覚醒と超越と解放

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自分を高め 世界を変える真正な仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

目覚め、乗り越え、解き放て!

覚醒と超越と解放
世の中には汎ゆる罠が張り巡  らされていると.釈迦尊(ブッダ)は仰った。                         
それらは作為的.無作為的に欲望.利得の為に無明(本質的無知)な者.愚かな者.未熟な者.依存的な者を取り込絡め取ろうと世界中を網羅していて多くの人達はその巧妙な罠に気付かずに取り込まれ染脳され家畜化(無思考化)され真理(真実.現実.実相)が見えなくなり.煩悩(存在欲)に翻弄され無明の闇の中を盲目的に生きながらも、自分は正しく考えている.自分は正しい方向へ進んでいる.自分は正しい生き方をしていると信じ込まされ思い込み自惚れながらドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.痛み.怖さ.迷い.哀しさ.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.不満.欲望.無明など)を深めながら生きている                       
目覚め覚醒させ、乗り越え超越させ、解き放ち解放させ、真に自由で平安で悦楽で静逸で堅固な真理(現実.真実.実相)に依るスカ(安楽.涅槃)な境地を指し示し導く事こそが衆生への真の救済だと言えるのだが、人は例え愚かであろうと間違っていようと偏っていようと他の迷惑.害とならない限りに於いて人は自由に生きる権利があり敬わねばならない、故に仏教では気根が調い救済を乞い願う者に対してその状況.状態.程度.質に応じて対機説法として釈迦尊(ブッダ)が発見し到着された真理(真実.現実.実相)を説くのであり、他の教えを誹謗したり貶めることなく他の教えも敬い、仏教こそが正しい教えであり他の教えは劣るものだとは説かず唯、来て見て行って理解するか理解しないかだけであり、もし他に真に自分の為になると思える教えが在るならば、それに従いなさいと説いて居るのである。 
自らを真に助けるものは自分だけであり、自らの意志と信念と努力に依って自らを助け進歩させてゆけるのであり、得体の知れない神や仏や力によって成される理由ではなく、例えそれが如来であろうとも道を指し示すだけであり、道は自らが拓き歩かねばならず自らが目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放されてゆくものなのである        
もし他の方法(信仰.呪文.超能力.祈り.念力.霊力など)に依って堅固なる真理(真実.現実.実相)による涅槃(ニルバーナ.叡智.こよなき幸せ.平安.悦楽.歓喜.静逸.スカ(安定.大楽)を実現できると説くものが在れば.それを偏り.間違い.偽り.邪なものと呼ぶ。                               
  
■瞑想(内観.禅那.観照)   瞑想(内観.禅那.観照)を行ぜんと欲する者が瞑想(内観.禅那.観照)を行ずるに際し目覚め覚醒し、乗り越え超越し、捨て去り離れ捨離し、解き放たれ解放される信念を忘れてはならない。                                  瞑想(内観.禅那.観照)の核心は覚醒⇄超越⇄解放の順逆の繰返しにより依り高度な深淵(真理.真実.実相)へと向かうものなのである。                      それに気付かず未熟な者が欲望(不浄な欲心)により悟りや超越的能力や超越的境地や超越的存在などの出現を渇望した潜在意識のままに瞑想(内観.禅那.観照)を行じ、禅定(ジャーナ)やトランス状態に入った時に錯誤した悟りを啓いたとか特別な能力が具わったとか、神や仏に出会い、神や仏が教えを説かれたというような瞑想における悪魔の誘惑釈迦尊(ブッダ)も仰る悪魔が仏の姿で現れたり妄迷な信仰に陥れたり邪で偏った思想を植え付けたりするような潜在意識下の不浄な欲心による妄想.幻覚.錯覚などを打ち破り目覚め乗り越え解き放たれて正道を外れた邪教や謗説や世迷言を生み出してしまう危険を内包している事を真摯に自覚し心の浄化を伴った瞑想(内観.禅那.観照)を心掛けなければ決して真理(真実.実相.真如.摂理)には到達出来ないのである。                                         

