如来の心は如来のみぞ知る

如来の法(真理)は、憐れみにより…
憐れむものは、無明なり…
如来の法(真理)は、苦しみの消滅であり…
苦しみの根源は無明なり…
如来の法(真理)は、堅固な幸せ.涅槃であり…
涅槃の道を閉ざすは、無明なり…
如来の法(真理)は、覚醒(目覚め)であり…
如来の法(真理)は、超越(乗り越え)であり…
如来の法(真理)は、解放(解き放ち)であり…
如来の願いは、厭離(捨て離れ)であり…
覚醒.超越.解放.厭離の道を阻むは無明なり…
如来が嘆息するは、無明の闇の中を.手探りで盲目的に暗夜行路を歩くが故に、行き当たる悩み.苦しみ.心の痛み.生きる空しさ.怒り.不満…が、自分自身の無明が引き起こしている事実を愚かな人達は、気付けず.受け入れず.理解しようともしないこと…
梵天勧請】
私が覚った.この真理は深淵で.見難く.難解であり、鎮まり.絶妙である…思考域を越え.微妙であり、賢者のみ良く識るものである…
しかし世の人々は、執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている…
さて執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている人々には、此れを条件として彼れがあるという…因果律、即ち縁起の道理は見難い…
また全ての形成作用の鎮まること、全ての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、堅固な安らぎ(ニルヴァーナ)という道理は見難い…
だから私が理法を説いたとしても、他の無明なままの人々が、私の言う事を理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ…私には憂慮があるだけだ…
如来蔵へ到達された.お釈迦はそう考えられ人々に広く説かれることを躊躇われ、このまま涅槃(ニルヴァーナ.堅固な安らい)に入ってしまおうとなされたのです…
そこに現れるのが梵天神であり、[泥水の中から頭をもたげ.清らかに開花する大輪の白蓮のように、泥水のような世の中にも、この偉大なる真理を理解できる者達もいるものです…この偉大なる真理を埋もれさせず.是非、そんな人々を堕落から救う為にお説き下さい…]と、お釈迦様を説得なされ、初転法輪へと続いてゆくのですが、
ここで注意して認識すべきなのが、今も昔も[仏教の教えは、世の潮流に逆らうもの]であり世の潮流とは.欲望に魅入られ.翻弄され.ドゥッカ(苦悩…)を造り出しながら汚れ.荒んでゆく人々の心の流れをいうのです…
「甘露の門は開かれたり…
耳ある者は聴け、眼ある者は見よ…
梵天よ、我れ人々を尚も惑わさざらんと
微妙な正法を説かざりきなり…
梵天よ、我れ[不死の門(涅槃の門)]を開くこととした…
耳ある者は聴け、眼ある者は見よ…
私心を捨てよ…
人々は高貴な真理の言葉を得るだろう…]
✿仏教では、仏教への後援者.支援者.理解者などを[神]と呼び習わすのです…
つまりここで登場する梵天とは.バラモン教(ヒンデュー教)の神様である梵天神とは、お釈迦様の啓かれた真理を理解され.支援もされたバラモン教の高僧の事なのです…
✿仏教は新興の[真理の教え]として、受け入れられた反面、旧来の迷信的.盲目的な染脳(洗脳)から目覚め.覚醒し、乗り越え.超越し、解き放たれ.解放される事が出来ない弟子達(修行者)も多く存在していたのです…
お釈迦様が危惧された通り.そんな染脳(洗脳)状態を乗り越える事が出来なかった無明な者達が、迷信的.盲目的な愚かさを内包したまま立ち上げたのが大乗仏教であり、その大乗仏教を核心とするガラパゴス化した日本仏教なのですが、それでも凡そ2000年の間に.進歩し.整合され.洗練された大乗仏教の中にも光り輝く真理が数多く内包されていて、本流を自負する上座部仏教より余程.目を見張る真理を発見する事が出来るのです、つまりは頂乗仏教とは如来(お釈迦様)の御心を真に理解し得る如来により.大乗仏教の内より真理に照らし.迷信的.盲目的.頑迷的な部分を取り除き、お釈迦様が指し示された真理を実現させる実践的な仏教を学ぶ学舎なのです…