悉有仏性とは

仏教経典を一生に渡り読み続けようが、研究しようが釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解する事など到底できないだろう。釈迦尊(ブッダ)の教えは実践してゆく道を説くのであり、仏法を知識.情報として捉えるならば解脱も覚りも大悟や叡智や涅槃を現わす事など決して在り得ず、それは学者や研究者や観念論者の仕事でしかないのであり、すべては自らが観察し分析し思惟し実践し検証し発見し理解し啓発して行くものであり、衒学的なものでも信心を求めるものでもなく自覚と変化の道を指し示すだけである。
俗世社会とは「所有の次元」へと向かい物事を依り所有した者を勝利者と呼称する世界であり、仏教さえも仏教思想という知識の所有量で仏教を理解していると錯誤している者達も多く、所有への飽くなき執着により人々は利己主義へと向かい争い憎みあい殺しあっているのではなかろうか。                                                             宗教(宗となる教え)とは「存在の次元」へと向かう道を指し示すものでなければならず存在としての真の意味、真の価値観の存在を啓発するものであり、釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教のみが存在の次元を明確に指し示し、存在の価値を磨き.高め.輝かせ.真の幸せを得る道を説いているのである。(妄想された神や仏や得体の知れない怪しげな力への信仰・信心は非存在物への所有の次元へと向かわせる価値観を説いている。)
故に釈迦尊(ブッダ)は究極的な真理を顕現された時、他の人達に説法する事を躊躇われたのも、所有の次元に翻弄され自分というものに囚われている俗世の潮流に逆らうものであり、高遠で、深く、微妙で、難解なこの存在の次元に顕現する真理を到底、理解出来ないだろうと思われたからに他ならない。それは俗世や信仰というものが所有への執着により成立しているのに対して、真理とは埋ずもれた存在であり、それを顕現させ存在させる為には呪縛している物事、覆い隠している物事、帯びている物事、執着させている物事、誤認識させている物事・・・などあらゆる物あらゆる事を「捨て去ってゆく事」「無執着」により顕現してくる事を指し示して居るのであり、故に釈迦尊(ブッダ)は他のあらゆる境地でさえも、所有による条件付けられた現象に過ぎないものであり、唯一、自然法である涅槃(ニルバ-ナ)とは本質的であり且つ実存的であるものだと仰っているのである。
大乗教(マハ-ヤナ)の涅槃経典の中に、「一切衆生 悉有仏性」と説かれて居て、大乗教的に捉えるならば「仏性というものを草木の種と同じように考えて、種をまくと、日光の恵みや雨のうるおいで、やがて芽を出し茎も成長し、枝や葉が茂り、花が咲き実を結ばせる。仏性もその通りで、衆生の中に仏性の種が宿っていて、いろいろな仏縁や良縁、つまり因縁がこれを育てると、ついには結実して仏性があらわれる。」という解釈は所有の次元を指し示しているのであり「自分の中には仏性という種子があって、それを善い指導や知識などの栄養分を所有・吸収して、うまく育てるとやがて仏性の花が咲き、仏性の実を結ぶ」という観念は偏った考えであり自分という存在を正しく見ようとしない.見ようとさせない完全に全くの間違った見解に発するものであり「人の心の奥底には仏も住むが鬼も住む」のであり、欲望.執着は所有欲であり.所有欲は仏性を萎えさせ鬼性を育てる根源であり「仏道とは自分を習う事であり、自分を習うとは自分を忘れる事である」(自意識を捨て自意識に囚われず無心に物事に没入しなさいよ。)と正に世俗諦を啓かれた道元禅師が宣った「全部一切が仏性そのものだ」という受け取め方も半分正解で半分間違いではなかろうかと思う。「一切の物質・生命というエネルギ-の本性は仏性そのであるのだが、エネルギ-運動という継続性・連続性の流れを生じる時、本質的な性質(不安定の安定化への渇き)を帯び、五集合要素(五蘊)を形成し各エネルギ-体の構成要素を条件として「負荷」を帯びて本性である仏性は顕現しない。」のであり、何かしらの所有により成長し顕現して行くものではなく、カルマ(業)やサンカ-ラ(残滓・汚穢)などにより、所有の次元に執着してゆく五集合要素(五蘊)により不浄化してゆく、カルマ(業)やサムカ-ラ(残滓・汚穢)などを捨て去ってゆき、渇望を安定化させてゆく事により顕現してくるものなのであり、それは存在の次元へと向かうことにより仏性は現れて来るとも言え、自我意識を捨てた身心が、汎ゆる執着を捨て、執着の五集合要素(五蘊)を捨て、汎ゆる自縛を捨て、汎ゆる概念や観念を捨て、汎ゆるカルマ(業)やサムカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)を捨て、汎ゆる事物から解き放たれて顕現してくるものなのである。しかし多くの大乗教は釈迦尊の教説を同じように語りながらも別方向(所有の次元)へと向かったり、龍樹の不毛な形而上学的な思想の荒野ともいえる観念や、空理空論に誑かされてしまうのである。
仏性とは、魂や霊魂、霊体などという主体論ではなく、生命エネルギ-の本質(不安定状態の安定化への渇望)が、叡智により安定化し潤されたときに顕現する涅槃(ニルバ-ナ)における五集合要素(五蘊)は仏性なのである。
感覚は存在するが、感覚の主体は存在しない
行為は存在するが、行為主体は存在しない
移ろいの背後に、自らは移ろう事のない移ろいの主体は居ない
ただ、移ろいが在るだけである
人生と移ろいとは、二つの異なったものではなく、「人生は移ろう」と言うのは間違いであり、人生は「移ろい」そのものである
思考の背後に思考者は居ない 思考そのものが思考者である
仮に思考を取り除いてみても その背後に思考者は見出だせない
五集合要素(五蘊)こそが自分という存在であり、五集合要素(五蘊)の背後に 主体的な存在など居ない
生命エネルギ-が継続性・連続性という連鎖運動を条件として生起させる五集合要素(五蘊)自体が 自分ともいえるのである。
自我意識(自意識)とは、生命エネルギ-の本質的意志(不安定状態の安定化への渇望)が、五集合要素(五蘊)により妄想させるのである。
故に、執着の五集合要素(五蘊)は所有の次元の事物に価値観を見出し執着を増幅させてゆくが、そこに在るのは一時的で短命な快や楽でしかない付随物(付き随がうもの)であり客体でしかないにも関わらず、魅了され惑わされ翻弄されて幻想世界に迷い込み、砂上の楼閣を一心に築く事に人生を費やしてしまうのであるが、俗世の人達はこの所有の次元の事物を、依り多く所有した者を勝利者と呼称する。
他方、出俗の人達は存在の次元へと向かい、所有の次元の事物の真の価値観を明確に覚り、所有の次元の事物への空しい妄想から目覚め、一切の自縛から解き放たれ、執着の五集合要素(五蘊)の一切を捨て去り、解き脱した者を真の勝利者(勝義諦)と呼称し、如来とも尊称するのである。