輪廻転生

 輪廻のうた 作詞 多々方路傍石 
[線路は続くよどこまでも]の節で歌ってみて下さい。
1,
輪廻は続くよ~どこまでも~   
生と滅とを~   繰り返し~    遥かな過去か~ら~ 未来まで~ ♪
進化の歴史を~ なぞりゆく~ ♫
2, 
輪廻は巡るよ~ いつまでも~   ♪
激しい流転を~ 浮き沈み~    ♪
何処から来たりて~何処へ行く~ ♪
何に成りても~ 難度海~     ♫
3, 
やっと生まれし~ 人の身に~  ♪
欲得、煩悩~ まみれ生き~    ♪
激しき流転を~ 繰り返す~    ♪
仏はブツでも~ 微生物~      ♫
4, 
軛を解かれて~ 涅槃界~    
全き摂理の~ 仏の座~     ♪ 
天の輪廻を~ 流れゆき~     ♪
いつかは必ず~ 梵釈天~   ♫ ♫ 

輪廻のうたでも唄って頂いてリラックスして頂いた処で、心を引き締めて実にシビアな項目である輪廻と転生について説こうと思います。
この重要な問題である輪廻転生については、成仏とともに生命科学.宇宙科学.自然科学の進歩に伴い.その実在性も肯定されつつあるのですが、無明な懐疑論者や短絡的な人達は、丁半博打の如く[在るか無いか]のどちらの目に賭けようかという不毛な世界で足掻いています…
先ず世間に溢れるオカルト的な非現実的な観念や思想…人様を欺き金財を搾取するのを目的に霊能者や占い師と称する者達が騙る輪廻や転生やチャクラ・オ-ラなどという精神的に倒錯した思想や見解を補強するものでも是認するものでもなく、しかし日本人の多くの人が有している中国から持ち込まれた先祖崇拝思想や神道的な彼の世への思想や浄土思想などを根本とする死後思想とは全く異なる真正な仏教思想で説かれている真実の輪廻転生とは日本人が特に受け入れがたい処でもあり、それが大乗から派生した新仏教(日本仏教各宗派)を造らせたとも言えるのですから…
では何故、何を根拠として輪廻転生を断言できるのかと言えば、それは科学の進歩のお陰さまで真正な仏教思想の正しさが除々に証明されて来ているからに他ならず、云わば最先端の科学が真正な仏教思想に追いついて来た感さえあり、真正な仏教思想の一つたりとも最先端の科学に否定される項目など見当たらず、寧ろ最先端の科学に裏打ちされ証明されつつあるからに他ならないのです…
少し話が脱線しますが.短絡的な都市伝説や刹那的な人生観から広まったのだろうと思う事に、現代の多くの人が「一度きりの人生」だとか「楽しんだ者勝ち」という言葉を歪んで捉えていたり、彼の世と此の世と輪廻転生の狭間の中で盲目的な情緒に安んじているようでもあります…果たしてそれが理性による客観的な理解、認識によるものなのか、主観的な感情論によるものなのか疑わしく思ってしまう処が否めないのである。「一度きりの人生」といえば当然な事であり、我々は一瞬一瞬を一度きりの時間を過ごしているのであり、たとえ昨日と同じように感じたとしても我々は常に二つの連続する瞬間を通じて、同一であり続けるものは何一つとしてなく、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けている一度きりの時空に存在しているのだから。また「楽しんだ者勝ち」といえば当然な事であり、それは生命の本質的なものであり、渇愛(渇き)という本質による不安定状態からの安定化と苦からの脱出であり、それらにより形成される煩悩(存在欲)という生存の素因が表層の思考域に伝えている衝動が「楽しいと感じたい。幸せになりたい。満足感を得たい。」という感覚なのであり、楽しんだ者が幸せ者なのは確かなのだが、感覚により造り出される感情と、感情により造り出される概念や主観と、主観により造り出される自我による妄想とが、五蘊作用(五集合要素)により五感官を駆使して外界に向かう事により所有の次元に於いて得た快楽は苦を前提条件とした一時的な快楽に過ぎず、必ず苦へと戻り着いてしまう性質のものであり、故に更なる快楽を探し求めて彷徨い貪欲心や執着心を増幅させてゆくのだが潜在域の煩悩とは案外と早く飽きてしまゆき、最初に味わった振えるぐらいに興奮させる喜びを得る事は出来なくなってゆき、更なる要求や執着を増幅させて、苦や不満へと帰りついてしまう性質のものなのである。それは煩悩とは永遠の存在へ向かって放たれているのであり、斬新な経験による痺れるような興奮や喜びとは煩悩を永遠の存在に向かわせる出会いかもしれないと興奮させているだけなのであり、経験によりそうではない事を煩悩が認識しサムカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)にインプットすれば煩悩は興味を失い飽きてしまうプロセスを繰り返しているだけなのである。それは一時の快楽を得る為に大きな苦や不満を招いているだけでしかなく、やはり短絡的で浅薄で盲目的な無知によるものであり刹那主義や享楽主義といった偏った観念に基いた錯誤により自分を欺いているに過ぎないのではなかろうか、その実、潜在域には苦や不満を積み上げて居るのであり、故に捏造された幻想であり妄想にすぎないと言わざるを得ず自我や主観という感情的な本質が「楽しんだ者勝ち」と言わせているのでは有るまいか。そしてそれが明々白々となるのが輪廻に於けるカルマ(業)とサムカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)による因果律に即した転生先なのである。