正しい禅定とは目覚め→乗り越え→捨て去り離れ→解き放たれ→それらを阻害するものであり、(心の不浄、染み出るアーサバー.汚穢・染み入るアーサバー.汚穢)に目覚め→乗り越え→捨て去り離れ→解き放たれるを繰返しながら自ら浄化しながら深淵なる真理(真実.実相)へと向かって行くのであり、誰でもが到達できる筈の大悟に到達する者が少ないのは欲心を浄化(目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放ち解放する)出来ずに不浄なまま欲心の具現化に陥るからに他ならず、そうして愚かなもの偏ったもの間違ったもの邪なものはそのようにして創られて来たのである。              
主観が生み出すものが妄想であり、知性(理性)による客観が生み出すものが創造(想像)
「もし人が、一切の妄想を離れる事が出来れば、あらゆる苦悩から完全に解放される。」

■正 道
人生とは選択であり、選択の連続の上に織り成されてゆくものであるが目覚め覚醒とは選択ではなく絶対的で堅固で実相である真理(真実)の発見である。
目覚め(覚醒)には智慧が必要であり、乗り越え(超越)には意志が必要であり、解き放たれ(解放)されるには勇気が必要であり、涅槃(ニルバーナ)に到達するには努力が必要であり、焦ることなく平らかに静かに機が熟するのを待つだけ、大悟(叡智)は自ずと顕現する
目覚め(覚醒)とは真理(真実・この世界の実相)への目覚めであり、無明(無知)に気付き目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放ち解放され真理の光明に照らし出される本当の幸せを実現してゆくものであり、四念処(身念処・受念処・心念処・法念処)により身体の状態に気付き、感覚の状態に気付き、心の状態に気付き、法則への状態へ気付き、自我意識の妄想に気付き、捉われず拘らす執着せず、思い込み.既成概念.固定観念.学説.伝統.権威.勢力.外見.格調.世評.主張.染脳(洗脳).錯覚などに惑わされることなく,自らの智慧と思惟により真理(真実・この世界の実相)を理解する事であり、目覚め(覚醒)し、乗り越え(超越)し、解き放たれ(解放)し、観自在なる菩薩(ボディサットバ・人は自分の為に生きてるのであり、自身が満ち足りて居らず不足と不満を糧として生きている人に、他人の利の為に生きるなどと説く詭弁・能書き・建前論などに誑かされされず自分への囚われ拘り執着により他の存在を分別.分断して捉えようとする自我の炎を吹き消し、自他同時の存在となる)の境地から、叡智の顕現により涅槃(ニルバーナ)へ到る自灯明と法灯明に依る真のこよなき幸せへの道である
目覚め覚醒し、乗り越え超越し、捨て去り離れ、解き放たれ解放される為には無明(無知)の闇を晴らし、その盲目的な不毛な系譜に列なる暗愚を真理(真実)の光明(自灯明・法灯明)で照らし出し明確に理解しなけれはならない。

