大慈悲

自分に執着して自分の事ばかり考えて生きている人に、慈悲と喜捨(四無量心)の心などあろう筈もなく、そこには辛うじて世間を憚った偽善のみがあることだろう…
何故ならば慈悲を施す心や喜捨する心とは、自分の心の充足度(満足)の如何に従って生じる性質ものであり、例えば無常な欲望の充足に忙しい[地獄心]や[餓鬼心]や[畜生心]という貧しい心には、本当の慈悲や喜捨の心は現れないのだから…
しかもそれがドゥッカ(毒華・苦しみ)を生み出している事に気付くこともなく…
その毒華(苦しみ.ドゥッカ)から逃れようと、欲望の充足へと向かい、無常の波に翻弄される
のですから…
ドゥッカ(毒華.苦しみ)に打ち勝つには、無明の闇を晴らし、堅固な心の充足(満足)を得ることだけなのです…
☆注 釈
[地獄心]
他人を騙したり殺めても欲望を満たしたい心[餓鬼心]
まだ満足出来ない.もっと欲しい.もっと欲しいと貪る心
[畜生心]
これは自分のものだから減らしたくないという自分に捉われた心

しかもその過度の執着による.吝嗇や物惜しみの心の為が、自ら苦悩や不満を造り出している事に気付く事が出来ない…
[毒 華(ドゥッカ)]苦しみ.悩み.不安定さ.不完全さ.心痛.恐怖.憂い.不満.哀しさ.迷い.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質の無さ.無常.無明.欲望…
■無明
欲望の対象である[所有の次元の事物]により心の充足は得られない.
その欲望に幾ら応えたところで更なる要求をしてくるだけであり、決して満たされる事がない…
逆に無明な欲望を抑制していくことにより、欲望の炎に煽られ、波打つ湖面のような心は次第に鎮まっていく…
鏡面の如く鎮まった心は、真実を映し出す…


○世の中で実施される各種の調査でも、老いて最後に悔いる事が、自分に捉われ拘って生きてしまった事だと聞きます、もっと他者の為に何かしてあげればよかったと嘆くそうです…
■ドゥッカ(毒華)に打ち勝つ
心の満足 不満がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲
心の恐怖 恐怖がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲
心の安楽 苦しみがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の平安 悩みがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の幸せ 心痛がなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

心の安定 迷いがなければ欲望もなし
ただ在るがままに在るだけ…他への慈悲

◆他への慈悲は、幸せの三要素である心の二階部分の育成となります…
◆欲望の充足は幸せの三要素の三階部分であり、有ればあったで幸せですがドゥッカ(毒華)を伴います…
無ければ無いでドゥッカ(毒華)を伴わずに幸せを築けます…
♥ドゥッカ(毒華)に打ち勝つには、心の一階部分の存在性(人間性.人格.精神性…)が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥存在性を磨くには無明(本質的無知)の闇を晴らしてゆく事が必要となります…↓↓↓
♥無明の闇を晴らすには智慧(叡智)が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
智慧(叡智)を得るには感覚.欲望に翻弄されている今に、気付いて目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放されるには、正しい法(真理.真実.事実.現実.実相)を依り処とする事が必要となります…
                  ⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥正しい法を習うには、自分を学ぶ事が必要となります…⇓⇓⇓⇓⇓⇓
♥自分を学ぶには、真の如来の導きに頼む事が懸命な道だと言えるでしょう…
■幸せへと導く慈悲の言葉
私、人々、生きとし生けるものが 、幸せでありますように…
私、人々、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように…
私、人々、生きとし生けるものの願い事が叶えられますように…
私、人々、生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように…


私を嫌う人々も幸せでありますように…
私を嫌う人々の悩み苦しみがなくなりますように…
私を嫌う人々の願い事が叶えられますように…
私を嫌う人々にも悟りの光があらわれますように…