真正な仏教思想では「私」と見做している存在は、たえず移ろい変化する物質的エネルギ-の集まりと精神的エネルギ-(生命エネルギ-)の条件付けられた結合にすぎず、それらは五集合要素(五蘊)により構成されている状態としての存在なのであり、意識とは五集合要素(五蘊)の作用を条件として生起し、条件のない処には意識は生起せず、意識とは追随的なものであり意識とは物質・感覚・識別・意志に依存して生起しているのであって独立しては存在しえないのであり、偏った観念が生み出した不変的な魂・霊魂・霊体とその意識という誤った考えは今でも根強く残っている一方、不変な魂・霊魂・霊体と先向的な意識の存在を否定するに伴って輪廻転生をも否定してしまうという穿ちすぎな観念も修正しなければならない。
真正な仏教が説く「二つの連続する瞬間を通じて、同一で在り続けるものは何一つとしてなく、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅する継続的・連続的な流転を続けているのであり、因果律に従って一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付けているのである。従って持続的・不変的な「私」と呼べるような実相は見いだせず、それは相互に依存しあう物質的・心的な五集合要素(五蘊)が結合して機能する時に「私」という概念を生じさせているに過ぎない。」という仏教思想は既に最先端の科学である量子力学において検証され証明もされているのであり、物質的エネルギ-の集まりと生命エネルギ-との結合状態(生きていると表現される)においても一瞬一瞬に生起と消滅を繰り返しながら存在しているように、物質的エネルギ-の集まりの崩壊(肉体的な死と表現される)によって物質的結合を失っても各物質は分子・原子・素粒子状態へと変化しようとも、生起と消滅を繰り返しながら存在しているように、生命エネルギ-も又物質的集まりとの結合を離れても、生起と消滅を繰り返しながら存在していて五感官という機能の喪失により電気エネルギ-による外的な五集合要素(五蘊)は失われるが内的な生命エネルギ-による五集合要素(五蘊)は保持しているのである(生きている時も結合を離れた生命エネルギ-であっても存在とは五集合要素だと言えるのである)、生命エネルギ-の本質と帯びるカルマ(業)とサムカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)という負荷により、生前の最終瞬間を端緒とする生起と消滅の継続性・連続性という連鎖する流転(輪廻)を否定することは出来ず、生起と消滅の継続性・連続性の上に因果律に従って新たな生物の生命エネルギ-として宿る(転生)ことも否定し得ないのである。
そして敢えて自分というものを定義するならば、自分とは即ち継続性・連続性という流転してゆく連鎖運動こそが自分というものなのであり、決して生起と消滅を繰り返している生命エネルギ-自体なのではなく、生命エネルギ-の消滅時の最終意識(カルマ.業)とサムカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)を生起した生命エネルギ-が継続し連鎖運動を繰り返しているのであり、この大宇宙さえも物理法則(天地自然の法則であり摂理)に従った途方も無く大きなエネルギ-の継続性・連続性という連鎖運動により存在しているのであり、生きている時(生命エネルギ-と物質エネルギ-との結合時)に於いて[条件により消滅し、次の生起を条件付けている]継続性・連続性という連鎖運動が、物質的エネルギ-の再生成の停止(死)を以って、生命エネルギ-の生滅の継続性・連続性という連鎖運動(輪廻)を否定する事こそが不自然な事なのである。