無明① 一切皆苦
人は本質的なドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.痛み.悩み.哀しみ.悔み.脆さ.弱さ.儚さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無明.欲.渇き)により、根深い自己防衛欲と自己保全欲とを有していて何かしら依存する拠り処(精神的支柱)を必要とし、そんなドゥッカにより投影された妄想的な神や仏や倒錯的な力に保護.安全.安心.恩恵を願い求めて真理(真実・現実・実相)から遠ざかり盲目的.妄想的.倒錯的.迷信的に生きてそして死んで輪廻してゆく憐れから目覚め、乗り越え、解き放たれる
無明② 法無我
人間とは五つの要素(色.受.想.行.識)の集まり(五蘊)でしかなく、魂.霊魂.霊体と呼ばれるような普遍的で永遠的で主宰的なものなど存在せず因果律(因縁)による五つの要素の集まりという現象であって、実相(自性)として他との相互相対的な関係性から独立して単独では存在し得ないものである事に明確に気付き自我の妄想.錯覚から目覚め、乗り越え、解き放たれる
無明③ 人無我
人間とは五つの要素(色.受.想.行.識)の集まり(五蘊)である。
色蘊とは物質的要素であり、人身とは骨.肉.器官.液体.空間.熱などの集まり(五蘊.結び目)である。
受蘊とは五つの感覚器管であり、眼.耳.鼻.舌.身(触覚)による感受機能である
想蘊とは思考.記憶要素であり、認識.識別などの機能である。
行蘊とは個体の性質的要素であり、業(カルマ)であり情報刺激に対して意図.意志.欲望を形成させる機能である。
識蘊とはそれら要素によって概念や意識として形成させる機能である。
これら五つの要素が集まって働く時、自我(自分)という固定的で実存的な間違った意識を錯覚する。
自分とは五つの要素が集まり形成されている一時的で暫定的な仮りの姿でしかなく何処にも自分という普遍的で実体的.実存的なものは見付ける事が出来ない事に気付き、目覚め、乗り越え、解き放たれる。
無明④ 諸行無常
この世界の全ては常なくうつりゆき流れゆき変化生滅を繰り返す途方もないエネルギーの流動であり、永遠的.普遍的.実相的なものは存在出来ない世界であり、故に得体の知れない創造神や仏など常住的なものは存在し得ない世界なのであり、生命の輪廻の流れもこの変化生滅の流れの一環なのである。
この真理.摂理.現実.真実を理解し受け入れて目覚め、乗り越え、解き放たれる
無明⑤ 涅槃寂静
妄想的.錯覚的.偏り.間違った概念錯覚.思い込み.主観.世評.迷信.言い伝え.伝聞.通説.学説.情報.知識や拘り.捉われ.執着から叡智と知性と努力により目覚め、乗り越え、解き放ち、在るがままに平らかで静かな心で、満ち足りた甘露で堅固なこよなき幸せ(涅槃)へと至る。(輪廻する形成力が消滅し輪廻してゆく事が出来なくなり輪廻から解脱・成仏するのであり、輪廻から解脱・成仏する力を得る(授かる)のではない事を明確に理解して頂きたい。)
仏教とは獲得してゆく道ではなく、捨て去り離れて(捨離)してゆく道なのである。
●信仰と真仰
世の中で言われる信仰や信心とは無明(無知)という闇の中に居る物事が見えていない盲目的な人達が行う行為であり信仰や信心とは物事が見えた瞬間には消滅する性質のものなのであり、物事が明確に見える人にとって世の中で言われる信仰や信心は存在せず明らかな信頼と明らかな信頼への敬いと感謝と崇拝が在るものなのです。
釈迦尊(ブッダ)が説かれた真に正しい仏教は世の中で言われる信仰や信心には関知していない異質なものであると言え故に大乗思想は仏教思想とは言い難く幾ら歴史と伝統と風格に裏打ちされようとも無明の闇を彷徨う盲目的な者達の系譜に過ぎないのです。是非、目覚め、乗り越え、解き放たれて真理(真実.現実)の光明を照らし出して頂きたい
偏りと不浄さの消滅と真理への到達は物事を識り、物事が明確に見える人に依ってのみ可能な事であり物事が明確に見えない人には不可能なのである。
釈迦尊(ブッダ)が説かれた真に正しい仏教に於いて常に重要な事は信じる事(妄信)や鵜呑みにする事ではなく識る事と観る事(エーヒ.パッシカ)なのである。
目覚め覚醒とは目が生まれ、知識が生まれ、叡智が生まれ、知性が生まれる事であり、肝心なのは知性或いは叡智によって観る事であり、信心によって信じ込む事ではないのであり、大乗諸派が自らの伝統と権威を以って自らが強要真実であり正当なものだと思い込み社会にも受け入れるよう容赦なく主張して憚らない欲望に塗れ閉塞した今の時代が真に正しい釈迦尊(ブッダ)の仏教を必要としているのではあるまいか

