人間だもの

相田みつおの「人間だもの」と言い切った人間の在りよう、自我意識、生き方、命の尊さなど、自分の本質的な弱さをも曝け出し生と死をも包摂する存在表現であり実に奥深く情緒と感性を刺激せずには於かない名言であるが、現代社会に於いては「人間だもの」を失敗や無知や愚かさを言い繕い正当化する手段として用いられる風潮が見受けられ、そんな人達に限って自己反省や改善に向かう上昇志向に乏しく、失敗は発明の母とも言われるように数々の失敗の中から新たな創造は為されイノベーションは見い出されるのであるが、失敗の中に反省や自戒と検証や新たな意欲を見い出す事が出来ず、人間だから失敗する事や無明でいる事や愚かなのは仕方ない事だと諦め開き直っているようでは成長も向上も発展も創造も望めず、かといって自分の能力や限界を過度視し身の丈、身の程、身の分を違えて完璧を求めるあまり「人間だもの」という心の余裕や柔軟さを失う事により躁鬱症や精神分裂病を発症する人が現代社会では増えているのも事実である。
しかし自分を「人間だもの」と思う自我意識とは人間存在の錯覚であるとも言え、変化生滅の中の現象的存在に過ぎず決して実存的存在ではない自分を固定的に実存的に捉えようとする事であると言え全体性(世界)の中に自分という状態・減少が存在しているのであり自分という存在の周囲に全体性(世界)が纏わりついているのではなく、自己中心的に物事を測ろうとする事自体が自分という存在への錯覚や勘違いであるとも言え、錯覚と勘違いに基づくからドゥッカ(苦.心痛.悩み.悔い.不安定さ.不完全さ.悩み.儚さ.脆さ.弱さ.哀しさ.空しさ.惨めさ.怖さ.無明.欲)へと行き着くのである。
人間、誰でも若かりし時、自我が芽生え感性が未だ純粋な時代に人は誰でも自分という存在に対し内面の心と向き合い、自分とは何?何故生きるの?どう生きればいいの?などと無明(無知)の闇の中で戸惑い迷い悩むものであり、乗り越える事が出来ないままに意識と心とを外世界に向ける事で無明の闇の中を煩悩(存在欲)の要求に翻弄されながら彷徨い生きているのである。
先ず、自分とは何?何故生きるの?どう生きればいいの?と言う疑問自体が生存の素因である煩悩(存在欲)の要求なのであり、煩悩(存在欲)が自分をどう存在させてくれるの?と問いかけているのであり、もし今の生き方に満たされず疑問を抱いているとしたら外世界の情報や見解や社会的価値観などに振り回されずに、限りある自分という存在がどう生きる事が、自分が真に納得でき存在的価値を見い出せる生き方であるのか、人は時には自分を振り返り自分自身の内面と冷徹に向き合い自分自身を見詰め直す心が、自分を真の幸せへと導くのではないでしょうか。
人間は肉体的にも精神的にも未熟な状態で生まれて来ていて成長するに従って真に人間となって行くものなであり、子供を餓鬼と呼んだのもそれ故であるのだが肉体の成長と精神の成長とは必ずしも一致して行くとは限らず,そこには環境や教育や親や地域などの指導という重要な要素と共に、本人の自覚が伴って行かなければ精神の成長と身体の成長とに齟齬を生させるのである。それは感情による良い情緒(情操)と理性による客観的な理解認識判断能力(叡智)とのバランスの取れた発達に拠らねばならないものであり、情緒ばかりを育てて叡智を同時に育てて行かなければ情の深い優しい愚か者ともなりかねず、理性による叡智とは言わないが智慧ばかりを育て、同時に情緒(情操)を育てて行かなければ薄情で冷酷なエリ-トとなってしまうだろう。視聴覚の中心がラジオからテレビとなり、パソコンから今日ではスマ-トフォンが主流とも言え街中には異様な光景を現出させていて多くの大衆は歩きながら自転車に乗りながら車を運転しながらでも画面に夢中で、外部にばかり夢中になっていて果たして自分の内面を見つめる事などあるのだろうかとさえ危惧してしまう。要は現時点での自分という存在を自ら正しく観察し理解し認識することが出来なければ失敗や無知や愚かという盲目的な闇から逃れる事など能わず、世の中に溢れる知識や情報に翻弄された概念と主観的な自我意識(自意識)により所有の次元に魅入られ欲得や執着の中を苦や悩みや怖れや不満を造り出して行く事ともなり、そんな時「人間だもの」と自嘲して溜飲を下げても何の慰めにもならないばかりか、その瞬間から「向上」という本来の存在の価値や意味は損なわれて行ってしまい兼ねず、それは現実的に物事を考えるという成長した現代思考が得体の知れないものへの盲目的な信仰から遠ざかった時、同時に人間の成長に欠かす事の出来ないない宗教観(宗となる教え・道徳・倫理・叡智)も喪失させてしまったからに他ならず、それが為に人生に迷ったり躓いたり何かしらの障壁に突き当たった時には闇に迷い盲目的に戻ってしまい所有の次元を説き人の感情や欲得を刺激するような質の悪い新興宗教の罠に容易に填まったりして人生を無駄に費やしてしまったりするのである
人が向上してゆく為には先ず自分というものを前向きに謙虚に冷静に見つめる事から始まり大体がいつまでも未熟で愚かで空しい存在でしかなくつまらない物事や下らない物事やどうでもいい物事に捉われ拘り考え続けてしまう自分が見つかる筈であり、そんな自分を「人間だもの」と諦観するでもなく欲得や煩悩に翻弄され執着しながら宣うものを仏教では人間とは呼ばれず人非人(ひとでなし)とも呼ばれ阿修羅・畜生・餓鬼とも堕ちていってしまうのである。それは先日に何処かのブロクだったかで夜道で強姦魔に襲われた女性に付いてその犯人や多くの男性達からの「夜道を一人で歩く女性も悪い」という意見に対して老婦人が「親の教育がな成っていないからであり、夜道でも女性が安心して歩ける社会でなければならない。」と仰ってらしたが、全くその通りなのであり、この問題は別に親が難渋する課題でもなく足し算引き算の損得勘定であり、街には金銭で性欲を解消してくれる別に強制連行された理由でもない女性達が居るのに金銭を愚かに浪費してしまったり金銭を惜しんだりしているだけなのに「男とはそんな欲求に駆られる事がある」などと「人間だもの」論を、さも尤もらしく宣って而もそれを正論の如く支持する人非人が多くなって来ている事が、即ち今の自分を冷静に客観的に見つめる事を忘れ、感覚的で衝動的な感情に主導された主観的な自我(エゴ)に振り廻される人間が増殖している所以なのではないでしょうか。