生命は輪廻という継続する連続性の連鎖の上に在り、人の身と生まれたるは有り難し、所有の次元の勝利者とは欲得に彷徨され大切な一生を費やし砂上の楼閣を築いたようなものでしかなく、故に存在として真の価値観や意味を磨き自らが輝いていたという錯覚から目が覚める時が必ず訪れ「夢のまた夢」「風の前の塵に同じ」と嘆息するのである。蛇足ではあるが皆さんは子供の頃に人生ゲ-ムとか銀行ゲ-ム(バンカ-ス)というゲ-ムで一喜一憂なさった事が無いだろうか、今生とは人生ゲ-ムの1ゲ-ムのようなものでしかなく浮いたり沈んだりの流転の連鎖の夢幻に過ぎず若し欲得や煩悩に塗れ不義理や恨みを積み上げるならば下層の生命から激しい輪廻を繰り返し、人の身として再び母の子宮に入には悠久な時を要さねばならない摂理がある事を忘れてはならない。
<追項> 輪廻
古代インドに於いてア-トマンとは「大いなる根源・本質」として想定されそのア-トマンが西洋に伝播して物質の根源・本質と考えられていた原子(アトム)とされたのではないかと考えられます。そして釈迦尊が在世の時代にはバラモン教ではア-トマンを「不滅な魂・霊魂・霊体」として誤認されていて、釈迦尊は御自身の内観による観察・分析・発見から不滅な霊魂や霊体などというものは存在せず、存在するのは五集合要素(五蘊)であり、相対的な関係性よる相互依存という条件性によって条件付け、条件付けられ存在しているアナ-トマン(無我・非我)であると表現されたのですが、ではアナ-トマン(アナッタ)とは何であるのかの定義が今の多くの仏教宗派では欠落してしまっているのではないでしょうか。。
この世界(現象世界)の全ての物質も心的なものも一源のエネルギ-の集まり(結び目)であり、次元形状により各種の運動性(振動性)が形成されている…
そして死とは肉体という身体(物質的な集まり)が機能を停止し再生産されない事であり分子・原子へと戻ってゆく事であり、心的には心を形成する生命エネルギ-(ア-トマ)は解き放たれるのであるが、物質を構成する物質エネルギ-も、生命を生じさせる生命エネルギ-も、脳内で思考や概念を生じさせる電気エネルギ-も根源的には同じエネルギ-であり、本質的な意志(不安定からの安定化・存在への渇き)により存在を継続し増大しようとする渇望が全ての命、全ての存在、全宇宙を形成し動かしている途方も無く大きなエネルギ-の膨脹と収縮を伴った離合集散の流れであり、全てのエネルギ-はその性質(周期)と条件により刹那ごとに生起と消滅を繰り返しているのであり、そこにあるのは継続性・連続性という連鎖の輪であり固定的・普遍的なものは存在出来ない世界なのであり、二つの連続する瞬間を通じて、同一の存在として在り続けるものは何ひとつとして無く、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けているのであり、消滅における最終想念が帯びる負荷であるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓や汚穢)が次の生起を条件付けているのである。、これを全体性として捉えてしまってはならない。人間の体(物質を集まり)としての存在をはじめ全ての物事が全体として同時に生起し、全体として同時に生滅している訳ではなく、一瞬一瞬とはマクロ的に捉えているのであり全体として同時に生滅を繰り返すならばこの物質世界や身体がネオンサインの如き点滅的存在であると言っているに等しいが、そうではなく仏教では時間的尺度をプランク時間(時間というものの最小単位)を一刹那とミクロ的に捉えるのであり、全ての物質は其々の周期・条件に従った刹那時間で生起と消滅という継続的な連鎖の流れを繰り返しているのであり、その集まりである物質は一瞬というマクロな時間的尺度で捉えるならば、一瞬ごとに生起し一瞬ごとに生滅していると言えるのである。そして心的エネルギ-とも言われる生命エネルギ-は一刹那ごとに生滅を繰り返していて、一刹那ごとに一刹那として同一の状態は存在し得ないのである。例えるならば最小の原子である水素はフェルミ粒子といわれる陽子と中性子で構成される原子核の周りを電子が廻っていると言われるが素粒子である電子は数刹那(一瞬の何十億分の一)に生滅を繰り返しながら連鎖的な流れを作っている(これを周っていると表現している)、フェルミ粒子である中性子は約十分毎に崩壊を繰り返していて、陽子は約十年毎に崩壊を繰り返すといわれているが、それらを構成している素粒子量子力学的粒子)は刹那における其々の周期・条件により、時間的尺度をマクロ的に捉えるならば一瞬(指をパチンと弾く間)ごとに生起と消滅を繰り返しながら流れ(連鎖の継続)を作っているのである。其々の生滅の周期・条件を持つフェルミ粒子・素粒子による集まり(結び目)として水素原子が存在しているのであり、身体で例えるならば分子が集まり細胞を構成し、細胞が集まり身体を構成しているのであるが、細胞は常に何処かが入れ替わりながら、この身体を存続させている集まりであるが身体の細胞が一時に同時に入れ替わる事はありえず、それでは集まりである身体自体が現れたり消えたりしてしまう事になってしまう。