僧侶(沙門・比丘)の在り方

僧侶よ 僧伽(サンガ・集団)を道標とすれども、決して軛とするなかれ。
僧侶とは多くの人々の為、多くの人々の幸福の為に全人生を捧げる立場に在り、その為に自身を高め修練に励むのであり、人々から厭離し孤高を気取る捻くれ者とか他人を顧ることなく自分の経済的生活を営む者は、慈愛・慈悲・奉仕を基本とする釈迦尊の教えに沿わない者でなのである。
道は法を頼りとし自ら歩むものであり、僧伽(サンガ・教団)が正しき道へと導くのではなく、自らが法をたよりとし正しき道へと向かうのである。それは法を逸脱したとしても僧伽(サンガ・教団)の思惑が優先するからであり、
大乗(マハーヤーナ)から成り立つ新仏教である日本の各宗派においても昔は座主や管長職を皇族や公家出身者が納まり、教説や指導は才覚ある者が担ってきたが、昨今は学者肌な者を座主や管長に推し戴く風潮が強まり、一層に観念的・硬直的・頑迷的な権威主義的仏教と表現せざるを得ない伝統と習俗により存立している感は否めず、大乗仏教を盲目的な人達の系譜を連綿と繋いでゆく軛と化している事に気付かねばならないのではなかろうか。古人も嘆いたように仏道の門を叩く者が、観念や妄念という能書きに自縛され、のぼせた男が思いつめて僧侶の道に入り慈悲を語り、多情な女が色狂いの果てに尼僧となって法を説いているようでは、教団(サンガ)や寺院の中は愛欲と俗欲の温床と成ってしまうのである。
出家(出世)とは物理的な出家(出世)ではなく、精神的な出家(出世)なのであるが、人里離れ、山の中に住し出家を気取るのは自己陶酔か、ひねくれ者でしかなく自我(エゴ)がそうさせているに過ぎないのである。自分への拘りや自意識を捨て去って、他者へ寄り添い、他者の為に生きるのが僧侶であり沙門であり比丘なのである。
それが真の道なのか誤った道なのかを理解し認識し正しき道へ向かい歩んでゆくのは各自の自覚次第なのであり、釈迦尊が身をもって歩まれた聖道跡を辿る事を蔑ろにして、俗事に安易に関わる事に何の疑問を訂することもなくただ信じて追従するものを無知(無明)というのであり、仏事でもない事柄に感まけていて仏道を疎かにするものを僧業者というのである。
宗教(宗となる教え)である仏教を信仰化させ、存在の次元を説く釈迦尊の御教えを蔑ろにし、尚且つ所有の次元を説く低次元の俗物と為したるに疑問を呈する事もなく、信心こそ善行であるが如き邪見を以ってその歴史の上に安穏としていては、進歩も価値観もただ風の前の塵芥の如しなり。
「疑」とは必要不可決なものであり、人類の社会・科学・政治・精神などあらゆる物事の進歩も「疑」によって齎されて来たのであり、この「疑」を失うとは人を無知(無明)のままの存在とさせ進歩を妨げ停滞させ退廃させてゆき、何れは作為ある思想や得体の知れない信仰などに盲目的に信心させられ従属化させられ家畜化させられてゆくのである。「信者とは憐れな子羊であるから大いなるものに庇護してもらわなければならない」などという脆く儚い存在でありながらも至高な存在である人間に対して家畜としか認識しない得たの知れない信仰が内包する本質は「至高なる存在である人間に対する作為ある者達による支配欲」他ならないのである。
仏道とは、釈迦尊と同じように懐疑を以って世界を眺め、深い洞察力と体験的に観察し検証し理解してゆく事が重要なのである。
しかし仏教の教説には「疑とは真理を明確に理解し、精神的に進歩するための五つの妨げ(五蓋)の一つである」と説かれているのだからと、一部の浅薄な者や偏った者は、信じる事(信心)こそが大切だと仏説に説かれていると解釈し人としての存在を高めてゆく宗となる教え(宗教)仏教を、得体の知れないものや力への信仰に懐疑する事なく依存してしまう。しかし疑法蓋(五蓋)を疑いをもってはならないとか疑わずに信じろなどと解釈する事自体が邪見なのであり、これは下らない物事つまらない物事どうでもいい物事に対して捉われ拘り縛られた疑いや悩む事の愚かさに気付き、必要な疑問は放置しておかず理解してゆかなければならない。という意味であり、全ての悪や苦悩の根源とは愚かな本質的な無知(無明)なのであり誤解・誤認であり、疑問や戸惑いや躊躇いがある限り進歩して行けない事は自明の理であり又、物事が真に理解できず明確に検証し明確に認識できない限り疑問が残るのは当然な事であり故に真に進歩する為には疑問を放置せず疑問をなくしてゆく努力が不可欠であると説かれているのであって「疑わずに信じるべき」などと仏教が説く事など決して有り得ず、「信じる」とは本当に物事を理解し見えているという事ではなく、人が疑問を持った時点に於いてそれ以上どう進んだらいいのか判らなくなり、その疑問に戸惑ったり苦悩したりする事がある。そしてその疑問がある限り、その疑問を放置しては先に進む事が出来ず、先に進む為にはその疑問をなくす事が必要である時、その疑問をなくす為の方法は一つではなく、ただ単に「私は信じる」とか「私は疑わない」というのは問題や疑問を本当に解決した事にはならず、疑問を放置して理解する事なく受け入れる事は無知(無明)のまま盲目的に在る事であり、目覚め(悟り)に向かう事を放棄する事でもあり、真理を明確に理解し、精神的に進歩するための五つの妨げ(五蓋)の一つであると説いているのである。
五蓋に於ける疑法蓋(vicikiccha)とは、物事の是非が明確に区別・理解できない状態をいうのであり、頭から否定する事も鵜呑みにし受け入れてしまう事も「疑」なのである。他人の言う事や権威あるものに書かれている教説でも、例え釈迦尊の御言葉であっても自ら調べ検証し確かめる事なく無闇に受け入れてしまう者には智慧や叡智は育ちづらいのである。
善行為としての「疑」とは疑たがう事ではなく「これは事実だろうか」と理性的に客観的な理解認識能力により考え、疑問を以って自ら調べ確証を得てゆく事であり、いきなり却下したり又、鵜呑みにしたりする自分の進歩を妨げてしまう「疑」とは不善な行為であると説かれているのである。