●六方崇拝(真仰)
●正統な仏教徒は六方拝(東.西.南.北.天.地)を行ぜよ。
六方への崇拝
東方拝 東方に両親を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
西方拝  西方に兄弟姉妹を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
南方拝  南方に恩師や上司を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る 
北方拝  北方に友人や隣人を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
地方拝  地方に使用人・部下・弟子を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
天方拝  天方に聖人や如来を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
この六方を崇拝すべきであり、崇拝対象に対しその義務を果たすことにより初めてその崇拝は大いなる果報を生じる。
※六方拝(東西南北天地)とは全方位から齎せる恩恵への感謝と祈りでもある。
●全ての生きとし生きるものたちが幸せで在りますように。

■真理(真実)とは検証出来てこそ真理であり唯、信じる信じないと言うような検証も確証も得られないまま物事を鵜呑みにする事も、又ただ感覚的に拒否してしまうのも無明で盲目的だからなのであり、物事を眺める事は出来ても物事が見えてないのであり、物事を既に理解できてると錯覚しているだけで本当は理解できてないのであり確証を以って信じていない事は、疑問を残したまま信じるとか信じないと選択してるだけでしかなく、真理(真実・この世界の実相)へ向かおうとする形成力(意志)を放棄して無明なまま盲目的なまま立ち止まってしまう言う事であり、先へ進む為には疑問を晴らし真実を理解し確証と確信を得なければ単に妄信しているだけに過ぎず、目覚める事も乗り越える事も解き放たれる事も出来ずに、寝呆けたままで目覚めたと自惚れたり、毒華(ドゥッカ・不安定.不完全.苦しみ.悩み.心痛.迷い.悔み.恨み.哀しみ.脆さ.弱さ.儚さ.空しさ.不満.惨めさ.実質のなさ.飽き.無常.無明.欲望.渇き)に冒されながら乗り越えたと錯覚したり、妄想.欲望.執着に雁字搦めに縛られながら解き放たれたと錯誤するのです
因みに条件(因縁)により生起するものは条件(因縁)により消滅する性質のものでありドゥッカな本質(不安定・不完全・苦しみ・痛み・悩み・迷い・悔やみ・哀しみ・儚い・脆い・弱い・空しさ・惨めさ・実質のなさ・愚かさ・無明・欲)のものであり、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)以外の心的認識機能を魂主宰論的に捉え、真我・真如・未那識・阿頼耶識および倒錯された阿摩羅識や乾栗陀耶識など無明な欲望による不毛で思想の荒野とも言える妄想された観念から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放されねば、真理(真実)へと向かい真の平安と喜びと幸せを掴むことは出来ず妄迷と無明の中を盲目的に偏りながら彷徨う結果を得る事になる。

【覚醒と超越】

目覚め、乗り越えざる者は
位人臣を極めても世界の王となろうとも夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め、乗り越えざる者は
巨万の富、金財宝玉の山を築こうと
夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め、乗り越えざる者は
世界遺産を行き尽くし見尽くしたとて
夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め、乗り越えざる者は
如何に勢力を誇り権力に座そうとも
夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め、乗り越えざる者は
如何に人心を掌握し仰ぎ見られようとも夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め、乗り越えざる者は
何を築きて何を遺し名声と賞賛に浴すとも夢幻なる塵芥舞いて旅逝くが如し

目覚め.乗り越え.解き放ち
無明の闇を明らしめ
叡智を得たるは涅槃なり

この世で多くを造りたる者は分解の縁あり
この世で多くを費したる者は生産の縁あり
この世で多くを奪いし者は奪われる縁あり
この世で多くを恨みし者は恨まれる縁あり
この世で多くを憎みし者は憎まれる縁あり
この世で多くを慈しむ者は慈しみの縁あり
激しき流れは果てしなく 
因縁の連鎖を晦まさず
生るべきになり 
在るべきにあり

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