そうではなく因果律(エネルギ-とは生じては変化して消えてゆく)に従った其々の性質や周期・条件付けにより、ひとつのものが消滅し、それが次の生起を条件付けながら継続の連鎖を繰り返している。それは電荷を失った電子が滅し、電荷を帯びた電子が生じる継続性・連続性の連鎖によりあらゆる物質が存在しているように、生命の輪廻(サンサ-ラ)とは生命エネルギ-の本質と共に帯びる負荷(カルマ(業)・サンカ-ラ(記憶の残滓)によりこの世に結び付けられ引き継がれた因縁(継続性・連続性)による連鎖により生滅を繰り返し続ける流転であり連鎖なのである。それは因果律(物理法則・天地自然の法則・摂理)に随って、一つのものが消滅し、それが次のものの生紀を条件付けているのであり、消滅の時カルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)の最終精神を引き継ぎ、其々の生命(奈落な生命・餓鬼な生命・畜生の生命・阿修羅な生命・人・人天)から流転する連鎖の輪の中を生起と消滅を繰り返してゆくのである。では輪廻により流れて運んでゆく主体とは何なのかと言えば生命エネルギ-の本質と負荷として帯びるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)により条件付けられた連続性・継続性こそが自分という主体そのものであり、故に自分とは五集合要素(五蘊)こそが自分であり主体であると言えるのである。       そして誤解されているのが、成仏とか入滅とは涅槃(ニルバ-ナ)により身体の機能停止によりその軛から解き放たれた生命エネルギ-が消滅する時、次の生起を条件付けるカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の汚穢)に縛られることなく輪廻の連鎖という軛から外れ、消滅し無色界(仏界)に座して二度とこの世に生起すること(母体に入る事)がないのだが、パラノイア新興宗教の教祖などが自分はブッダ(釈迦尊)の生まれ変わりであるなどと嘯き主張したりしているが、それが実は反仏教的な行為であり釈迦尊を誹謗する行為でもある事さえ理解できないカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)の因縁深い盲目的な無知であり、それは輪廻の連鎖の流れを生命の根源である微生物(奈落)から捕食の関係性の上に流転してゆく事を条件付けている事に気付く事も覚る事も出来ない慚愧に堪えない憐れな愚か者だと言えるのです。
(たとえ成仏を果たせず仏界に座せず事が叶わずとも、天界で休息し、せめて善い処に人間として生まれ変わりたいものですね。しかし実際には人として死んで人へと再生成するのは精々1パ-セント以下でして約74億人分の人間としての座席を勝ち取るために無尽蔵とも言える生命が後に控えているのですから、人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)で存在の次元に生きる修行者や高徳の人ぐらいが人の身に再生成し、亡者は彼岸の淵を彷徨った後に、其々の生命エネルギ-の縁ある処へと再生成し進化の過程(捕食の関係性)でもある進化の連鎖という理法により人の身へと向かい何十万回、何百万回の流転を繰り返すのです。)
<追項> 
古代インドに於いてア-トマンとは「大いなる根源・本質」とされエジプト神話に於ける天地の創造神「アトゥム神」も同根だろうと考えられる。そのア-トマンが西洋に伝播して物質の根源・本質と考えられていた原子(アトム)として使用されたのではないかと思われる。
そして釈迦尊が在世の時代には思想や宗教において主流であったバラモン教によりア-トマンを「不滅な魂・霊魂・霊体」として誤認されてしまったのであり、釈迦尊は御自身の内観による観察・分析・発見から不滅な霊魂や霊体などというものは存在せず、存在するのは五集合要素(五蘊)でありその後ろに魂や霊魂といった主体的なものなど存在しないと発見され、相対的な関係性よる相互依存という条件性によって条件付けられ存在している事をアナ-トマン(無我・非我)であると表現されたのですが、ではアナ-トマンとは何であるのかの定義が今の多くの仏教と称する宗派では欠落して曖昧化されてしまっているのではないでしょうか。
