってしまう社会制度が構築されてゆくからであり、兵隊として有能だからといって有能な将軍とは成りえない如く、有能な将軍が有能な君主とは成りえない如しなのである。例えるならば人員整理削減を功積と見做したり利財を兵に還元せず内部留保や事業拡大に費やし保守的な頑迷に安堵するのは将才であり君才には非ず、兵を護らず切り捨て、武勲を自分の保身に用立てる君主に、兵は一命を擲ち尽くすや如何、責任は他人に押し付け、功は自分が浴するような北国の将軍様のような君主が指導する国は初戦は勝てても最後には必ず負けるの例えである。   
保守的な頑迷に陥ると物事や状態や結果を、自我意識は他者のせいにし、感情的に誹謗、中傷し、自己肯定を試みるが理性的(客観的理解認識能力)にその状態や結果を分析し理解すれば、その原因が自らに内包することにも気付け再起も可能なのである。
頑迷と賢明を語るとき、先ず分別すべきなのが「宗教と信仰」の大いなる混同に付いてでありキリスト教などの「religion」を宗教と誤翻訳した過ちから混同されるのだが「religion⇒信仰」であり信仰=宗教では決してないのである。 西洋宗教は神を語り信仰してゆく道であり、真聖な仏教は人を語り改めてゆく道を説くのである。     
それは産業革命により近代文明を築いた西洋文明の神が、東洋文明の宗教に勝るからでなく、倫理・徳目・精神においては相通じる処も学ぶ所も多いが、神を語るものか人を語るものかという異種西洋文明を中心にして世界は流動している事実を以ってしてキリスト教が東洋思想(仏教など)より優れた信仰であり優れた宗教であるとは言えず、所有の次元を賛美し、富の収奪を賛美し、貧富の拡大を是認し賛美する資本主義を発展させ、「存在の次元」を侵す教えを説く者は破壊と憎しみしか残さないのである。  過ってカール.マルクスは「宗教はアヘン(麻薬)である」と宣ったがこれは「信仰はアヘン(麻薬)である」の意味であり、宗教(むねとなる教え・倫理・徳目・道理)は人として必須なものであり、信仰は人を惑わし愚かにさせるものなのである。共産主義は未熟な観念でしかなく決して礼賛できる思想ではないが社会構造にユートピア(理想郷)を求めた崇高な理念の試みではあったが(仏教とは精神構造にユートピア(理想郷・極楽浄土)を実現させるもの)、信仰に惑わされる民衆を無くし、資本家に搾取される民衆を無くし、権力に置き去りにされる貧しい民衆を無くし、教育を施されず階級社会から零れ落ちる民衆を無くしたいという理念は、素晴らしいと讃える。
指導者の本来持つべき理念であるが保守的で頑迷な指導者は、権力という「所有の次元」へと諂い、能書きを並べて弱く貧しい民衆から搾取することを計らうものである。 
一方、大乗が開花した日本が先進国といわれるまでに成長し、温暖な気候風土という環境に相まって発展途上国とか後進国といわれる地域に広まった上座部仏教より優れているとは言えないのである。  洋の東西、釈迦尊の真偽の教えについても、それを用いる人々が保守的で頑迷に陥ってしまうか、賢明に本質を理解する実践的に前向きに用いるのか次第なのであり、「何故、釈迦尊は書物(本)を遺さなかったのか」にも通じるのだが文字の持つ曖昧さや時間の経過とともに本意を理解できずデカタンスなイデオロギーを構築してゆく事を釈迦尊は充分に認識されていたのではなかろうか。                                  キリスト教ではアダムとイブがエデンの園を追い出され「苦」の中で生きることを神から命じられた罰であると説くが、この現象世界自体が「苦」を前提条件に存在しているのであるからエデンの園はこの現象世界の「外」という事にもなるが、実は愚かな人達が「苦」と呼ぶ現象は天地自然の法則(物理法則)が因果の法則により暫定的に巡り合った現象に過ぎず「苦である」と感情が捉えた不満に過ぎず、楽の種であり、活力源であり、生存エネルギーなのであり、発展の為の源泉なのである。 
賢明とは賢く物事の道理・道筋に明るい事、頑迷とは、頑なで道理や道筋が理解できない事と、辞書はいう。    
観念論者や賢しい者が知識や見解を真理の如く宣うが、実践により検証し観察し理解して確証を得たものでなければ仮説や空理空論や能書きに値するものでしかなく頭の中で描いた妄想と感覚にいくら合致しようとも真理の如く見誤ってはならない。そんな知識が偏った見解や主義を捏造してしまうサンカーラ(固定観念・先入観・識別)を積み上げて行くのである。 知識を土台にした智慧と真理とは実践の中に検証し観察し理解して確証を得るものである。このように考える人を「賢明な人」という。             知識や見解を真理の如く捉え、間違った観念を検証し実践することも無く自分の観念に合致するから真理であると崇拝する者を「頑迷な人」という。つまりは感情(特に自我や貪瞋痴)に主導され、妄想や迷信、先入観、固定観念などから離れることが出来ず間違った見解に自縛されている事に気付けない事が「頑迷」なのである。                                      
