カルトは世に蔓延る

以前「無知の涙」という永山則夫死刑囚の手記が有ったが、無知(無明)とは正しく人を盲目的にさせ主観的な欲得に執着させてしまうものである。
人が妄迷な迷信や神秘主義に取り憑かれたり得体の知れない神仏とか霊能者や預言者などを媒体(決して主体ではない)とする信仰に嵌まり込んでしまうのも、捏造された権威や歴史の前に平伏してしまうのも無知(無明)なるが故である。
再三再四、説いている事だが、真の仏教とは人間が人間として真っ当にそして幸せに生きてゆく為の宗となる教え(宗教)であり、今の世の中で言われる信仰宗教ではないのである。先ず宗教(宗となる教え)と信仰とを分離して客観的に考える必要があり、本質的には宗教と信仰とは真逆な関係性のものであるとも言えるのであり、信仰とは所有の次元へと向かわせるもので在るのに対し宗教とは存在の次元へと向かう道を説くものなのであり
人間は本質的に不安定な存在でしかなく、永遠の存在への空しい幻想や存在欲という果てしない自縛の中を必死で生きている存在であり、そんな人間達が大いなる存在への素朴な畏敬や付託などの精神心理の投射が神仏を妄想し、そんな神仏を媒体として用い(主体は作為ある者の手により編まれた教義などである)得体の知れない神や仏などの力を捏造したのである。しかし歴史ある宗教(信仰)に於いては宗教と信仰との混在により組み立てられ、多くの尊い教説により成立している事は紛れもない事実であり、現況の如何に関わらずその成立に於いては善や慈しみに基いて説かれたので有っただろう事は疑問の余地はないのだが、得体の知れない神や仏を媒体として成立していて、神や仏を抜きに語る事が出来ないという決定的な矛盾により信仰部分の破綻により宗教部分も破綻せざるを得ない欠点を内包している。
素朴な信仰を越えた信仰は、人を盲目的に追随させ無知(無明)を深めさせてゆく害悪であり麻薬と同じようなものでもある、当初、それにより精神や心理は安らぎ快感さえ齎すが、無知(無明)な者達はその安らぎや快感が煩悩(存在欲)により為される短命な感覚に過ぎない事に気付くことが出来ない、煩悩(存在欲)は新たな刺激によって齎される歓びや安らぎ快感に次第に飽きてしまい当初のような安らぎや快感を感じる事が出来なくなってゆく性質のもので、当初味わった安らぎや快感を求めて麻薬患者が麻薬の使用量を増やしてゆくのも問題を抱えてカルト集団や新興宗教(信仰)や空理空論と観念に寄って立つ現実から乖離した倒錯的なものに迷い込んでしまうとなかなか脱出できずに却って深みに嵌まり込んでいってしまうのも無知(無明)なるが故の依存症なのである。
そんな人々を憐れみ、目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれ(解放)真に自由の甘露を噛み締めて生きて欲しいと願っている。
世の中には、自我(エゴ)と主観に誑かされて自分の欲得を満たす為には他人を犠牲にする事など顧みない人間達が沢山存在し、あらゆる罠を仕掛けて善良な者を食い物にしようと虎視眈々と狙っているのである。また社会で成功者などと呼ばれる者達の中には「サイコパス」と呼ばれる精神病質(良心の欠如・非情)の持ち主も多いが、所有の次元の勝利とは頭脳や能力より根気と集中が要求され必然的に弱肉強食な戦いの場であり遠謀深慮や非情さを要求されるのであり、無知(無明)な善良な犠牲者を肥やしか獲物と考えていて「騙された方が悪いのだ」などと嘯いている事を忘れてはならない。
他人や他の生きとし生けるものたちに対して慈しみ優しく労り接する為には、他人や他の生きとし生きるものたちも一生懸命に生きている事に気付けなければならない、しかし真実は一生懸命に生きてはならないのである
一生を懸命に生きようとするから焦ったり拘ったり捉われたり執着してしまうのであり、一処一処(集中を必要とする時)を懸命に取り組むのであり、無知(無明)の闇から一刻も速く抜け出して一生を賢明に「一生賢明」に生きる努力をし、無知(無明)による頑迷から解放されてゆかなければ真の歓びも幸せを得られないまま老いてしまうのである。