この世界(現象世界)の物質も心的なものも様々なエネルギ-の集まり(結び目)に過ぎず、死とは肉体という身体(物質的の集まり)が機能を停止し再生産されない事であり分子・原子へと戻ってゆく事であり、心的には心を形成する生命エネルギ-(ア-トマ)は解き放たれるのであるが、物質を構成する物質エネルギ-も、生命を生じさせる生命エネルギ-も、脳内で思考や概念を生じさせる電気エネルギ-も根源的には同じエネルギ-であり、本質的な意志(不安定からの安定化・存在への渇き)により存在を継続し増大しようとする渇望が全ての命、全ての存在、全宇宙を形成し動かしている途方も無く大きなエネルギ-の膨脹と収縮を伴った離合集散の流れであり、全てのエネルギ-はその性質(周期)と条件により刹那ごとに生起と消滅を繰り返しているのであり、そこにあるのは継続性・連続性という連鎖の輪であり固定的・普遍的なものは存在出来ない世界なのであり、二つの連続する瞬間を通じて、同一の存在として在り続けるものは何ひとつとして無く、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けているのであり、消滅における最終想念が帯びる負荷であるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓や汚穢)が次の生起を条件付けているのである。、これを全体性として捉えてしまってはならない。人間の体(物質を集まり)としての存在をはじめ全ての物事が全体として同時に生起し、全体として同時に生滅している訳ではなく、一瞬一瞬とはマクロ的に捉えているのであり全体として同時に生滅を繰り返すならばこの物質世界や身体がネオンサインの如き点滅的存在であると言っているに等しいが、そうではなく仏教では時間的尺度をプランク時間(時間というものの最小単位)を一刹那とミクロ的に捉えるのであり、全ての物質は其々の周期・条件に従った刹那時間で生起と消滅という継続的な連鎖の流れを繰り返しているのであり、その集まりである物質は一瞬というマクロな時間的尺度で捉えるならば、一瞬ごとに生起し一瞬ごとに生滅していると言えるのである。そして心的エネルギ-とも言われる生命エネルギ-は一刹那ごとに生滅を繰り返していて、一刹那ごとに一刹那として同一の状態は存在し得ないのである。例えるならば最小の原子である水素はフェルミ粒子といわれる陽子と中性子で構成される原子核の周りを電子が廻っていると言われるが素粒子である電子は数刹那(一瞬の何十億分の一)に生滅を繰り返しながら連鎖的な流れを作っている(これを周っていると表現している)、フェルミ粒子である中性子は約十分毎に崩壊を繰り返していて、陽子は約十年毎に崩壊を繰り返すといわれているが、それらを構成している素粒子量子力学的粒子)は刹那における其々の周期・条件により、時間的尺度をマクロ的に捉えるならば一瞬(指をパチンと弾く間)ごとに生起と消滅を繰り返しながら流れ(連鎖の継続)を作っているのである。其々の生滅の周期・条件を持つフェルミ粒子・素粒子による集まり(結び目)として水素原子が存在しているのであり、身体で例えるならば分子が集まり細胞を構成し、細胞が集まり身体を構成しているのであるが、細胞は常に何処かが入れ替わりながら、この身体を存続させている集まりであるが身体の細胞が一時に同時に入れ替わる事はありえず、それでは集まりである身体自体が現れたり消えたりしてしまう事になってしまう。そうではなく因果律(エネルギ-とは生じては変化して消えてゆく)に従った其々の性質や周期・条件付けにより、ひとつのものが消滅し、それが次の生起を条件付けながら継続の連鎖を繰り返している。それは電荷を失った電子が滅し、電荷を帯びた電子が生じる継続性・連続性の連鎖によりあらゆる物質が存在しているように、生命の輪廻(サンサ-ラ)とは生命エネルギ-の本質と共に帯びる負荷(カルマ(業)・サンカ-ラ(記憶の残滓)によりこの世に結び付けられ引き継がれた因縁(継続性・連続性)による連鎖により生滅を繰り返し続ける流転であり連鎖なのである。それは因果律(物理法則・天地自然の法則・摂理)に随って、一つのものが消滅し、それが次のものの生紀を条件付けているのであり、消滅の時カルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)の最終精神を引き継ぎ、其々の生命(奈落な生命・餓鬼な生命・畜生の生命・阿修羅な生命・人・人天)から流転する連鎖の輪の中を生起と消滅を繰り返してゆくのである。では輪廻により流れて運んでゆく主体とは何なのかと言えば生命エネルギ-の本質と負荷として帯びるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)により条件付けられた連続性・継続性こそが自分という主体そのものであり、故に自分とは五集合要素(五蘊)こそが自分であり主体であると言えるのである。       