賢明とは、頭がいいとか記憶力が優れている事ではなく、柔軟な発想と広い了見とを具し、先入観や固定観念や検証されていない見解や迷信などに惑わされず、物事を道理・筋道に沿って考え検証し智慧を顕現し真理を得ることが「賢明」なのであり、賢者の道なのである。              しかし感情により成り立つ社会に於いては、頑迷な者が主導し人々を頑迷へと導く、感情により成り立つ社会の中に於いては賢明な者は異端者とも写るだろうが、歴史はそうした異端者達により創造されて来たのである。 
もし理性により成り立つような社会が訪れるとしたら、賢明な者が社会を主導し人々を賢明へと導くだろう、そんな社会に於いては頑迷な者達は恐らくは破壊者とも成り得るだろう。                                自我に拘り、自己中心な幸せを願い、他の命や物事との関係性・関連性に目を向けることもなく真摯に感謝することさえ忘れた社会とは必ず衰えてゆくのも自然の法則であり、それは賢明な者と頑迷な者のどちらが依り多く育って行くか次第でもあると言える。                     
そして頑迷な者は「正義」を振り回したがるが、正義とは自分の立場にたった正義にすぎす、他方にも他方なりの正義が在ることが解らない。       
仏教に「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉があり、これは「兵も武器も必要とせず争そうな。」という教えであり、正義を降りかざし無用な争いをするなという事であり、正義とは立場や時間や場所によって変化する生ものであり自我が造りだした幻想か自己防衛や自己肯定の手段にすぎない代物なのである。  「正義と真理」とを混同してはならない。そして他者や他説を尊重し、非難や中傷をしてはならない。    「正義」などという偏った見解に陥らず、しかし「真理」というどちらにも偏らないものを語ることを躊躇うな。              
頑迷な者、邪険な者とは語らうな。そこには無益な争いしか生じないのだから。そんな者達の前では黙して耐え忍べ。例え頑迷な者に非難、中傷、攻撃されようとも争うことなく妥協することなく賢明な者達に「真理」を語れ世間は、間違った見解でも唯、信じ従うことを是認し肯定したがる。それがまるで善行であるかの如く。 世間のいう事を鵜呑みにせず、真実や真理を追い求め検証し理解しようと努め励むことを、まるで変人か悪行であるかの如く捉えたがる。                世間は感情により支配され、倫理や道徳(道理)の存在を認めながら、倫理や道徳(道理)の前に「所有の次元」を優先すしているのだから。      
「存在の本質」とは「真理の探究」であり、愚かなで無明なる者が真理へと向かうことが、真の善であり、依存や貪りや妥協こそが悪なのである。      正義を振り翳すことは無用なことであるが、真理を指し示すことは有用なことなのである。幻想、迷信、先入観、無知、固定観念、都市伝説、間違った見解などから解き放ち、真に何のために生きているのか、生きるとは何かを気付かせる理性に勝る善はないのであるから。
「所有によって輝く者は自らが輝いていると錯覚するが、実は自らは輝いては居らず、存在によった輝く者こそが、自らが輝いて居るのである。」
努め励むならば苦労は不満ではなく精進の種なのである「苦は楽の種、楽は苦の種」なのであり、因みに今、世界を牛耳っているのは西洋を中心とする「ユダヤ」と東南アジアを中心とする「華僑」と日本を中心とする「在日」であり彼らは皆、虐げられ差別された境遇から「苦のエネルギー」を勤勉と精進へと向け、グローバルで重厚なネットワークを築いてきたのである。 皆、その祖先となる人々は虐げられ新天地を求めた棄民でありながら、その「苦のエネルギー」を悪事に向けた一部の者達を除き、宗教を拠り所とした勤勉と精進と智慧を忘れる事なく、苦難を乗り越え努め励んできたからに他ならない。(苦難を乗り越えるのも苦のエネルギーなのである)
今の立場、環境に不満を募らせ「頑迷」に生きるならば「存在の次元」を見失った所有の次元を彷徨うが、もし「賢明」に生きるならば「存在の次元」から「所有の次元」を制しても行けるのであり、歴史は指導する者達により動かされるが、歴史を実際に築いて来たのはそんな「存在の次元」から「所有の次元」を眺める眼を開いた者達により築かれてきたのである。
神仏を語るならば、神仏とは見守ってくれるものであり「自分を真に助け救ってくれるものは、自分の努力だけ」なのだから。