そして誤解されているのが、成仏とか入滅とは涅槃(ニルバ-ナ)により身体の機能停止によりその軛から解き放たれた生命エネルギ-が消滅する時、次の生起を条件付けるカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の汚穢)に縛られることなく輪廻の連鎖という軛から外れ、消滅し無色界(仏界)に座して二度とこの世に生起すること(母体に入る事)がないのだが、パラノイア新興宗教の教祖などが自分はブッダ(釈迦尊)の生まれ変わりであるなどと嘯き主張したりしているが、それが実は反仏教的な行為であり釈迦尊を誹謗する行為でもある事さえ理解できないカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)の因縁深い盲目的な無知であり、それは輪廻の連鎖の流れを生命の根源である微生物(奈落)から捕食の関係性の上に流転してゆく事を条件付けている事に気付く事も覚る事も出来ない慚愧に堪えない憐れな愚か者だと言えるのです。
(たとえ絶対安定世界である涅槃界に成仏を果たせず仏界に座す事が叶わずとも、彼岸の淵で休息し、せめて善い処に人間として生まれ変わりたいものですね。しかし実際には人として死んで人へと再生成するのは精々5パ-セント以下であって約74億人分の人間としての座席を勝ち取るために千兆個の千兆倍(無尽蔵)とも言える生命が後に控えているのですから(まして地球だけではなく他の星系の生命体として再生成する縁もあるだろう)、それは人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)を条件として再生成するのであって、存在の次元に生きる修行も深まった者や来世の幸福の四因を積んできた人とか高徳の人達位が良い処の人の身に再生成し、亡者は彼岸の淵を彷徨った後に、其々の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)により縁ある処へと再生成し進化の過程(捕食の関係性)に流転の連鎖運動を繰り返しながら至高なる人の身へと向かい何百万回、何千万回の流転を繰り返すのです。<盲亀浮木>
★仏教は輪廻転生(りんねてんしょう)、業報思想(ごっぽうしそう)を説きます。輪廻転生とは生物が死んだ後、つまり肉体が滅んだ後においても、その生物は別の生命形態に生まれ変わり何度も何度も無限に近い時間、人間を含む生物達が何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す事をいう。
また、輪廻転生をするその生物達(衆生)は天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の六つに区分された世界を何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す。これを六道輪廻と呼びます。
天界とは快楽、喜びに満ちた境涯をいう、人間界とは人間の境涯、修羅界とは争いに明け暮れる境涯、畜生界とは家畜や動物の世界、餓鬼界とは常に餓えや乾きに苦しむ境涯、地獄界とは拷問の世界、大きな悩み苦しみ、激しい痛みに苦しむ境涯をいう。
仏教の経典、阿含経(あごんぎょう)パーリ仏典(増支部経典)において説かれるところによると生物は天界、人間界に生まれ変わることはごく稀であり、極めて少ないと説きます。地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説きます。
また人間界以外の仏道修行が出来ない境涯や、快楽、悦楽に酔いしれて真理の探究を省みない天界よりも人間界に生まれる事の方が特別に貴重な果報であると説きます。釈尊も最終的には人間界にお生まれになり人間界において修行を完成しブッダに成られました。
あらゆる生物のなかの最高の段階、世界を救済する仏陀としての段階に到達する可能性があるのは人間のみなのであるから、人間こそある意味ではあらゆる神々よりも尊いというのが仏教の思想のなかで重要なものである。仏陀に成るためには、神々でさえも天界から下って人間として生まれ変わらなければならず、人間の身でなければ最高の叡智を得て、最高の完成に至ることが出来ない。この意味において仏教では人間として生まれる事が何よりも尊く、貴重な財宝であるとされる。そして人間にとっては神々に生まれる事が良き道(善趣)と呼ばれるように神々にとっては人間に生まれるのが良い(道)と呼ばれるのは興味深いことであるが、これを読み解くには仏教とは妄想的な物事や観念を乗り越えた現実主義的な教えである事を忘れてはならず、仏教では神々の意味を読み解けば仏教に対し理解・支援・応援してくれる天界(豊かで恵まれた境遇)の人々を神々と呼ぶのであり、地獄とは妄想された世界ではなく地上や地底に現存しているのである。
また仏教では輪廻転生の本質は苦であると説きます。そして仏教の最終目標はその輪廻転生からの脱出、二度と輪廻転生しない事、その境地をニルヴァーナまたは涅槃(ねはん)に入るともいいます。阿含経に「梵行(ぼんぎょう)已(すで)に立ち、所作(しょさ)已(すで)に為し、自(みずか)ら後生(ごう)を受けざるを知る。」という経文がありますが輪廻転生を超越した境涯に至ったことを表す経文です。そのニルヴァーナの境地に至る為に仏教の修行があります。その修行を完成した存在を仏陀ブッダ)とお呼び致します。
 修行を完成し仏陀に成られた釈尊仏陀としての最高の悟りを開く直前における非常に深い瞑想中において無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊の体験が仏典(阿含経)に説かれている。以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。     
「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、、種々なる過去の生涯を想い起こした。すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。「我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた。このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。」
「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」(パーリ仏典、漢訳仏典参照)
また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)には悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。ジャイナ教においても修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。
しかし、このような超人的な瞑想体験が出来る人間はほとんど皆無といっていいほど稀であるとされるが、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。仏教では福力成仏という言葉があり、また舎利禮門というお経にも万徳円満、釈迦如来という言葉がある、つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。ただ単なる瞑想法や仏教の教学理論の勉強だけではブッダになることが出来ないとされる。ある古代仏教の修行法の体系を仔細に検討してみると、悪行為を止め、善行為を行う、つまり倫理の実践、道徳の実践、徳を積む修行法の比重が非常に高い事に気づかされる。
さらにまた、ここで説かれている業報思想のことを表す。業報思想とは業(カルマ)という生命エネルギーの形成力.性質.運動性により身体、言葉、心において行った行為に応じて未来、または死後においてその行為に応じた報い(形成力.性質.運動性)に則した処へと転生してゆくという思想。
自業自得という言葉があるが、つまり良き行いをする者は未来、または現世でなければ死後においてその良き行為に応じた良き報い、幸せな報いを自分自身が受ける。また悪しき行いをした者はその悪しき行いに応じた悪しき報い、不幸な報いを未来、または現世でなければ死後において自分自身が受けるという思想の事をいう。つまり善因善果悪因悪果の法則、因果の法則ともいう。
良き行為とは、例えば、殺される運命にある生き物の命を助ける、困っている生き物を助ける、苦しんでいる生き物を助ける、病人の世話をする、老いた両親の世話をする、人々に殺生や盗みなどの悪いことをさせないように教える、道徳的に生きる、慈悲の心をもつこと、思いやりの心をもつこと、また他の人にそのように教え導く。正しい仏教を多くの人々に広めることなどをいう。
悪い行為とは生き物を殺す、人の物を盗む、生き物を苦しめる、人を苦しめる。人に迷惑をかける、うそをつき人をだます行為、また他にそのように仕向ける行為、邪淫、間違った思想、世の中にとって有害な考え方を世の中に広めること,怒り、恨み、憎しみの心を持つこと、自惚れ、慢心の心を持つことなどをいう。
具体的かつ詳細な善悪の基準、判断は仏典を参照しなければならない。
仏典について言うとスッタニパータ(集経)はお釈迦様のお説きになられた言行録として最も古い経典のひとつであると学問的に認められており、また法句経(ダンマパダ)は世界的に有名な経説であり世界各国に翻訳されている。